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太田述正コラム#8036(2015.11.16)
<鄭大均編『日韓併合期ベストエッセイ集』を読む(その2)>(2016.3.2公開)

 「日本人と新付(しんぷ)日本人[朝鮮人のこと。日韓併合の時代は朝鮮人も日本国民であった]との初等教育学校は厳格に分立されていた。前者は地方自治体である学校組合の経営に属し、組合長には居住日本人中の有力者の一人が任命された。
 後者は同じく学校費(朝鮮人が組合員でその教育費を思弁する地方団体)が経営し、郡守がその管理者であった。
 ともに経費のほとんど全額が国庫から補助された。
 当然のことながら、日本人生徒の一人にかける経費は新付日本人のそれの数倍にのぼった。
 しかし名称は、日本人のが尋常小学校、新付のが普通学校で、似たり寄ったりであった。
 強いてあげ足を取るならば、小学校が中学への進学を当然予想しての名称であるのに反し、普通学校にはその着想が見当たらないぐらいのものであろう。」(67・任文桓:「’イム・ムナン)1907〜1993年。韓国・・・に生まれる。1923年16歳のとき日本へ渡り、京都で牛乳配達、人力車夫などをしながら同支社中学で学び、岡山の旧制六高を経て東京帝国大学法学部に進学する。34年高等文官試験に合格、35年より朝鮮総督府に行政官として勤務。戦後は農林部長官、韓国貿易協会会長などを歴任」(431))

⇒当時の朝鮮における、並列初等教育の実態がより詳しく分かります。(太田)

 「<私>は・・・日本学校へと上がった。
 ・・・授業料は月5銭、但し納めるまで何カ月でも待ってくれる。
 1年生から4年生までの4学級で、<私>の一年生は60名、そのうち6人が女の子であり、生徒の年は9つから最高24歳に及んだ。
 先生は日本人と新付日本人が約半々、・・・
 教科科目は国語(日本語)、朝鮮語、漢文、算術、習字、図画、唱歌、体操、それに修身で、1年生から4年生までを一貫し、歴史、地理は全くない。」(68〜69・同上)

⇒どうやら、尋常小学校に、朝鮮人も希望すれば入学できたようですね。
 授業料をとったのは、任が朝鮮人だったからでしょうか。
 (普通学校は授業料をとらなかったのではないか、と想像されますが・・。)
 にもかかわらず、授業料納入は「何カ月でも待ってくれる」とはニクイですね。
 また、「高年齢」の生徒を受け入れていたのも、それまで学ぶ機会のなかった比較的若い朝鮮人達のための温情でしょう。
 女子の少なさが気になりますが、日本人が女の子供を学校に行かせなかったことは考えにくいので、朝鮮人の親が女の子供は尋常小学校に行かせなかった、ということでしょう。
 なお、尋常小学校でも、つまりは、日本人の生徒達にも、朝鮮では朝鮮語が必修だったらしいことも驚きです。(太田)

 「<私>が故郷にいた期に日本人の友人は一人も出来なかった。
 もちろん<私>のほうで避けたわけでない。・・・
 京都、岡山、東京を、<私>は、たくさんの日本人友人と結び付けて、第二の故郷としてなつかしむのだが、<故郷>・・・にはそれがない。
 もし日本が朝鮮統治に失敗したとするならば、その責任は日本に住んだ日本人ではなく、朝鮮に住んだ日本人の負うべきものであろう。」(73〜74・同上)

⇒任の言を額面通り受け取れば、朝鮮半島にいた日本人は、大部分が一発屋的で、ヤクザの一発屋はもとより、カタギの一発屋も、朝鮮人に対して差別的であったことが、戦後の日韓関係を不幸なものにしてしまった要因の一つである、ということになりそうですが・・。(太田)
 
  「被統治民族である<私>は、己れに対する軽蔑については、それがいかに微細なものであっても、余すところなくそれを感得できる動物的本能を身に着けていた。・・・
 <そして、それに対して、>必ず仕返しを誓う<私>になっていた。・・・
 <ところが、そんな私が、初来日し、京都に向かう列車に乗ったのだが、>三等席の向い側に坐っているねんかみさんとおかみさんの体からは、軽蔑らしい陰影すら見られない。・・・
 日本人に接したかぎりにおいて、過去には体験を絶した明朗なものである。
 それからの対話の中で<分かったことだが>、・・・<彼女達は、>朝鮮・・・に住んでいる人達が、新しく日本人となり、明治維新による廃藩置県を断行したあとの日本人のように、平等自由の原則のもとで、日本に住む日本人と同じ程度に幸福に暮らしていると、確信しているらしいのである。
 時がたつにつれて、車内にいる乗客全体が、向い側に坐っている二人の日本人と同じ人間であることがはっきりして来た。
 <私>が小用のため通路を歩いて行っても、鮮人のくせに、生意気な、という眼光を投げかける人間など一人もいない。
 同じ日本人でありながら、<故郷>の町に流れついた日本人とは、まるで人種が違うかと思えるほどであった。・・・
 この後も<私>が日本にいるかぎり、たまに体制の仕打ちにより鮮人であることを思い知らされる以外に、日本人個人によって制戟されることは絶えて稀であった。
 しかし、ひとたび郷里に帰ると、自然を除いたあらゆるものが、鮮人意識を燃え上がらせる燃料となった。
 その中でも、執拗な追打ちをかけるのが、警察と称する体制と、長いこと朝鮮に住みついた日本人並びにその子孫どもであった。」(99〜100・同上)

⇒このくだりを読んで、朝鮮での話に具体的事例が出てこないこともあって、確信したのですが、任は、戦後、韓国の高官、重職を務めた人物であり、仮に日本語で書いたとしても、そのエッセイの全体を、日本人による朝鮮人差別はなかった、というトーンで貫いたならば、李承晩によって確立された反日基調の韓国で、立場がなくなってしまうので、在朝鮮の日本人は朝鮮人を差別した、ということを実態よりも著しく誇張して記した、ということです。
 全般的には、日本人は差別意識が世界でも稀なほど希薄であり、また、植民地統治も諸列強中、かけ離れて、原住民の福祉に配意したものであった、という、私のかねてからの思いが改めて裏付けられた、と申し上げておきましょう。(太田)

(続く)

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