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太田述正コラム#7874(2015.8.27)
<ヤーコブ・フッガー(その7)>(2015.12.12公開)
「・・・フッガーは、オーストリアに目を付けるに至った。
当時の鉱業ブームのお相伴にあずかろうとしたのだ。
しかし、<オーストリアの>鉱山群は、・・・シグムント<(大)>公が所有していた。
シグムントはカネの浪費家であり、自分の臣民達のためには一切費やすことなく、「小人がパイの中から飛び出して巨人と取っ組み合いをやる」といった類の気前のよい諸パーティに全てを費やした。
彼は、自分の生活を諸借入金でもって賄った。・・・」(E)
「・・・この当時、金持ちになるためには、通常、何世代にもわたってカネを稼がなければならなかった。
しかし、フッガーは諸近道を発見した、とステインメッツは説明する。
初期の大胆な若干の貸し付けが、彼を、神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世、及び、後に彼の孫のカール5世(スペイン王)、の第一位の銀行家へと変貌させた。
時の経過とともに、このハプスブルク家との関係は極めて一方に傾いたものとなり、平民として生まれたフッガーは、<ハプスブルク家の>諸君主を甘言で釣って<自分に対して>尋常ならざる恩顧を与えさせることが可能になった。
例えば、ハンガリーの彼の鉱山諸資産を守るために、彼は、「それが、オーストリア・ハンガリー帝国という、巨大な政治的火口(ほくち)箱を創り出すことは欧州の地図を引き直すことを意味するのにおかまいなしに」、マクシミリアンを婚姻同盟へと、そっと一押しした。・・・」(A)
「・・・ハプスブルク家の皇帝マクシミリアンは、諸戦争を戦い、政治諸同盟を固め、自分の家族の諸結婚費用を支払うために恒常的な金欠病状態にあった。
同時代人たるマキアヴェッリ(マキャベリ=Machiavelli)<(コラム#471、544、568、3403、3813、5238)>は、彼について、「そのだらしない(easy)性格は彼を騙されやすい存在にした。…誰でも彼に気付かれずにカモにできた。」と言っている。
換言すれば、フッガーの皇帝たる顧客は、騙され易い(soft touch)人だったのだ。・・・」(D)
「1514年に<オスマン・>トルコがハンガリーに侵攻した時<(注19)>、フッガーは、自分にとって最も儲けが多い諸財産であるところの、彼のハンガリーの銅鉱山群の価値がどうなるのかを深刻に憂慮した。
(注19)1514年にそんな事件は起こっていない。書評子の何か勘違いではないか。
https://en.wikipedia.org/wiki/Ottoman%E2%80%93Hungarian_Wars
但し、1515年にウィーン二重結婚の取り決めがなされ、その結果、カール5世(カルロス1世)の時の1526年にハプスブルク家は、ハンガリーとボヘミアの王位を入手している。
https://en.wikipedia.org/wiki/Maximilian_I,_Holy_Roman_Emperor 前掲
なお、1526年にはモハーチの戦いでハンガリー王国軍がスルタンのスレイマン1世率いるオスマントルコ軍に壊滅的敗北を喫し、ハンガリー王兼ボヘミア王のラヨシュ2世(王妃は、カール及びフェルディナンドの妹)は戦死し、ハンガリーは、ハプスブルク家(のカールの弟のフェルディナンド・オーストリア大公)が統治する王領ハンガリーと東ハンガリー王国(オスマントルコ保護国、後にトランシルヴァニア公国になる)、オスマントルコ領ハンガリー、へと三分割された。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%81%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%AB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%8B%E3%82%A2%E5%85%AC%E5%9B%BD
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%A8%E3%82%B7%E3%83%A52%E4%B8%96
ちなみに、ボヘミアは、そのままハプスブルク家のものになっている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%881%E4%B8%96_(%E7%A5%9E%E8%81%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E7%9A%87%E5%B8%9D)
外交的諸努力が失敗した後、フッガーは、「マクシミリアンに最後通牒を発して、ハンガリーと取引を行うか自分からのこれ以上の諸貸付金を断念するか、を選ばせたところ、この脅しは目的を達した。」
<その結果は上述した通りだ。>・・・
「・・・フッガーは、自分の諸所有権(holdings)を守るためにハプスブルク家によるハンガリーの獲得を必要としたのだ。
「ハプスブルク家の勝利は即フッガーの勝利でもあった」、とステインメッツは記す。
「彼の諸努力は、二つの王国群を連合させ、キリスト教圏のトルコ人達に対する諸前線を強化した」、と。
マクシミリアンが1519年に亡くなると、神聖ローマ皇帝として彼を承継するための選挙は、フランス王のフランソワ(Francis)<(注20)>と、スペインの、まだ10代の王のカルロス、に絞られた。
(注20)1494〜1547年。フランス王:1515〜47年。「1516年には、ローマ教皇レオ10世との「ボローニャの政教協約」で、国王は大司教・司教・大僧院長の指名権を持つことをローマ教皇に承認させ、フランスの国家教会主義(ガリカニスム)を完成させた。・・・ヴィクトル・ユゴーは、1832年に戯曲『王は愉しむ』(Le Roi s'amuse)を発表した。この作品はフランソワ1世の道化師トリブレが主人公で、トリブレの娘ブランシュが王に弄ばれたため王に復讐をしようとして起きる悲劇を描いた作品である。・・・特権階級の腐敗ぶりとそれに対する批判という、当時としては極めて過激な内容であったため、・・・上演禁止とな<っている>・・・。後に・・・ヴェルディによってオペラ化され、1851年に『リゴレット』として初演された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%AF1%E4%B8%96_(%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%8E%8B)
勝利者は、7人の選帝侯達に最上の諸賄賂を贈ることができる男だった。
しかし、カルロスはハプスブルク家の人間ではあったものの、フッガーは彼との関係を未だ構築しておらず、カルロスもフッガーを締め出そうとしていた。
フッガーは、「そうさせてはならなかった。」
というのも、「喪失は、彼の顔色を失わせるだけでなく、彼の帝国を危うくするかもしれなかったからだ。ハプスブルク家は、もし、フッガーがフランスを支援したら、彼の[採掘]諸契約を取り消すかもしれなかったのだ。」
<結局、>フッガーは、彼の厖大な富を「値を釣り上げる」ことに用いることに決めた。
「彼は他の誰よりも多くのカネを候補者に提供できた」、とステインメッツは記す。
「彼は、勝利の代価を非常に高く吊り上げることができ、他の誰も彼と競争できないようすることができた。
<こうして、>彼の競争相手達は脱落し、彼が残った唯一の銀行家になれたのだ」、と。
フッガーは、カルロスが、勝利を収めるためには自分の側にフッガーがいなければならないと考えることに期待して、彼はフランスを支援している印象を<あえて>与えた。
フッガーの甚大なる力はかくのごとくだったので、「彼は、カルロスが、誰が皇帝になるかを決めるのは、選帝侯達ではなく、フッガーであることを理解することを欲した。そして、彼がフランソワを支援したならば、ハプスブルク家は神聖ローマ帝国を失うであろうことも・・。
同帝国は、欧州における最大の政治的管轄権であり、ハプスブルク家の全球的支配の諸希望<の拠り所>であった。」
それが、まさに起こったことだった。
<実は、>フランソワの方が早くフッガーの重要性を理解し、10%の口銭(commission)で369,000フローリンを彼から借りようとした。
最終的に、カルロスは、自分の過ちに気付き、最後の瞬間にフッガーから借りることに合意した。
カルロスは、その時点で史上最高額の貸し付けであるところの、544,000フローリン、現在価額では7600万ドル、をフッガーが負担することでもって、勝利を収めた。>(注21)>・・・
(注21)結局、フランソワは「1票も獲得出来」なかった。・・・
1530年にカール5世・・・<との>和平の一環として、・・・<カール>の姉でポルトガル王マヌエル1世の未亡人であったレオノール(エレオノール)と2度目の結婚をしている。・・・<但し、彼女>との間の子はいない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%AF1%E4%B8%96_(%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%8E%8B) 上掲
<そのおかげで、>ハプスブルク家は、王族の第二横列的存在から、数百年にわたって欧州に君臨する存在へと押し上げられた。
フッガーの力はかくのごとくであり、彼が、神聖ローマ皇帝、スペイン・ナポリ・エルサレム王にして、「アジアとアフリカの主」たる、カール5世王に対してカネの返済を求める手紙の中で、何ら気が咎めることなく、この全能の王に対し、諸王が人々を手の一振りで殺すことができた時代にあって、「私なしでは、陛下は帝位を得られることはなかったこと」を思い起こさせ、返済を「これ以上の遅滞なく」行うよう求めたものだ。・・・」(E)
(続く)
<ヤーコブ・フッガー(その7)>(2015.12.12公開)
「・・・フッガーは、オーストリアに目を付けるに至った。
当時の鉱業ブームのお相伴にあずかろうとしたのだ。
しかし、<オーストリアの>鉱山群は、・・・シグムント<(大)>公が所有していた。
シグムントはカネの浪費家であり、自分の臣民達のためには一切費やすことなく、「小人がパイの中から飛び出して巨人と取っ組み合いをやる」といった類の気前のよい諸パーティに全てを費やした。
彼は、自分の生活を諸借入金でもって賄った。・・・」(E)
「・・・この当時、金持ちになるためには、通常、何世代にもわたってカネを稼がなければならなかった。
しかし、フッガーは諸近道を発見した、とステインメッツは説明する。
初期の大胆な若干の貸し付けが、彼を、神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世、及び、後に彼の孫のカール5世(スペイン王)、の第一位の銀行家へと変貌させた。
時の経過とともに、このハプスブルク家との関係は極めて一方に傾いたものとなり、平民として生まれたフッガーは、<ハプスブルク家の>諸君主を甘言で釣って<自分に対して>尋常ならざる恩顧を与えさせることが可能になった。
例えば、ハンガリーの彼の鉱山諸資産を守るために、彼は、「それが、オーストリア・ハンガリー帝国という、巨大な政治的火口(ほくち)箱を創り出すことは欧州の地図を引き直すことを意味するのにおかまいなしに」、マクシミリアンを婚姻同盟へと、そっと一押しした。・・・」(A)
「・・・ハプスブルク家の皇帝マクシミリアンは、諸戦争を戦い、政治諸同盟を固め、自分の家族の諸結婚費用を支払うために恒常的な金欠病状態にあった。
同時代人たるマキアヴェッリ(マキャベリ=Machiavelli)<(コラム#471、544、568、3403、3813、5238)>は、彼について、「そのだらしない(easy)性格は彼を騙されやすい存在にした。…誰でも彼に気付かれずにカモにできた。」と言っている。
換言すれば、フッガーの皇帝たる顧客は、騙され易い(soft touch)人だったのだ。・・・」(D)
「1514年に<オスマン・>トルコがハンガリーに侵攻した時<(注19)>、フッガーは、自分にとって最も儲けが多い諸財産であるところの、彼のハンガリーの銅鉱山群の価値がどうなるのかを深刻に憂慮した。
(注19)1514年にそんな事件は起こっていない。書評子の何か勘違いではないか。
https://en.wikipedia.org/wiki/Ottoman%E2%80%93Hungarian_Wars
但し、1515年にウィーン二重結婚の取り決めがなされ、その結果、カール5世(カルロス1世)の時の1526年にハプスブルク家は、ハンガリーとボヘミアの王位を入手している。
https://en.wikipedia.org/wiki/Maximilian_I,_Holy_Roman_Emperor 前掲
なお、1526年にはモハーチの戦いでハンガリー王国軍がスルタンのスレイマン1世率いるオスマントルコ軍に壊滅的敗北を喫し、ハンガリー王兼ボヘミア王のラヨシュ2世(王妃は、カール及びフェルディナンドの妹)は戦死し、ハンガリーは、ハプスブルク家(のカールの弟のフェルディナンド・オーストリア大公)が統治する王領ハンガリーと東ハンガリー王国(オスマントルコ保護国、後にトランシルヴァニア公国になる)、オスマントルコ領ハンガリー、へと三分割された。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%81%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%AB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%8B%E3%82%A2%E5%85%AC%E5%9B%BD
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%A8%E3%82%B7%E3%83%A52%E4%B8%96
ちなみに、ボヘミアは、そのままハプスブルク家のものになっている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%881%E4%B8%96_(%E7%A5%9E%E8%81%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E7%9A%87%E5%B8%9D)
外交的諸努力が失敗した後、フッガーは、「マクシミリアンに最後通牒を発して、ハンガリーと取引を行うか自分からのこれ以上の諸貸付金を断念するか、を選ばせたところ、この脅しは目的を達した。」
<その結果は上述した通りだ。>・・・
「・・・フッガーは、自分の諸所有権(holdings)を守るためにハプスブルク家によるハンガリーの獲得を必要としたのだ。
「ハプスブルク家の勝利は即フッガーの勝利でもあった」、とステインメッツは記す。
「彼の諸努力は、二つの王国群を連合させ、キリスト教圏のトルコ人達に対する諸前線を強化した」、と。
マクシミリアンが1519年に亡くなると、神聖ローマ皇帝として彼を承継するための選挙は、フランス王のフランソワ(Francis)<(注20)>と、スペインの、まだ10代の王のカルロス、に絞られた。
(注20)1494〜1547年。フランス王:1515〜47年。「1516年には、ローマ教皇レオ10世との「ボローニャの政教協約」で、国王は大司教・司教・大僧院長の指名権を持つことをローマ教皇に承認させ、フランスの国家教会主義(ガリカニスム)を完成させた。・・・ヴィクトル・ユゴーは、1832年に戯曲『王は愉しむ』(Le Roi s'amuse)を発表した。この作品はフランソワ1世の道化師トリブレが主人公で、トリブレの娘ブランシュが王に弄ばれたため王に復讐をしようとして起きる悲劇を描いた作品である。・・・特権階級の腐敗ぶりとそれに対する批判という、当時としては極めて過激な内容であったため、・・・上演禁止とな<っている>・・・。後に・・・ヴェルディによってオペラ化され、1851年に『リゴレット』として初演された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%AF1%E4%B8%96_(%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%8E%8B)
勝利者は、7人の選帝侯達に最上の諸賄賂を贈ることができる男だった。
しかし、カルロスはハプスブルク家の人間ではあったものの、フッガーは彼との関係を未だ構築しておらず、カルロスもフッガーを締め出そうとしていた。
フッガーは、「そうさせてはならなかった。」
というのも、「喪失は、彼の顔色を失わせるだけでなく、彼の帝国を危うくするかもしれなかったからだ。ハプスブルク家は、もし、フッガーがフランスを支援したら、彼の[採掘]諸契約を取り消すかもしれなかったのだ。」
<結局、>フッガーは、彼の厖大な富を「値を釣り上げる」ことに用いることに決めた。
「彼は他の誰よりも多くのカネを候補者に提供できた」、とステインメッツは記す。
「彼は、勝利の代価を非常に高く吊り上げることができ、他の誰も彼と競争できないようすることができた。
<こうして、>彼の競争相手達は脱落し、彼が残った唯一の銀行家になれたのだ」、と。
フッガーは、カルロスが、勝利を収めるためには自分の側にフッガーがいなければならないと考えることに期待して、彼はフランスを支援している印象を<あえて>与えた。
フッガーの甚大なる力はかくのごとくだったので、「彼は、カルロスが、誰が皇帝になるかを決めるのは、選帝侯達ではなく、フッガーであることを理解することを欲した。そして、彼がフランソワを支援したならば、ハプスブルク家は神聖ローマ帝国を失うであろうことも・・。
同帝国は、欧州における最大の政治的管轄権であり、ハプスブルク家の全球的支配の諸希望<の拠り所>であった。」
それが、まさに起こったことだった。
<実は、>フランソワの方が早くフッガーの重要性を理解し、10%の口銭(commission)で369,000フローリンを彼から借りようとした。
最終的に、カルロスは、自分の過ちに気付き、最後の瞬間にフッガーから借りることに合意した。
カルロスは、その時点で史上最高額の貸し付けであるところの、544,000フローリン、現在価額では7600万ドル、をフッガーが負担することでもって、勝利を収めた。>(注21)>・・・
(注21)結局、フランソワは「1票も獲得出来」なかった。・・・
1530年にカール5世・・・<との>和平の一環として、・・・<カール>の姉でポルトガル王マヌエル1世の未亡人であったレオノール(エレオノール)と2度目の結婚をしている。・・・<但し、彼女>との間の子はいない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%AF1%E4%B8%96_(%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%8E%8B) 上掲
<そのおかげで、>ハプスブルク家は、王族の第二横列的存在から、数百年にわたって欧州に君臨する存在へと押し上げられた。
フッガーの力はかくのごとくであり、彼が、神聖ローマ皇帝、スペイン・ナポリ・エルサレム王にして、「アジアとアフリカの主」たる、カール5世王に対してカネの返済を求める手紙の中で、何ら気が咎めることなく、この全能の王に対し、諸王が人々を手の一振りで殺すことができた時代にあって、「私なしでは、陛下は帝位を得られることはなかったこと」を思い起こさせ、返済を「これ以上の遅滞なく」行うよう求めたものだ。・・・」(E)
(続く)
太田述正ブログは移転しました 。
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