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太田述正コラム#7862(2015.8.21)
<ヤーコブ・フッガー(その2)>(2015.12.6公開)

A:http://www.washingtonpost.com/news/book-party/wp/2015/08/06/he-remade-capitalism-religion-and-history-youve-probably-never-heard-of-him/
(8月8日アクセス(以下同じ))
B:http://www.economist.com/news/books-and-arts/21660074-not-nothing-was-jacob-fugger-known-jacob-rich-goldenballs
C:http://www.nytimes.com/2015/08/02/books/review/the-richest-man-who-ever-lived-by-greg-steinmetz.html?_r=0
D:http://www.wsj.com/articles/germanys-most-ruthless-banker-1438210369
E:http://nypost.com/2015/07/26/meet-historys-richest-man-who-changed-christianity/
F:http://www.reuters.com/article/2015/08/04/us-money-books-richestman-idUSKCN0Q91P920150804
G:http://www.buffalonews.com/life-arts/book-reviews/review-the-richest-man-who-ever-lived-by-greg-steinmetz-20150726

2 ヤーコブ・フッガー

 (1)序

 「・・・<著者は、>ヤーコブ・フッガーが歴史を通じて最も影響力を持った実業家であった、と宣言する。
 フッガーが歴史を通じて最も金持ちの男だったという彼の主張に比べれば、この主張は途方もなくはない。

⇒誰が見ても、「最も金持ち」というのはナンセンスのようですね。(太田)

 ・・・フッガーは、その銀行家達としての評判が、そのルネッサンス芸術に係る素晴らしい審美眼(taste)によって輝いたところの、コジモ・デ・メディチ(Cosimo de Medici)<(注1)>と彼のフィレンツェの息子達と従兄弟達ほど世に知られていない(celebrated)。

 (注1)1389〜1464年。「フィレンツェ共和国・・・の銀行家である。メディチ家のフィレンツェ支配を確立した。・・・ルネサンス期の重要なパトロンの一人としても知られ、美術ではフィリッポ・ブルネレスキ、ミケロッツォ、ドナテッロらを庇護した。また、・・・プラトンの思想に心酔して、私的な学芸サークルプラトン・アカデミーの基礎を作り、人文主義者マルシリオ・フィチーノにプラトン全集の翻訳を行わせたことで、ルネサンス期にネオプラトニズム(新プラトン主義)を刻印した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%B8%E3%83%A2%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%81

 しかし、フッガーはメディチより銀行家としては優れていた。・・・」(B)

 「フッガーの祖先は元は農民だったが富んだ衣類商人達になった。
 それでも、フッガーがヴェネツィア・・当時、「地上で最も商業志向的であった都市」だった・・で徒弟奉公生活を始めた頃は、「屋根裏部屋で、他のドイツ人達の傍らで、藁を敷き詰めた床の上で」寝たものだ。・・・」(E)

 「<フッガーが生まれた>アウクスブルク・・・は、<当時、>いかなる封建領主に仕えることもない「自由都市(free city)」<(注2)>であり、イタリアと低地地帯(Low Countries)との間の交易路にまさに位置しており、中欧の銀や銅の大鉱山群にも近かった。

 (注2)Freistadt。「自由都市とは本来、司教都市の中で、司教や大司教の統制から脱して皇帝直属の地位を得た都市が、他の帝国都市(貢納や軍役の義務を負う)と異なって貢納や軍役などから自由であったことを意味していた。この点で、自由都市と帝国都市は別個の概念であった。しかし、帝国都市の勃興と皇帝権の低下にともない、帝国都市に課されていた義務も形骸化し、自由都市と帝国都市の差異が消失していった。このため、自立性の強い都市を総じて帝国自由都市と称するようになった。帝国自由都市は領邦と同等の地位にあり、帝国議会へ代表を派遣することができた。」 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E9%83%BD%E5%B8%82
 「この帝国自由都市の存在は、所領の農奴が<そこへ>逃亡して労働力が失われるなど、各地の領邦君主にとって望ましくない存在であった。また、領邦君主が自らの権力強化を図るのであれば、都市に蓄積されている富を狙わない手はなかった。16世紀より、宗教改革の波に乗じて、領邦君主はアウクスブルクの宗教和議を通じて領邦教会体制を確立させた。これにより所領内の教会を統制下におき集権化を進め、さらに各都市への統制強化を図った。多くの都市はこうして領邦君主の統制下におかれ、自治権の多くを剥奪された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E8%87%AA%E7%94%B1%E9%83%BD%E5%B8%82#.E5.B8.9D.E5.9B.BD.E9.83.BD.E5.B8.82
 「<更に、後に、>ナポレオンの征服<にともない>、ハンブルク、ブレーメン、リューベック、フランクフルト・アム・マインの4つの都市のみが<、爾後、>自由都市としての地位を保<つこととな>った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E9%83%BD%E5%B8%82 前掲

 フッガー家の人々は、他のアウクスブルクの商人兼銀行家達とともに、彼らの鉱山群の産出物によって担保されたところの、貸金群を地域の統治者達に提供した。・・・」(D)

 「フッガーは一財産を築き、彼が死去した1525年には、それは、「欧州の経済的産出(output)の2%をちょっと下回る」くらいにまで達した。
 ヴァンダービルト(Vanderbilt)<(注3)>もゲーツ(Gates)<(前出)>も、これほど決定的な(pivotal)財産をコントロールしたことはない。・・・」(E)

 (注3)「<米>国で19世紀前半に社会的に有名となった・・・一族である。一家の財産は海運業と鉄道事業の有力者コーネリアス・ヴァンダービルトによって築かれ、最終的に様々な産業に手を広げ、20世紀には慈善事業も行・・・うようになった。コーネリアスの息子で後継者のウィリアム・ヘンリー・ヴァンダービルトは財産を増やし、1877年に亡くなるまで世界一裕福であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%93%E3%83%AB%E3%83%88%E5%AE%B6

(続く)

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