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太田述正コラム#7842(2015.8.11)
<戦中の英領インド(その4)>(2015.11.26公開)
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本日、新たに、ガーディアンがこの本の書評を載せました。↓
G:http://www.theguardian.com/books/2015/aug/09/the-raj-at-war-peoples-history-india-second-world-war-review-conflict-british-rule-yasmin-khan
(8月11日アクセス)
この書評中、紹介したい部分の冒頭をここにご披露しますが、残りは、最終回あたりに持って行こうと思います。
「・・・<インド亜大陸人達が先の大戦で英国のために戦ったことは、>長い間、殆んど完全に忘れ去られていた。
インドでは、何百万もの人々が彼らの帝国主義的なご主人様達のために戦うべく志願したなどという話は、英インド当局に対する普遍的反対というナショナリズム的物語(narrative)とうまく噛みあわなかったからだ。
英国の側もまた、ドイツによる空爆に晒されていた国の孤独なナチスに対する対峙という物語(story)の中に、大戦(the conflict)の中における帝国<(=植民地(太田))>の果たした役割を統合するなどということは困難だったからだ。・・・」(G)
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(4)第二の衝撃:インド国民軍
「・・・私の世代の若干の英国人達は、いまだに、INA<(インド国民軍)>というイニシャルを見るとひるむ。
誰であれ、かつて忠実だったジャワン(jawan)<(注8)>が脱走することができるとか、日本人達へ忠誠の対象を切り替えることができるとか、自分達の同僚達や同じ釜の飯を食った仲間達を失望させ、日本に唆された第五列・・ボース(Bose)のような卑怯な裏切り者に従う者・・たりうる、ということに、痛みを伴う瞠目といった類のものを示す。
(注8)ジャワンとは、「南アジアにおける(とりわけ歩兵の)下級兵士(junior soldier)。この言葉は、通常、インドとパキスタンの将校未満の全諸階級を指すところ、いくつかの南アジアの諸言語において、文字通り、「若い」を意味するところの、ペルシャ起源の言葉である。」
https://en.wikipedia.org/wiki/Jawan
『英領インド当局4部作(The Raj Quartet)』<(注9)>のファン達は、<その中に登場する>テディ・ビンガム(Teddie Bingham)がマニプール(Manipur)でのインド国民軍の待ち伏せの犠牲になる瞬間を覚えているかもしれない。
(注9)1965〜75年にかけて書かれた、英領インド末期を描いた、ポール・スコット(Paul Scott)による小説。
https://en.wikipedia.org/wiki/The_Raj_Quartet
すなわち、物事の原則からというよりも、精神病的な警官のロナルド・メリック(Ronald Merrick)が、全ての脱走兵に対して、復讐を行うかもしれないことへの恐れから、彼は、彼の兵士達を忠実であり続けるよう説得しようと試みて死ぬ。
ヤスミン・カーンは、冷静かつ公平であり、インド国民軍に対し、より同情的な描写を行い、ボースの本性と影響を、より注意深く考察するよう我々に促す。
彼女は、彼が、デリーでの自宅軟禁から脱出して陸路欧州に赴いた後に1942年にドイツから行った最初の放送を回顧する。
彼の演説を聞いた者達の間では、「18世紀以来、<世界の人々の>生活を形成してきたところの、欧州の東方に対する覇権的権力に対して挑戦することになるかもしれない、新しい世界秩序に係る高揚的スリル感」的な感覚を覚えた。
要するに、ボースのメッセージは極めて単純なものだった。
すなわち、枢軸諸大国がインドにとって脅威であるとの主張は、「真っ赤な嘘だ・・。私自身のこれら3国についての知識から、私は、その反対であって、彼らは、インド及びインドの独立に対する同情及び善意以外の何物も抱いてはいない、と主張することができる」、と。
このメッセージの先触れとして、カーンは、この本のプロローグを、3人のインド国民軍の指導者達・・シーク教徒とイスラム教徒とヒンドゥー教徒・・の1946年1月のデリーのレッドフォート(Red Fort)<(コラム#14、4554、7233)>における勾留からの戦後の解放についての感動的な(stirring)叙述から始める。
数千、恐らくは数百万、の喜んだインド人達・・「我々の解放の喜びで発狂した」と自由になった男達の一人が書いている・・は、デリーと<現在はパキスタンの>ラホールの街々へと繰り出し、群れ、これらの男達に花輪をかけた。
彼らの強制的な救出という屈辱的徴表が生み出したもの、すなわち、英国は彼らの支配力(grip)、ひいては、彼らがインドに留まる願い、を失いつつあること、を歓喜するために・・。
12か月ちょっとの間に、ボンベイの歩道に降ったモンスーンの雨のように、全てが蒸発してしまった。
インド副王のサー・アーチボルド・ウェーヴェル(Archibald Wavell)<(注10)(コラム#5124、4552)>は帰国させられ、マウントバッテン(Mountbatten)<(コラム#3486、5302)>が彼に代わって派遣された。
(注10)初代ウェーヴェル伯爵アーチボルド・パーシヴァル・ウェーヴェル元帥(Field Marshal Archibald Percival Wavell, 1st Earl Wavell。1883〜1950年)。「第二次世界大戦開戦時に中東駐留軍司令官の地位にあり、北アフリカ戦線でエルヴィン・ロンメル率いるドイツ軍と対峙したが、敗北して1941年に解任される。その後インド駐留軍司令部司令官・ABDA司令部司令官としてアジア方面で日本軍との戦闘の指揮を執るも再び敗北。1943年10月からインド総督に就任し、行政分野に転じた。」ウィンチェスター校、陸士卒。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%AB_(%E5%88%9D%E4%BB%A3%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%AB%E4%BC%AF%E7%88%B5) ABDA司令部(Australian-British-Dutch-American (ABDA) Command, American-British-Dutch-Australian Command, ABDACOM)あるいは米英蘭豪司令部。「太平洋戦争初期において、<豪>(Australia)・<英>(British)・<蘭>(Dutch)・<米>国(America)が東南アジアでの対日本軍事作戦指揮のため設置した多国籍コマンドである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/ABDA%E5%8F%B8%E4%BB%A4%E9%83%A8
そして、ジャワハルラル・ネール(Jawaharlal Nehru)、ムハンマド・アリー・ジンナー(Muhammad Ali Jinnah)、及び、マハトマ・ガンディー(Mahatma Gandhi)は、いつの間にか再び脚光を浴び始めた。
この国の諸軍隊、諸列車、諸図書館、及び、諸州は、苦心して分割され、分離の諸線は、パンジャブ州とベンガル州の精密地図(ordnance map)の上に引かれた。
わずか1年半の後、1947年8月15日の「世界が寝ている時である」深夜の鐘の音とともに、インドは、ネールが呼んだところの、「運命との逢引(tryst with destiny)」を経験し、ついに自由になった。
分割は完全だった。
こうして、パキスタン自治領(Dominion of Pakistan)が生まれたのだ。
ボースは、1945年に日本の飛行機の墜落でひどい火傷を負って死んだ。
しかし、彼の戦闘の雄叫びである、「我に血を与えよ、さすれば我は汝に自由を与えん」!、は多くの人々の見解では、長く生き続けることだろう。
スバス・チャンドラ・ボース(Subhas Chandra Bose)を産んだ戦争はインドの戦争ではなかった。
それは、大英帝国のための戦争だった。
それは、インドでは正統性のない戦争だった。
そして、それによって放たれた妖怪達(spectres)の正統性は、インド人達が白人たちの諸大義のために戦いへと強制されなければならない、とそもそも最初に要求した者達の正統性といい勝負だったのだ。・・・」(E)
(続く)
<戦中の英領インド(その4)>(2015.11.26公開)
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本日、新たに、ガーディアンがこの本の書評を載せました。↓
G:http://www.theguardian.com/books/2015/aug/09/the-raj-at-war-peoples-history-india-second-world-war-review-conflict-british-rule-yasmin-khan
(8月11日アクセス)
この書評中、紹介したい部分の冒頭をここにご披露しますが、残りは、最終回あたりに持って行こうと思います。
「・・・<インド亜大陸人達が先の大戦で英国のために戦ったことは、>長い間、殆んど完全に忘れ去られていた。
インドでは、何百万もの人々が彼らの帝国主義的なご主人様達のために戦うべく志願したなどという話は、英インド当局に対する普遍的反対というナショナリズム的物語(narrative)とうまく噛みあわなかったからだ。
英国の側もまた、ドイツによる空爆に晒されていた国の孤独なナチスに対する対峙という物語(story)の中に、大戦(the conflict)の中における帝国<(=植民地(太田))>の果たした役割を統合するなどということは困難だったからだ。・・・」(G)
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(4)第二の衝撃:インド国民軍
「・・・私の世代の若干の英国人達は、いまだに、INA<(インド国民軍)>というイニシャルを見るとひるむ。
誰であれ、かつて忠実だったジャワン(jawan)<(注8)>が脱走することができるとか、日本人達へ忠誠の対象を切り替えることができるとか、自分達の同僚達や同じ釜の飯を食った仲間達を失望させ、日本に唆された第五列・・ボース(Bose)のような卑怯な裏切り者に従う者・・たりうる、ということに、痛みを伴う瞠目といった類のものを示す。
(注8)ジャワンとは、「南アジアにおける(とりわけ歩兵の)下級兵士(junior soldier)。この言葉は、通常、インドとパキスタンの将校未満の全諸階級を指すところ、いくつかの南アジアの諸言語において、文字通り、「若い」を意味するところの、ペルシャ起源の言葉である。」
https://en.wikipedia.org/wiki/Jawan
『英領インド当局4部作(The Raj Quartet)』<(注9)>のファン達は、<その中に登場する>テディ・ビンガム(Teddie Bingham)がマニプール(Manipur)でのインド国民軍の待ち伏せの犠牲になる瞬間を覚えているかもしれない。
(注9)1965〜75年にかけて書かれた、英領インド末期を描いた、ポール・スコット(Paul Scott)による小説。
https://en.wikipedia.org/wiki/The_Raj_Quartet
すなわち、物事の原則からというよりも、精神病的な警官のロナルド・メリック(Ronald Merrick)が、全ての脱走兵に対して、復讐を行うかもしれないことへの恐れから、彼は、彼の兵士達を忠実であり続けるよう説得しようと試みて死ぬ。
ヤスミン・カーンは、冷静かつ公平であり、インド国民軍に対し、より同情的な描写を行い、ボースの本性と影響を、より注意深く考察するよう我々に促す。
彼女は、彼が、デリーでの自宅軟禁から脱出して陸路欧州に赴いた後に1942年にドイツから行った最初の放送を回顧する。
彼の演説を聞いた者達の間では、「18世紀以来、<世界の人々の>生活を形成してきたところの、欧州の東方に対する覇権的権力に対して挑戦することになるかもしれない、新しい世界秩序に係る高揚的スリル感」的な感覚を覚えた。
要するに、ボースのメッセージは極めて単純なものだった。
すなわち、枢軸諸大国がインドにとって脅威であるとの主張は、「真っ赤な嘘だ・・。私自身のこれら3国についての知識から、私は、その反対であって、彼らは、インド及びインドの独立に対する同情及び善意以外の何物も抱いてはいない、と主張することができる」、と。
このメッセージの先触れとして、カーンは、この本のプロローグを、3人のインド国民軍の指導者達・・シーク教徒とイスラム教徒とヒンドゥー教徒・・の1946年1月のデリーのレッドフォート(Red Fort)<(コラム#14、4554、7233)>における勾留からの戦後の解放についての感動的な(stirring)叙述から始める。
数千、恐らくは数百万、の喜んだインド人達・・「我々の解放の喜びで発狂した」と自由になった男達の一人が書いている・・は、デリーと<現在はパキスタンの>ラホールの街々へと繰り出し、群れ、これらの男達に花輪をかけた。
彼らの強制的な救出という屈辱的徴表が生み出したもの、すなわち、英国は彼らの支配力(grip)、ひいては、彼らがインドに留まる願い、を失いつつあること、を歓喜するために・・。
12か月ちょっとの間に、ボンベイの歩道に降ったモンスーンの雨のように、全てが蒸発してしまった。
インド副王のサー・アーチボルド・ウェーヴェル(Archibald Wavell)<(注10)(コラム#5124、4552)>は帰国させられ、マウントバッテン(Mountbatten)<(コラム#3486、5302)>が彼に代わって派遣された。
(注10)初代ウェーヴェル伯爵アーチボルド・パーシヴァル・ウェーヴェル元帥(Field Marshal Archibald Percival Wavell, 1st Earl Wavell。1883〜1950年)。「第二次世界大戦開戦時に中東駐留軍司令官の地位にあり、北アフリカ戦線でエルヴィン・ロンメル率いるドイツ軍と対峙したが、敗北して1941年に解任される。その後インド駐留軍司令部司令官・ABDA司令部司令官としてアジア方面で日本軍との戦闘の指揮を執るも再び敗北。1943年10月からインド総督に就任し、行政分野に転じた。」ウィンチェスター校、陸士卒。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%AB_(%E5%88%9D%E4%BB%A3%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%AB%E4%BC%AF%E7%88%B5) ABDA司令部(Australian-British-Dutch-American (ABDA) Command, American-British-Dutch-Australian Command, ABDACOM)あるいは米英蘭豪司令部。「太平洋戦争初期において、<豪>(Australia)・<英>(British)・<蘭>(Dutch)・<米>国(America)が東南アジアでの対日本軍事作戦指揮のため設置した多国籍コマンドである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/ABDA%E5%8F%B8%E4%BB%A4%E9%83%A8
そして、ジャワハルラル・ネール(Jawaharlal Nehru)、ムハンマド・アリー・ジンナー(Muhammad Ali Jinnah)、及び、マハトマ・ガンディー(Mahatma Gandhi)は、いつの間にか再び脚光を浴び始めた。
この国の諸軍隊、諸列車、諸図書館、及び、諸州は、苦心して分割され、分離の諸線は、パンジャブ州とベンガル州の精密地図(ordnance map)の上に引かれた。
わずか1年半の後、1947年8月15日の「世界が寝ている時である」深夜の鐘の音とともに、インドは、ネールが呼んだところの、「運命との逢引(tryst with destiny)」を経験し、ついに自由になった。
分割は完全だった。
こうして、パキスタン自治領(Dominion of Pakistan)が生まれたのだ。
ボースは、1945年に日本の飛行機の墜落でひどい火傷を負って死んだ。
しかし、彼の戦闘の雄叫びである、「我に血を与えよ、さすれば我は汝に自由を与えん」!、は多くの人々の見解では、長く生き続けることだろう。
スバス・チャンドラ・ボース(Subhas Chandra Bose)を産んだ戦争はインドの戦争ではなかった。
それは、大英帝国のための戦争だった。
それは、インドでは正統性のない戦争だった。
そして、それによって放たれた妖怪達(spectres)の正統性は、インド人達が白人たちの諸大義のために戦いへと強制されなければならない、とそもそも最初に要求した者達の正統性といい勝負だったのだ。・・・」(E)
(続く)
太田述正ブログは移転しました 。
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