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太田述正コラム#7770(2015.7.6)
<現代日本人かく語りき(続)(その3)>(2015.10.21公開)

 「三、捕虜の扱いをめぐる国際条約の無視・・・」

⇒下掲を参照してください。↓
 「日清戦争においては、清軍兵士が捕虜である自覚が全く無く集団で反抗する事が日常茶飯事であったこと、清軍が日本の捕虜に対し残酷極まりない辱めを与えたことから、日本側でも清軍の捕虜の扱いは酷いものであった。日露戦争、第一次世界大戦などでは、戦時国際法を遵守して捕虜を厚遇したことが知られている。ただし前述の経緯から、非白人の捕虜に対しては、白人の捕虜ほど厚遇はされなかった。・・・シベリア出兵<で>・・・は国家対国家の正式な戦争ではなかった事、日本側の軍人、民間人が虐殺行為を受ける事がしばしばあった事(尼港事件)もあいまって、捕虜の厚遇などは全く見られなくなる。特にボリシェヴィキが組織した赤軍や労働者・農民からなる非正規軍、パルチザンの存在が兵士たちを困惑させ、時には虐殺行為すら生じた。これが日本軍における捕虜の扱いにおいての転換点となった。・・・太平洋戦争<では、>・・・日本軍兵士自身の投降については戦陣訓により厳しく戒められるようになった。・・・連合国側は、開戦直後から日本にジュネーヴ条約の相互適用を求めた。日本は陸・海軍の反対でジュネーヴ条約を批准しておらず、調印のみ済ませていた。日本側は外務省と陸軍省などの協議の結果、ジュネーヴ条約を「準用」すると回答した。」」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8D%95%E8%99%9C
 つまり、日本の帝国陸軍は、第一に、日露戦争の時のロシア軍や第一次世界大戦の時のドイツ軍を除き、捕虜を虐待・虐殺するところの、非近代軍たる支那国軍(清軍、中華民国軍等、そして先の大戦の最終場面におけるソ連軍)や馬賊、そして、ロシアや支那のゲリラ(ロシアのパルチザン、支那の人民解放軍、及び、先の大戦中に英軍が組織したマラヤ等におけるゲリラ)を主敵としてきたこと、また、第二に、日支戦争が始まってからは、縄文モード化しつつあった日本社会で育ち、生活していたところの、大部分が縄文人であったところの、徴兵された兵士を弥生人的な人間へと鍛え上げるためには捕虜になることについても抑制しなければならなかった・・つまり、「日本に捕虜はいない」(保阪の引用)・・こと、から、ジュネーヴ条約の批准が困難であった、という背景があったのに、保阪は、そういった事情を一顧だにしていません。
 帝国陸軍は、それでも、英(含む豪)、蘭、米軍捕虜に対し、基本的に日本兵並の処遇を与えた(コラム#省略)のですから、むしろ、この件での英米の日本批判や戦後の戦犯化・処刑こそ咎められるべきなのです。(太田)

 「正論を圧殺していった軍内部・・・
 統帥権は明治憲法の第11条・・・に規定されていますが、法的定義があいまいで、解釈次第でいかようにも運用できる危険性を孕んでいた・・・」

⇒陸軍や海軍の内部で、ひとたび意思決定がなされてから反対少数意見が「圧殺」されるのは、どんな組織においても当然なことですし、軍は有事対処にあたる組織であって一糸乱れぬ行動が要請される以上、必要不可欠である、と言えるでしょう。
 なお、軍と内閣の関係に係る統帥権独立問題が、軍内部の言論「圧殺」と何の関係があるのか定かではありませんが、軍事作戦への非専門家の介入の禁止という本来の意味で唱えられた統帥権独立は、明治憲法の条文において同じ表現で規定されていたために、やはり一応は唱えられていた外交権独立よりもむしろ筋が良い「学説」であった上に、保阪自身が認めているように、その条文は、広狭様々な解釈の余地のある規定であったわけです。
 それに加えて、あえて申し上げますが、かねてから私が力説してきたように、日本では明治憲法であれ、現行憲法であれ、憲法に規範性はないので、統帥権独立について唱えられる「学説」の幅に、そもそも限界などないのです。
 だからこそ、統帥権独立の解釈は、その時々の政府(ないし学者(多数説))によって、いかようにも変化しうるし、現に変化して行ったのです。
 具体的に見てみましょう。
 まず、「1913年(大正2)には軍部大臣の補任資格を「現役」に限る制度が改められ・・・1936年(昭和11年)に軍部大臣現役武官制は復活」するまで続いた・・・<但し>、実際の運用では、予備役・後備役・退役の将官などから軍部大臣を任命した例はなく、一旦現役に復帰してから大臣に任命した。・・・<なお>、1944年の小磯内閣成立時には、当時予備役であった米内光政が勅旨により現役復帰して海軍大臣に就任している<ところ、>現役武官制復活以降、予備役将官が現役復帰して軍部大臣となったのはこれが唯一の例である。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E9%83%A8%E5%A4%A7%E8%87%A3%E7%8F%BE%E5%BD%B9%E6%AD%A6%E5%AE%98%E5%88%B6
という事実を頭に入れてください。
 その(必ずしも現役軍人ではなくてもよいところの、)軍部大臣不在の場合に、(非軍人であっても、)内閣総理大臣が(大臣事務管理として)兼任できることが内閣法制によって認められており、現に、ワシントン会議の際、(非軍人であったところの、)原敬首相が海軍大臣を兼任したことがあります。
http://go-home-quickly.seesaa.net/article/390841855.html
 また、東条英機は、1944年2月、内閣総理大臣兼陸軍大臣であった時に、更に参謀総長を兼任しており、同時期に、海軍大臣の嶋田繁太郎もまた軍令部総長を兼任しています。
 これは、当時憲法違反(統帥権独立違反)という指弾を各方面から受けています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%A2%9D%E8%8B%B1%E6%A9%9F
 しかし、これは、むしろ、統帥権独立の憲法解釈がいかようにも変更の余地があったこと、ひいては、明治憲法に規範性がなかったこと、を示す端的な事例であると言うべきでしょう。
 で、以上を組み合わせると、非軍人たる内閣総理大臣が、陸海軍大臣、更には、参謀総長及び軍令部長を兼任することさえ、明治憲法の下で、可能であると解釈される寸前まで来ていた、ということになるのです。
 奇しくも、現行憲法の下において、内閣総理大臣は自衛隊の最高の指揮監督権を有することとされているところ、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E9%AB%98%E6%8C%87%E6%8F%AE%E5%AE%98
現行憲法の文理解釈上明らかに違憲であるにもかかわらず合憲とされている自衛隊なる軍隊の存在と相まって、我々は、日本の戦前と戦後における、軍指揮管理制度、及び、憲法の無規範性、の一貫性を見出すことができるのではないでしょうか。(太田)

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[明治憲法に規範性がなかったことの最大の根拠]

 この際、備忘録的に、表記について、従来十分論じていなかった点を若干補足しておく。

 「1881年(明治14年)に自由民権運動の流れの中、憲法制定論議が高まり、政府内でも君主大権を残すビスマルク憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われ、前者を支持する伊藤博文と井上毅が、後者を支持する大隈重信とブレーンの慶應義塾門下生を政府から追放した政治事件である。1881年政変ともいう。近代日本の国家構想を決定付けたこの事件により、後の1890年(明治23年)に施行された大日本帝国憲法は、君主大権を残すビスマルク憲法を模範とすることが決まったといえる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%8D%81%E5%9B%9B%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%94%BF%E5%A4%89
 つまり、明治憲法は、君主主権の憲法として、事実上の人民主権であるところの、議院内閣制を排除した形で制定されたわけだ。
 ところが、「大正デモクラシーが起こると、民本主義思想とイギリスの議院内閣制にならい、「民意は衆議院議員総選挙を通して反映されるのであるから、衆議院の第一党が与党となって内閣を組閣すべきである。また、内閣が失敗して総辞職におよんだ場合、そのまま与党から代わりの内閣が登場すれば、それは民意を受けた内閣ではない。それならば、直近の選挙時に立ち返り、次席与党たる第一野党が政権を担当すべきである」という原理にもとづいて、元老による内閣首班の推薦がおこなわれるようになった」という、いわゆる憲政の常道・・事実上の議院内閣制・・が1924年6月の加藤高明憲政会内閣において確立し、挙国一致体制に移行した1931年12月まで続く。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%86%B2%E6%94%BF%E3%81%AE%E5%B8%B8%E9%81%93
 これは、主権者の事実上の移行という革命的な変化であり、憲法解釈の域を超える変化以外の何物でもなかったと言わざるをえない。
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(続く)

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