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太田述正コラム#7748(2015.6.25)
<内藤湖南の『支那論』を読む(その25)>(2015.10.10公開)
「日本の文化に対し、支那人からいわしめれば、日本には固有の文化がなくて皆西洋の翻訳だというかも知れぬが、ともかく日本人が翻訳した西洋文化を支那人が重訳して採用する運動が現に起っておるではないか。ある支那の学者たちはこれを嫌って、直接に西洋文化の翻訳すべきものは、自己の手でこれを翻訳すべきであると努めたけれども、大勢は日本からの重訳に圧されているではないか。これは目前の判りやすい例を挙げただけで、実際日本が支那文化の発展、すなわちまた一方においては支那の革新について力を致し得べき点は、決してこの西洋文化の翻訳にのみ因るものではない。日本は五、六十年の努力によって西洋文化、殊にその経済機関を動かすべき訓練を積み、最も東洋に適するようにこれを変形しつつやっておるのである。ゆえに時としては西洋文化の大規模のものを小規模にしたり、立派なものをつまらなく見ゆるように変形したりする傾きもあるが、しかし東洋における新文化は、東洋文化の幹を全く切り去って西洋文化を接ぎ木するにあるのではない。西洋文化の従来の発展した方法を採用して、ある一部分は東洋文化の不必要な点を切り去ることはあるが、その根本をそのままに育てて行く点にあるのである。
⇒「西洋文化」は、「欧州文明(法律、陸軍等)、アングロサクソン文明(それ以外の全て)」と言い換え、「東洋文化」を「日本文明」と言い換えれば、概ね正しいことを内藤は言っています。
(内藤自身、「日本には固有の文化がな」いと思っていた可能性を否定できないのは悲しいことです。)、
なお、ここで内藤が、「支那における東洋文化」ではなく、「支那文化」などという、それと「東洋文化」との関係を追及されかねない言葉を用いたのは、ご愛嬌と言うべきか。(太田)
それは今日でも日本が支那に向かって現在行いつつある経済上の運動でもわかるので、英国のごとき旧く支那に貿易を開いた国は、西洋文化と東洋文化の間、すなわち別の言葉でいえば西洋の経済機関と東洋の経済機関との間に明白な境界を置いて、その一方には自国の貿易商が坐っており、他の方には支那の買弁が坐っておって、支那人で英国に直(じか)に行って貿易をするものもないかわりに、英国人が支那内地に入って商売をするというものはなく、それで安全に貿易を続けて来ておった。
然るに日本人の貿易の仕方はそうではなく、西洋人は日本の内部にまで入った貿易を拡張しようという考えはなくても、日本人は西洋<等>の内部に立ち入って商売をするということを思い切るような考えはない。」(286〜288)
⇒欧米列強の代表格たる英国と日本の支那との関わり方の違いを的確に表現していると思います。(太田)
「日本の小資本の商人は、・・・生命をも財産をも惜しもうとせないで、ともかく先へ先へと支那の経済機関を変化すべく、深入りをしておるということは、この後と雖も一時の排日問題等で圧え切るべきものではないと思う。これは支那人も日本人もまだ自覚しておらぬ一種の使命に支配されておる新しい東洋文化を形造るために、知らず知らず努力しているものと思う。」(288〜289)
「支那の論者殊に近頃の論者は、外種族の侵略を何でも支那人の不幸のごとく考えておるのであるが、その実支那が長い民族生活を維持しておることの出来たのは、全くこのしばしば行われた外種族の侵入に因るものである。・・・
支那のごとき親譲りの過大な財産を相続して、しかもそれを十分に世界のために利用することもなしに、所謂天物を暴殄(ぼうてん)<(注38)>しているその傍に、日本のごとき人口過剰に苦しんで国民の生存権の問題に触れているものがあって、しかも隣国の親譲りの相続権を指を咥えて見ておらなければならぬというようなことは、甚だ矛盾であるといわねばならぬ。」(290〜291)
(注38)「(1)天の物を損ないたやすこと。(2)物品を大切にせず消耗すること。」
http://www.weblio.jp/content/%E6%9A%B4%E6%AE%84
⇒これは、英領北米植民地人/米国人がインディアンの土地を奪取して行った論理と同じであり、唾棄すべき暴論です。
彼らが、それを正当化したイデオロギーが人種主義であったのに対し、内藤がそれを正当化したイデオロギーは、日支が同じ東洋文化圏に属する、というナンセンスであったわけです。
我々にとっての救いは、軍部を含め、戦前の日本政府が、こんな主張とは無縁であるところの、対赤露抑止戦略を、タテマエにおいてもホンネにおいても一貫して追求したことです。(太田)
「さらに進んで考うべきことは、支那の革新、すなわち支那の社会組織に新しき生命を与うべき運動は、日本以外の他の国にこれを需め得るかどうかということである。・・・
日本の支那に対する経済的運動は、国民が個々の発展からほとんど国民の生存問題として行われているのであるが、米国の支那に対する仕事は全く企業家の手によって行われるので、国民的必要から来ているのではない。・・・
で少しく過去将来二十年三十年に瓦って考えてみたなれば、支那の土地をある点までは日本の市場として思い切って譲り渡すということが、国際平和上非常な必要な問題である。」(292〜294)
⇒もはや、批判すべき言葉もありません。(太田)
(続く)
<内藤湖南の『支那論』を読む(その25)>(2015.10.10公開)
「日本の文化に対し、支那人からいわしめれば、日本には固有の文化がなくて皆西洋の翻訳だというかも知れぬが、ともかく日本人が翻訳した西洋文化を支那人が重訳して採用する運動が現に起っておるではないか。ある支那の学者たちはこれを嫌って、直接に西洋文化の翻訳すべきものは、自己の手でこれを翻訳すべきであると努めたけれども、大勢は日本からの重訳に圧されているではないか。これは目前の判りやすい例を挙げただけで、実際日本が支那文化の発展、すなわちまた一方においては支那の革新について力を致し得べき点は、決してこの西洋文化の翻訳にのみ因るものではない。日本は五、六十年の努力によって西洋文化、殊にその経済機関を動かすべき訓練を積み、最も東洋に適するようにこれを変形しつつやっておるのである。ゆえに時としては西洋文化の大規模のものを小規模にしたり、立派なものをつまらなく見ゆるように変形したりする傾きもあるが、しかし東洋における新文化は、東洋文化の幹を全く切り去って西洋文化を接ぎ木するにあるのではない。西洋文化の従来の発展した方法を採用して、ある一部分は東洋文化の不必要な点を切り去ることはあるが、その根本をそのままに育てて行く点にあるのである。
⇒「西洋文化」は、「欧州文明(法律、陸軍等)、アングロサクソン文明(それ以外の全て)」と言い換え、「東洋文化」を「日本文明」と言い換えれば、概ね正しいことを内藤は言っています。
(内藤自身、「日本には固有の文化がな」いと思っていた可能性を否定できないのは悲しいことです。)、
なお、ここで内藤が、「支那における東洋文化」ではなく、「支那文化」などという、それと「東洋文化」との関係を追及されかねない言葉を用いたのは、ご愛嬌と言うべきか。(太田)
それは今日でも日本が支那に向かって現在行いつつある経済上の運動でもわかるので、英国のごとき旧く支那に貿易を開いた国は、西洋文化と東洋文化の間、すなわち別の言葉でいえば西洋の経済機関と東洋の経済機関との間に明白な境界を置いて、その一方には自国の貿易商が坐っており、他の方には支那の買弁が坐っておって、支那人で英国に直(じか)に行って貿易をするものもないかわりに、英国人が支那内地に入って商売をするというものはなく、それで安全に貿易を続けて来ておった。
然るに日本人の貿易の仕方はそうではなく、西洋人は日本の内部にまで入った貿易を拡張しようという考えはなくても、日本人は西洋<等>の内部に立ち入って商売をするということを思い切るような考えはない。」(286〜288)
⇒欧米列強の代表格たる英国と日本の支那との関わり方の違いを的確に表現していると思います。(太田)
「日本の小資本の商人は、・・・生命をも財産をも惜しもうとせないで、ともかく先へ先へと支那の経済機関を変化すべく、深入りをしておるということは、この後と雖も一時の排日問題等で圧え切るべきものではないと思う。これは支那人も日本人もまだ自覚しておらぬ一種の使命に支配されておる新しい東洋文化を形造るために、知らず知らず努力しているものと思う。」(288〜289)
「支那の論者殊に近頃の論者は、外種族の侵略を何でも支那人の不幸のごとく考えておるのであるが、その実支那が長い民族生活を維持しておることの出来たのは、全くこのしばしば行われた外種族の侵入に因るものである。・・・
支那のごとき親譲りの過大な財産を相続して、しかもそれを十分に世界のために利用することもなしに、所謂天物を暴殄(ぼうてん)<(注38)>しているその傍に、日本のごとき人口過剰に苦しんで国民の生存権の問題に触れているものがあって、しかも隣国の親譲りの相続権を指を咥えて見ておらなければならぬというようなことは、甚だ矛盾であるといわねばならぬ。」(290〜291)
(注38)「(1)天の物を損ないたやすこと。(2)物品を大切にせず消耗すること。」
http://www.weblio.jp/content/%E6%9A%B4%E6%AE%84
⇒これは、英領北米植民地人/米国人がインディアンの土地を奪取して行った論理と同じであり、唾棄すべき暴論です。
彼らが、それを正当化したイデオロギーが人種主義であったのに対し、内藤がそれを正当化したイデオロギーは、日支が同じ東洋文化圏に属する、というナンセンスであったわけです。
我々にとっての救いは、軍部を含め、戦前の日本政府が、こんな主張とは無縁であるところの、対赤露抑止戦略を、タテマエにおいてもホンネにおいても一貫して追求したことです。(太田)
「さらに進んで考うべきことは、支那の革新、すなわち支那の社会組織に新しき生命を与うべき運動は、日本以外の他の国にこれを需め得るかどうかということである。・・・
日本の支那に対する経済的運動は、国民が個々の発展からほとんど国民の生存問題として行われているのであるが、米国の支那に対する仕事は全く企業家の手によって行われるので、国民的必要から来ているのではない。・・・
で少しく過去将来二十年三十年に瓦って考えてみたなれば、支那の土地をある点までは日本の市場として思い切って譲り渡すということが、国際平和上非常な必要な問題である。」(292〜294)
⇒もはや、批判すべき言葉もありません。(太田)
(続く)
太田述正ブログは移転しました 。
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