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太田述正コラム#7744(2015.6.23)
<内藤湖南の『支那論』を読む(その23)>(2015.10.8公開)

 「その後金・元の時代を経て、支那の政治は租税徴収の請負制度ともいうべきものになった。もっとも元代では蒙古人が中央アジアの隊商を支配した法を支那に移して用いたので、官吏は全く天子の政治商売の手先となって、人民の利害休戚<(注35)>には何らの同情を持たなくなった。

 (注35)休戚:「喜びと悲しみ。幸福と不幸。」
http://www.weblio.jp/content/%E4%BC%91%E6%88%9A

⇒秦以来の支那の歴代王朝は、生活必需品生産の増大を至上命題とする、唯物論的な墨家の思想をホンネのイデオロギーとしてきた(コラム#1640)ことからすれば、その結果として、生活必需品生産の減少、ひいては租税の徴収源の縮小、を招くような人民の利害休戚に同情は持たないとしても関心を持たざるをえなかったはずなので、内藤のこのような言い様には違和感を覚えます。(太田)

 もっともこれがため人民の間に「郷団自治」<(注36)(コラム#220)>の風が盛んになって、時としては天災飢饉などの時に、その救済に当った官吏等で身命を賭して声名を挙げた仁者もあるが、それは天子の手先という考えを放れて、真に人民を救済するつもりでやった特別の人だけであった、

 (注36)興味深い記述に遭遇した。「『礼記』の大同世界を掲げた王道主義を説いて満州国の桂冠学者となった橘樸は、内藤湖南の『支那論』にみえる郷団自治論に、戦間期の欧米で国家の相対化を企図し<て生まれたところの、>政治的多元主義やギルド社会主義の発想をかけあわせ<た[超国家主義、新重農主義を唱えた。]>」(與那覇潤「荒れ野の六十年−−植民地統治の思想とアイデンティティ再定義の様相」(『日本思想史講座(4)近代』(ぺりかん社。2013年6月)収録))より)
http://taniguchi.hatenablog.com/entry/2013/08/09/043346
 橘樸(たちばなしらき。1881〜1945年)は、「日本のジャーナリスト、評論家で[1]、清末から日中戦争期にかけての中国で・・・活動した。大分県臼杵の下級士族の家に、長男として生まれた。中学時代は各地を転々とした後、第五高等学校に学ぶが退校処分となり、さらに早稲田大学に学んだが中退した。・・・1925年10月には南満州鉄道(満鉄)嘱託となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E6%A8%B8 ([]内も)

 その後、明・清を経てますます如上の社会組織が固定して来て、清朝の中頃に湖北附近の四省において、八、九年に瓦る白蓮教の騒乱があった時や、近年の長髪族の騒乱の時には、悉く郷団組織を基礎とした自衛軍によって、これを平定したので、官吏の手で地方の安全を保つと言うことは全く無くなった。その代わり郷団組織の自衛軍は、人民の最後の運命を支配するものであるから案外に強い。支那の現在の実情というものは、そういう歴史から継続されて来たところの一種の状態にあるので、これを他の国の、政治組織が人民の利害と関係するという国の事情で判断することは出来ない。その点からいえば近頃行われておる「聯省自治」<(注37)>などいう議論は、支那の実情に適当した政情のようであるが、その聯省自治を唱えるものが政客であり、そして各省の政治機関を占有しておるものが皆政客である以上は、その所謂自治は政客階級の自治で郷団の自治ではない。

 (注37)「中国の1920年代前半における地方割拠主義の運動。軍閥割拠の時代にあって,地方軍閥はたえず北京の中央政権をにぎる北洋軍閥の武力統一に直面せねばならなかった。1920年,国民党系の湖南都督譚延闓(たんえんがい)はその攻撃を回避すべく湖南自治(中央政府からの離脱)をとなえ,内戦に倦んだ人心に投じた。それをうけて梁啓超らの当時の反中央の政客たちは,カナダの連省制とむすびつけ,各省ごとに憲法を制定して自治を実行し,聯省会議を基礎とする聯省自治政府を樹立するとの構想をうちだした。」
https://kotobank.jp/word/%E8%81%AF%E7%9C%81%E8%87%AA%E6%B2%BB-1217324

 支那の民政の真の機能は、今でも依然として郷団自治の上にあらわれるべきもので、それより以上の纏まった機関を政客の手から取り上げるということはほとんど不可能である。支那は結局は政客のやかましい議論をさえ恐れなければ、共同管理にしようと、その他いかなる統治の仕方をしようとも、郷団自治をさえ破らなければ、支那全体の安全を破るということは無いはずである。
 かくのごとく郷団自治は支那人民の生活にとっては最も大切なることである代りには、郷団自治に至るまでの人民の訓練はよほどよく行き届いている。ある地方では郷団は全く宗法、すなわち家族制度の関係から来ておるものであって、家族制度といえば、日本人はすぐに日本の封建時代の士族の生活のごときものを想い起すが、支那の宗法はそんな幼稚なものではない。財産の相続等も分頭で、その間に家族の公産と個々の私産との区別があって、うまく調和しておる。家族相互の救助、家廟を中心とした義田・義荘というようなものもあり、家族が厳然たる小さい国家を象っておる。全く家族ばかりから成り立たない郷団でも、幾分か家族の集合と、それからそれに附属した纏まらない人民とから成り立っておるようなもので、やはり家族を主とした郷団と組織は変らない。それが他の地方へ向かっての発展の径路としては、読書人階級すなわち政客の卵たる階級には、試験をする場所ごとに各地方の会館があり、商売人にも到る所に地方的会館を持っている。あらゆる統治に必要な機関は各々自分らの力で具備していて、何ら政府の官吏の力をかる必要がない。

⇒長々と引用したのは、内藤の支那の郷団自治論が、私の一族郎党命主義の支那における発現形態の踏み込んだ説明にもなっているからです。
 郷団自治論と一族郎党命主義の違いは2点あります。
 第一点は、郷団自治論は支那だけについての特徴であるのに対し、一族郎党命主義は、農業社会の到来以来、個人主義のイギリスと人間主義の日本を除いた、世界の農業社会共通の特徴であることです。
 第二点は、この点とも関連し、郷団自治論(支那における一族郎党命主義)について、私は、内藤とは違って、農業社会が始まって以来の支那の歴史を貫く特徴である、と考えていることです。
 (ところで、私は、一族郎党命主義という言葉をコラム#6319で初めて用いていますが、それは、「一族郎党」という言葉に「命」を付けた私の造語です。
 言うまでもないことながら、「一族郎党」とは、「血縁のある同族と家来たち。家族や関係者の全員」
http://thu.sakura.ne.jp/others/proverb/data/i.htm
のことです。)(太田)

 これ等がすなわち赤化宣伝等の効力の無かった有力な原因であって、数年前まで世界が資本主義全盛の時代であった時は、支那人はこの社会組織がすなわち資本の集中を害し、個人の発展を碍げるというので、その方からこの家族制度破壊論を主張したのであった。近頃の支那人の家族破壊論はこれとは違って、支那の家族は儒教の本義から成り立っており、儒教が奴隷主義の道徳だからという点から、家族破壊論を主張するのであるが、それと同時にその間赤化を目論むものも出来て来たのであって、それらの運動が何らの効力もないというのは、支那の社会組織が進歩した共産的の家族制度から成り立っておるがためである。
 かくのごとく支那の政治というものと社会組織とは、互いに関係を持たなくなっていること久しいものであるから、今日にあって支那人が真に民衆運動を起すとか、国民の公憤とかいうようなことは根底から起ろうはずがない。今日なおかかる形式をとって活動しているものがあるならば、それはいずれ贋物の扇動から起ったものであると判断して差し支えがないのである。」(277〜278)

⇒どうして、内藤が、これほども甚だしく、支那における、ナショナリズムや共産主義の浸透力の予測を誤ったかですが、以下のような、夏井春喜(北海道教育大学)の、やや入り組んだ指摘が参考になります。↓

 「・・・<支那>の都市と農村が従来持っていた同質性が失われ、「城郷格差」が拡大したのは近代、特に20世紀に入ってからと思われる。・・・<その結果、>ナショナリズム<等の>・・・新しい文化・思想は租界から、華界、都市、近郊市鎮、農村へ広が<りはした>が、大きなタイムラグと地域格差<を伴うことになった>。従来の市場圏も開港場や交通網の整備に伴い改変されながら再編されたが、そこでも大きな地域格差と各地域市場間の緩やかな結びつきによって、地域的にかなりの程度自立できる構造<が生じ>た。<そのおかげで、>民国の群小軍閥や共産党のソビエト辺区が存在<することが>できた・・・。・・・
 <こういう背景の下、>・・・<支那の共産党による>革命は・・・<、支那>が外国の侵略を受け、その近代化がいわゆる「半植民地・半封建社会」として、都市に比べて近代化の恩恵を受けず、むしろ都市化した郷紳・政府の収奪を受け、都市との格差を拡大させた<ところの、>農村を基盤とするもの<、すなわち、>・・・農村が都市を包囲<する形の革命>・・・<とな>った。」
http://www.law.osaka-u.ac.jp/c-forum/ft_natsui.htm

 なお、中国共産党は、その後、以下のように、郷団(家族)の長の打倒を通じて郷団自治の解体に努めて行くこととなるのです。↓

 「共産党はその理念に基づき、「土豪劣紳」の打倒、土地分配や抗日時期の減租減息などの政策を行い農民の経済的負担の軽減や土地への渇望を満たした。」(上掲)
 そして1949年に支那全土の権力を掌握すると、「1950年、土地改革法が成立して全国で土地の再配分が行われた。法の内容自体は穏健的なものであったが、地主に対して積年の恨みを抱いていた貧農などによって運動は急進化し、短期間で土地改革は完了した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
 「1958年<の>・・・大躍進運動の開始とともに・・・生産手段の公社所有制に基づく分配制度が実行され・・・農村では、人民公社と呼ばれる地区組織をひとつの単位とした社会の中でその全ての住民が生産、消費、教育、政治など生活のすべてを行うようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%AC%E7%A4%BE (太田)

(続く)

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