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太田述正コラム#7722(2015.6.12)
<改めてドーキンスについて(その2)>(2015.9.27公開)
『利己的遺伝子』の中には、テクノロジーの言語が遍在していた。
有機体群は「生体機械群」なのであり、かつ、「重苦しい(lumbering)ロボット群」であり、遺伝子群の乗り物群以上の何ものでもない。
その批判者達にとっては、この本は、人間の諸価値に対する攻撃だ。
すなわち、その赤裸々な題名だけからも、我々は単に個々人の遺伝子群を引き継がせるためだけに存在し、相互、共通善、コミュニティに全く顧慮しない、と示唆しているように見えた。
ドーキンスにしてみれば、これは、彼の主張についての基本的な誤読だったのだ。
生物学的本性(nature)はその自利において配線されているかもしれないが、我々はその諸法則にしたがう必要はない、というのだ。
「我々が利己的に生まれたからこそ、寛大さと利他主義を教えようと試みようではないか」、と彼はこの本の第一章で記した。
(今にして思えば、誤解を避けるために、この本を『不死の遺伝子(The Immortal Gene)』と名付けるべきだったか、とドーキンスは思いを巡らす。)・・・
彼は、求められれば、夕食の際に神に感謝の祈りを捧げることさえ行う。
「意味のない諸声明を発することに異存はない」、と哲学者のAJ・エイヤー(AJ Ayer)<(注8)>を引用しつつ述べた。・・・
(注8)Sir Alfred Jules Ayer。1910〜89年。「イギリスの哲学者で、論理実証主義の代表者、イギリスへの紹介者として知られている。・・・1946年から1959年までユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの心と論理学の・・・教授職にあり、その後オックスフォード大学の論理学の・・・教授職に移った。彼は1970年にナイトに叙勲されている。・・・
エイヤーは、有名な・・・女たらし(womanizer)でもあり、生涯に・・・4度の結婚をしている。・・・
エイヤー<は>・・・いわゆるウィーン学団<(論理実証主義)>の議論の核心<を、>・・・次のように定式化している。「ある文が検証可能な経験的内容を持っている場合のみ、その文は有意味になりうる。それ以外、つまり文の内容が同語反復であったり形而上学的な場合は、その文は分析的である(いわば無意味、すなわち「文字通り意味を欠いている」)」。・・・エイヤーは、「神は存在しない」という宣言に賛意を与えはしなかったが、神の存在という信念に同意を与えるのを保留したということにおいて、無神論者だった・・・。<これは、>時折奇妙な有神論(igtheism)として言及されることもある。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%82%A4%E3%83%A4%E3%83%BC
イートン校を経てオックスフォード大(古典学専攻)卒後、1年間ウィーンで学ぶ。
https://en.wikipedia.org/wiki/A._J._Ayer
ドーキンスの世界観にはまだ謎(mystery)が残されている。
例えば、人間の意識(consciousness)の本性についてだ。・・・
⇒生物(有機体)だけに関してですが、ドーキンスの「利己的遺伝子」は、そのふるまい及び進化、すなわち、その全てを説明しようとするところの、いわば、「キリスト教の神」の代替物である、というのが私見です。
とにかく、人間の意識が何であるかさえ解明されていないというのに、経験科学的根拠なしに、その人間が利己主義的な存在である、と断定するドーキンスの頭が正常なのかどうかさえ、私は疑っています。
それにしても、生前、『利己的遺伝子』をエイヤーが読んだのか、読んだとしてどんな感想を持ったのか、を知りたいところです。(太田)
ドーキンスは、<本来彼の味方になってしかるべき者達でさえ、>疎外しつつある。
哲学者のジョン・グレイ(John Gray)<(コラム#3218、3676、4242、5249、6076、6447、7336、7544、7550)>のような著名な無信仰者達(non-believers)は、ドーキンスがその無神論の中で示しているところの、融通の利かない考え方の(literal-minded)絶対主義と知的優越感(intellectual superiority)を批判してきた。
「ドーキンスは、無神論者は必ず宗教の敵であると思い込んでいる」、とグレイは最近の評論で記した。
「しかし、無神論と宗教への敵意との間に必然的な繋がりは必ずしもない」、と。
グレイの見解では、ドーキンスの科学への傾倒は、いかなるその他の解釈をも排除し侮辱するところの、「疑う余地のない(unquestioned)世界観」ということに要するになってしまっている」のだ。・・・
⇒このグレイの見解には、2点異論があります。
第一点は、無神論者の端くれである私に言わせれば、人間主義を体現しているだけで全く教義がなきに等しい神道、及び、念的瞑想部分を包含する仏教宗派、を除く、全ての宗教(宗派)は、無価値どころか有害なのであり、排斥すべき存在なのです。
(日本の仏教宗派ないし寺院中、かつて神道と習合していたものは、習合に回帰すれば、私が排斥する対象からははずれることになるのですが・・。)
つまり、私は、ドーキンスのように、全ての宗教ではないけれど、大部分の宗教を排斥するのです。
第二点は、私は、(人間は人間主義的存在であると考えているので、人間を生物一般同様の利己主義的存在であるとするドーキンスの主張はそもそも科学ではない、いや、より厳密に言えば、経験科学ではない、と思っているのですが、その点はさておき、)非経験科学的な「解釈」など、数学を除き、およそ無価値である、と思うのです。
すなわち、私は、非経験科学的な「解釈」の中にも(数学以外で)価値あるものがある、というグレイの見解には与することができません。(太田)
ダーウィン主義哲学者のマイケル・ルース(Michael Ruse)<(注9)>のような、元の知的同盟者達の若干は、ドーキンスの敵対主義(antagonism)は改心よりも疎外をもたらしがちである、と見ている。
(注9)1940年〜。「イギリス生まれの科学哲学者、特に生物哲学を専門とする。創造論と進化生物学の論争に関する研究でよく知られている。彼はイギリスのバーミンガムで生まれ、ブリストル大学で学士・・・、マクマスター大学で修士・・・、ブリストル大学で博士号を取得した・・・。35年間カナダのゲルフ大学で教え、ゲルフ大学を定年退職した後はフロリダ州立大学で哲学を教えている。・・・ルースは1981年に起きた創造科学を公立学校で教えることを許可したアーカンソー州法に対する裁判の、原告側の著名な証人の一人であった。連邦裁判官は創造科学を理科教育で教えることを<米>憲法に反していると判決した。ル−スはリチャード・ドーキンス<ら>とは異なり、宗教と進化の理論を両立させることは可能だという立場を取っている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%B1%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%B9
ルースは、米国で生活し、働いており、当地で創造科学(creationism<=インテリジェント・デザイン説>)を諸学校で教えることを禁止する法的諸闘争を戦った。
彼に言わせれば、ドーキンスは、彼の敵対者達の諸主張を敗北させるために彼らと噛み合った議論をする(engage with)ことに関心を示さないのだ。
例えば、「真にイスラム教を理解すること、全くなくして、イスラム教をぶったったいている」、と。
『神は妄想である』の中における彼の哲学的諸観念の扱い方は、しばしば滑稽で間違いなくジャーナリズムとしては結構であるけれど、上品に形容したとしても、甚だしく無知な代物(uninformed)だ」、とルースは語った。・・・
ドーキンスは、自身のことを、「熱情的な」フェミニスト、と常に呼んでいる。
<オックスフォード大の>ニュー・カレッジ(New College)のフェロー時代に、彼は女性達の入学を認めるべきだとアジり、それは1979年に実現した。
「私は、自分のフェミニズムを、全くもって大部分、イスラム的文脈の中で示している」、と彼は語った。
「というのも、もし女性達が世界のいずこかで困難な時を過ごしているとすれば、それは<イスラム世界>においてだからだ…。
仕事場でウォーター・クーラーがらみのことと結び付けられて見られている、等々、に憑りつかれているところの、米国のフェミニスト達には苛つく。
なんとなれば、強姦されたという罪のために文字通り石を投げつけられて死ぬ女性達が存在することを忘れているからだ」、と。・・・」
⇒フェミニスト論に関してだけは、相当程度、首肯できます。(太田)
(完)
<改めてドーキンスについて(その2)>(2015.9.27公開)
『利己的遺伝子』の中には、テクノロジーの言語が遍在していた。
有機体群は「生体機械群」なのであり、かつ、「重苦しい(lumbering)ロボット群」であり、遺伝子群の乗り物群以上の何ものでもない。
その批判者達にとっては、この本は、人間の諸価値に対する攻撃だ。
すなわち、その赤裸々な題名だけからも、我々は単に個々人の遺伝子群を引き継がせるためだけに存在し、相互、共通善、コミュニティに全く顧慮しない、と示唆しているように見えた。
ドーキンスにしてみれば、これは、彼の主張についての基本的な誤読だったのだ。
生物学的本性(nature)はその自利において配線されているかもしれないが、我々はその諸法則にしたがう必要はない、というのだ。
「我々が利己的に生まれたからこそ、寛大さと利他主義を教えようと試みようではないか」、と彼はこの本の第一章で記した。
(今にして思えば、誤解を避けるために、この本を『不死の遺伝子(The Immortal Gene)』と名付けるべきだったか、とドーキンスは思いを巡らす。)・・・
彼は、求められれば、夕食の際に神に感謝の祈りを捧げることさえ行う。
「意味のない諸声明を発することに異存はない」、と哲学者のAJ・エイヤー(AJ Ayer)<(注8)>を引用しつつ述べた。・・・
(注8)Sir Alfred Jules Ayer。1910〜89年。「イギリスの哲学者で、論理実証主義の代表者、イギリスへの紹介者として知られている。・・・1946年から1959年までユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの心と論理学の・・・教授職にあり、その後オックスフォード大学の論理学の・・・教授職に移った。彼は1970年にナイトに叙勲されている。・・・
エイヤーは、有名な・・・女たらし(womanizer)でもあり、生涯に・・・4度の結婚をしている。・・・
エイヤー<は>・・・いわゆるウィーン学団<(論理実証主義)>の議論の核心<を、>・・・次のように定式化している。「ある文が検証可能な経験的内容を持っている場合のみ、その文は有意味になりうる。それ以外、つまり文の内容が同語反復であったり形而上学的な場合は、その文は分析的である(いわば無意味、すなわち「文字通り意味を欠いている」)」。・・・エイヤーは、「神は存在しない」という宣言に賛意を与えはしなかったが、神の存在という信念に同意を与えるのを保留したということにおいて、無神論者だった・・・。<これは、>時折奇妙な有神論(igtheism)として言及されることもある。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%82%A4%E3%83%A4%E3%83%BC
イートン校を経てオックスフォード大(古典学専攻)卒後、1年間ウィーンで学ぶ。
https://en.wikipedia.org/wiki/A._J._Ayer
ドーキンスの世界観にはまだ謎(mystery)が残されている。
例えば、人間の意識(consciousness)の本性についてだ。・・・
⇒生物(有機体)だけに関してですが、ドーキンスの「利己的遺伝子」は、そのふるまい及び進化、すなわち、その全てを説明しようとするところの、いわば、「キリスト教の神」の代替物である、というのが私見です。
とにかく、人間の意識が何であるかさえ解明されていないというのに、経験科学的根拠なしに、その人間が利己主義的な存在である、と断定するドーキンスの頭が正常なのかどうかさえ、私は疑っています。
それにしても、生前、『利己的遺伝子』をエイヤーが読んだのか、読んだとしてどんな感想を持ったのか、を知りたいところです。(太田)
ドーキンスは、<本来彼の味方になってしかるべき者達でさえ、>疎外しつつある。
哲学者のジョン・グレイ(John Gray)<(コラム#3218、3676、4242、5249、6076、6447、7336、7544、7550)>のような著名な無信仰者達(non-believers)は、ドーキンスがその無神論の中で示しているところの、融通の利かない考え方の(literal-minded)絶対主義と知的優越感(intellectual superiority)を批判してきた。
「ドーキンスは、無神論者は必ず宗教の敵であると思い込んでいる」、とグレイは最近の評論で記した。
「しかし、無神論と宗教への敵意との間に必然的な繋がりは必ずしもない」、と。
グレイの見解では、ドーキンスの科学への傾倒は、いかなるその他の解釈をも排除し侮辱するところの、「疑う余地のない(unquestioned)世界観」ということに要するになってしまっている」のだ。・・・
⇒このグレイの見解には、2点異論があります。
第一点は、無神論者の端くれである私に言わせれば、人間主義を体現しているだけで全く教義がなきに等しい神道、及び、念的瞑想部分を包含する仏教宗派、を除く、全ての宗教(宗派)は、無価値どころか有害なのであり、排斥すべき存在なのです。
(日本の仏教宗派ないし寺院中、かつて神道と習合していたものは、習合に回帰すれば、私が排斥する対象からははずれることになるのですが・・。)
つまり、私は、ドーキンスのように、全ての宗教ではないけれど、大部分の宗教を排斥するのです。
第二点は、私は、(人間は人間主義的存在であると考えているので、人間を生物一般同様の利己主義的存在であるとするドーキンスの主張はそもそも科学ではない、いや、より厳密に言えば、経験科学ではない、と思っているのですが、その点はさておき、)非経験科学的な「解釈」など、数学を除き、およそ無価値である、と思うのです。
すなわち、私は、非経験科学的な「解釈」の中にも(数学以外で)価値あるものがある、というグレイの見解には与することができません。(太田)
ダーウィン主義哲学者のマイケル・ルース(Michael Ruse)<(注9)>のような、元の知的同盟者達の若干は、ドーキンスの敵対主義(antagonism)は改心よりも疎外をもたらしがちである、と見ている。
(注9)1940年〜。「イギリス生まれの科学哲学者、特に生物哲学を専門とする。創造論と進化生物学の論争に関する研究でよく知られている。彼はイギリスのバーミンガムで生まれ、ブリストル大学で学士・・・、マクマスター大学で修士・・・、ブリストル大学で博士号を取得した・・・。35年間カナダのゲルフ大学で教え、ゲルフ大学を定年退職した後はフロリダ州立大学で哲学を教えている。・・・ルースは1981年に起きた創造科学を公立学校で教えることを許可したアーカンソー州法に対する裁判の、原告側の著名な証人の一人であった。連邦裁判官は創造科学を理科教育で教えることを<米>憲法に反していると判決した。ル−スはリチャード・ドーキンス<ら>とは異なり、宗教と進化の理論を両立させることは可能だという立場を取っている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%B1%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%B9
ルースは、米国で生活し、働いており、当地で創造科学(creationism<=インテリジェント・デザイン説>)を諸学校で教えることを禁止する法的諸闘争を戦った。
彼に言わせれば、ドーキンスは、彼の敵対者達の諸主張を敗北させるために彼らと噛み合った議論をする(engage with)ことに関心を示さないのだ。
例えば、「真にイスラム教を理解すること、全くなくして、イスラム教をぶったったいている」、と。
『神は妄想である』の中における彼の哲学的諸観念の扱い方は、しばしば滑稽で間違いなくジャーナリズムとしては結構であるけれど、上品に形容したとしても、甚だしく無知な代物(uninformed)だ」、とルースは語った。・・・
ドーキンスは、自身のことを、「熱情的な」フェミニスト、と常に呼んでいる。
<オックスフォード大の>ニュー・カレッジ(New College)のフェロー時代に、彼は女性達の入学を認めるべきだとアジり、それは1979年に実現した。
「私は、自分のフェミニズムを、全くもって大部分、イスラム的文脈の中で示している」、と彼は語った。
「というのも、もし女性達が世界のいずこかで困難な時を過ごしているとすれば、それは<イスラム世界>においてだからだ…。
仕事場でウォーター・クーラーがらみのことと結び付けられて見られている、等々、に憑りつかれているところの、米国のフェミニスト達には苛つく。
なんとなれば、強姦されたという罪のために文字通り石を投げつけられて死ぬ女性達が存在することを忘れているからだ」、と。・・・」
⇒フェミニスト論に関してだけは、相当程度、首肯できます。(太田)
(完)
太田述正ブログは移転しました 。
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