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太田述正コラム#7696(2015.5.30)
<アンドリュー・ジャクソン大統領のおぞましさ(その6)>(2015.9.14公開)
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[件の判決が「実行されなかった」理由]
一日違いで、表記の手掛かりが載っている(この本の)書評
G:http://www.washingtonpost.com/opinions/the-cherokee-leader-who-paved-the-way-for-mlk/2015/05/28/7325d05c-ffef-11e4-833c-a2de05b6b2a4_story.html
(5月30日アクセス)に遭遇したので、関連個所を紹介し、私見を付しておく。
「・・・チェロキー族国に対して人種主義的諸法を押し付けたジョージア州からの圧力に直面したロスは裁判を提起した・・・
米最高裁は、[1831年に、チェロキー族は独立した主権国家ではない<(当事者適格がないということか?(太田)>という]技術的理由でこの訴え[・・チェロキー<族>対ジョージア州事件・・]を却下したので、ロスは、別の裁判・・ウースター対ジョージア州裁判(Worcester v. Georgia)・・を提起した。
<後者に判決が下ったのは>1832年のことだった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B6%99%E3%81%AE%E9%81%93 前掲([]内)
<それは、>ジョージア州が、チェロキー族を支援していた二人の白人宣教師達を投獄した<ことに対するものだった>。
最高裁長官のジョン・マーシャルの厳然たる(magisterial)意見は、この宣教師達は解放されなければならない、と述べた。
すなわち、チェロキー族は、「大昔から(from time immemorial)その土地(soil)の紛れなき所有者達」であるところ、ジョージア州は、その諸法をチェロキー族国に押し付ける権利を有していない、と。
信じ難いことに、マーシャルの判示は無に帰した。
ジョージア州はこの判示を認めることを拒否し、ジャクソン<大統領>は、それをこき下ろし、それがどうにもならなくなるよう、巧妙な政治的画策を駆使した。
彼の行政府は、宣教師達が解放されるようにこっそりとお膳立てをし、この裁判(court case)の争訟性をなくすとともに、ジャクソンは、マーシャルによる、より広範な事実認定(finding)については、単純に無視したのだ。・・・
チェロキー族が優位に立つ(prevail)ことができなかった一つの理由は、その後に姿に比べて、当時の米国の諸制度が未整備だったからだ。
1954年に、ヅワイト・アイゼンハワー(Dwight Eisenhower)大統領が、ブラウン対教育委員会裁判(Brown v. Board of Education)<(注9)>をやり過ご(defy)したり掘り崩(undermine)したりしたら一体どうなったかを想像してみよ。
(注9)「1954年5月17日に言い渡された判決は、アール・ウォーレン首席裁判官の法廷において、満場一致(9-0)で決定された。黒人と白人の学生を分離した公立学校の設立を定めたカンザス州の州法は、黒人の子供の平等な教育の機会を否定していると宣言し、単刀直入に「人種分離した教育機関は本・・・質的に・・・不平等である」と述べた。その結果、法律上の人種差別は、<米>憲法修正第14条(法の下における平等保護条項)に違反するとの判例が確立され、1896年のプレッシー対ファーガソン裁判における「分離すれど平等」という先例を覆した。この勝利は人種統合と公民権運動への道を開いた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%B3%E5%AF%BE%E6%95%99%E8%82%B2%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A%E8%A3%81%E5%88%A4
しかし、そこには、より深い理由があった。
米国の民主主義は、19世紀初頭には、ジャクソンのような貧しい諸出自の者を含む、全員に近い白人男性達を抱懐するところまで拡大していたけれど、それは、依然として、公然たる人種主義的民主主義だったのだ。
すなわち、後に、リンカーン=ダグラス論争(Lincoln–Douglas debates)<(注11)>の間に、ジャクソンの政治的後継者たるスティーブン・ダグラス(Stephen Douglas)<(注10)>が言明したように、「白人の基盤に立脚した」政府だったのだ。
(注10)1813〜61年。「イリノイ州出身の政治家。「小さな巨人(Little Giant)」と渾名され、彼は1852年、1856年の大統領選挙における民主党候補指名者であった[1]。1860年の民主党大統領指名候補となるが、1860年<の>・・・大統領選挙で共和党候補者の・・・リンカーンに敗れた。・・・奴隷制<を含め、>・・・。「人々に支配させよ! Let the people rule!」というのが彼の<主張だった。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%80%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%82%B9
(注11)「1858年に・・・リンカーンと・・・ダグラスとの間に行われた7回にわたる討論会で行われた論争である。リンカーンはイリノイ州選出・・・上院議員の共和党候補であり、ダグラスは現職上院議員で民主党から再選を求めて出馬していた。・・・この論争は、リンカーンが1860年・・・大統領選挙で当選したあとに直面することになる問題を浮き彫りにしていた。7回の討論で議論された主論点は奴隷制度だった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%80%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%82%B9%E8%AB%96%E4%BA%89
1830年代には、チェロキー族の政治的シンパ達のうちの若干の者達でさえ、<インディアンである以上、>彼らは、劣等人種であって、破滅(doom)は不可避である、と見ていた。
偉大な上院議員であるヘンリー・クレイ(Henry Clay)<(注12)>は、米国の名誉に関わるからインディアンの諸権利を擁護(uphold)することが求められると公的に宣言しつつも、私的には、インディアン達の絶滅は「世界にとって大きな損失ではない」と述べたものだ。・・・」
(注12)1777〜1852年。ケンタッキー州選出下院、上院議員を務めた。「ダニエル・ウェブスターとジョン・カルフーンと共に「偉大な三頭政治」すなわち「不滅のトリオ」の一人であった。・・・クレイが6歳の時、・・・インディアンの襲撃でまだ若い3人の従兄弟が殺された。1人は銃で撃たれ、1人は意地悪く刺し殺され、最後の1人は・・・連れて行かれて火炙りにされた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%82%A4
要するに、宣教師達は解放されたのだから、判決は実行されたわけだ。
そして、私が可能性があると思った二つの理由のどちらでもなく、要は、「チェロキー族は、「大昔から(from time immemorial)その土地(soil)の紛れなき所有者達」である」という判決理由は、二人の宣教師の解放という判決の判決理由の核心部分(ratio decidendi)ではない、すなわち、傍論
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%8D%E8%AB%96
であるので、法的拘束力が認められなかった(判例法たりえなかった)、ということなのだろう。
(どうやら、「インディアン問題が州政府の<管轄>ではなく連邦政府のみ<の管轄な>ので、ジョージア州がチェロキー族の領土に<州>法を押しつけることはできない」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B6%99%E3%81%AE%E9%81%93 前掲
というのが、判決理由の核心部分であったらしい。)
なお、この裁判は、ロス(チェロキー族国)が裁判費用等を負担したかもしれないが、裁判、より広くは、紛争の直接的当事者はあくまでも白人たる宣教師達であるはずであり、そうである以上、人種主義的な偏見が、裁判はもとより、判示後の実行(執行)過程に影響を与えるとは考えにくいので、この書評子がこの文脈の中で人種主義を持ち出したのはおかしいのではないか。
(繰り返すが、現に、彼らは解放されている。)
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(6)涙の道
法の保護(shelter)を否定されたロスは、1960年代の非暴力的市民権示威行為者達の精神でもって、彼の人々に受動的抵抗運動を行う心構えをさせた。
1838年の春に退去するよう命じられたチェロキー族は、その代わり、あたかも収穫期までいるかのように、諸穀物を植えた。
政府は、この部族を追放し始めるために兵士達を送り込んだ。
敗北はしたが、ロスは一つの慰めがあった。
陸軍による、平和なインディアン達の狩り出しはこの悲劇を我々の国の記憶の中に固定した。「君達は我々を武力で追放することができる・・・けれど、我々にそれを公正なことだと呼ばせることはできない」、とロスは1838年に記したのだ。
受動的抵抗運動は、若干の実際的な諸結果を生み出しもした。
人道的大災厄の展望に身の毛がよだったところの、連邦の役人達は、少なくとも、移住の諸条件を改善した。
ロスのチェロキー族政府は、恐らくはその真の価値のほんの一部だろうがそれでも相当な額であるところの、600万ドルを超える額を約束された。
その代わり、チェロキー族は、銃剣を突きつけられて行くのではなく、自分達自身で西部行を組織することに同意した。
ロスは、米国政府に、チェロキー族の<この>旅行について、可能な限りのあらゆる経費を請求した。」(G)
「<米国人なら>誰もが、何千人ものチェロキー族に押し付けられた試練であるところの、チェロキー族の涙の道(Trail of Tears)を間違いなく知っているし、知らなければならない。
チェロキー族は、東部の海沿いの地域(Eastern Seaboard)からの移住に反対するところの、最高裁の判断(judgement)を戦い、勝ち取った後、にもかかわらず、自分達の部族の諸土地を剥奪され、1830年代初頭にインディアン特別保護区(Indian Territory)に徒歩で赴いた。
この移住の規模は甚大なものだった。
チェロキー族だけでなく、マスケギー族、セミノール族、チカソー族、チョクトー族、クリーク族、及び、彼らのアフリカ系米国人たる奴隷達が、米国が犯したうちの、最も大規模にして暴虐的な諸行為の一つにおいて、移住させられたのだ。」(A)
(続く)
<アンドリュー・ジャクソン大統領のおぞましさ(その6)>(2015.9.14公開)
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[件の判決が「実行されなかった」理由]
一日違いで、表記の手掛かりが載っている(この本の)書評
G:http://www.washingtonpost.com/opinions/the-cherokee-leader-who-paved-the-way-for-mlk/2015/05/28/7325d05c-ffef-11e4-833c-a2de05b6b2a4_story.html
(5月30日アクセス)に遭遇したので、関連個所を紹介し、私見を付しておく。
「・・・チェロキー族国に対して人種主義的諸法を押し付けたジョージア州からの圧力に直面したロスは裁判を提起した・・・
米最高裁は、[1831年に、チェロキー族は独立した主権国家ではない<(当事者適格がないということか?(太田)>という]技術的理由でこの訴え[・・チェロキー<族>対ジョージア州事件・・]を却下したので、ロスは、別の裁判・・ウースター対ジョージア州裁判(Worcester v. Georgia)・・を提起した。
<後者に判決が下ったのは>1832年のことだった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B6%99%E3%81%AE%E9%81%93 前掲([]内)
<それは、>ジョージア州が、チェロキー族を支援していた二人の白人宣教師達を投獄した<ことに対するものだった>。
最高裁長官のジョン・マーシャルの厳然たる(magisterial)意見は、この宣教師達は解放されなければならない、と述べた。
すなわち、チェロキー族は、「大昔から(from time immemorial)その土地(soil)の紛れなき所有者達」であるところ、ジョージア州は、その諸法をチェロキー族国に押し付ける権利を有していない、と。
信じ難いことに、マーシャルの判示は無に帰した。
ジョージア州はこの判示を認めることを拒否し、ジャクソン<大統領>は、それをこき下ろし、それがどうにもならなくなるよう、巧妙な政治的画策を駆使した。
彼の行政府は、宣教師達が解放されるようにこっそりとお膳立てをし、この裁判(court case)の争訟性をなくすとともに、ジャクソンは、マーシャルによる、より広範な事実認定(finding)については、単純に無視したのだ。・・・
チェロキー族が優位に立つ(prevail)ことができなかった一つの理由は、その後に姿に比べて、当時の米国の諸制度が未整備だったからだ。
1954年に、ヅワイト・アイゼンハワー(Dwight Eisenhower)大統領が、ブラウン対教育委員会裁判(Brown v. Board of Education)<(注9)>をやり過ご(defy)したり掘り崩(undermine)したりしたら一体どうなったかを想像してみよ。
(注9)「1954年5月17日に言い渡された判決は、アール・ウォーレン首席裁判官の法廷において、満場一致(9-0)で決定された。黒人と白人の学生を分離した公立学校の設立を定めたカンザス州の州法は、黒人の子供の平等な教育の機会を否定していると宣言し、単刀直入に「人種分離した教育機関は本・・・質的に・・・不平等である」と述べた。その結果、法律上の人種差別は、<米>憲法修正第14条(法の下における平等保護条項)に違反するとの判例が確立され、1896年のプレッシー対ファーガソン裁判における「分離すれど平等」という先例を覆した。この勝利は人種統合と公民権運動への道を開いた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%B3%E5%AF%BE%E6%95%99%E8%82%B2%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A%E8%A3%81%E5%88%A4
しかし、そこには、より深い理由があった。
米国の民主主義は、19世紀初頭には、ジャクソンのような貧しい諸出自の者を含む、全員に近い白人男性達を抱懐するところまで拡大していたけれど、それは、依然として、公然たる人種主義的民主主義だったのだ。
すなわち、後に、リンカーン=ダグラス論争(Lincoln–Douglas debates)<(注11)>の間に、ジャクソンの政治的後継者たるスティーブン・ダグラス(Stephen Douglas)<(注10)>が言明したように、「白人の基盤に立脚した」政府だったのだ。
(注10)1813〜61年。「イリノイ州出身の政治家。「小さな巨人(Little Giant)」と渾名され、彼は1852年、1856年の大統領選挙における民主党候補指名者であった[1]。1860年の民主党大統領指名候補となるが、1860年<の>・・・大統領選挙で共和党候補者の・・・リンカーンに敗れた。・・・奴隷制<を含め、>・・・。「人々に支配させよ! Let the people rule!」というのが彼の<主張だった。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%80%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%82%B9
(注11)「1858年に・・・リンカーンと・・・ダグラスとの間に行われた7回にわたる討論会で行われた論争である。リンカーンはイリノイ州選出・・・上院議員の共和党候補であり、ダグラスは現職上院議員で民主党から再選を求めて出馬していた。・・・この論争は、リンカーンが1860年・・・大統領選挙で当選したあとに直面することになる問題を浮き彫りにしていた。7回の討論で議論された主論点は奴隷制度だった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%80%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%82%B9%E8%AB%96%E4%BA%89
1830年代には、チェロキー族の政治的シンパ達のうちの若干の者達でさえ、<インディアンである以上、>彼らは、劣等人種であって、破滅(doom)は不可避である、と見ていた。
偉大な上院議員であるヘンリー・クレイ(Henry Clay)<(注12)>は、米国の名誉に関わるからインディアンの諸権利を擁護(uphold)することが求められると公的に宣言しつつも、私的には、インディアン達の絶滅は「世界にとって大きな損失ではない」と述べたものだ。・・・」
(注12)1777〜1852年。ケンタッキー州選出下院、上院議員を務めた。「ダニエル・ウェブスターとジョン・カルフーンと共に「偉大な三頭政治」すなわち「不滅のトリオ」の一人であった。・・・クレイが6歳の時、・・・インディアンの襲撃でまだ若い3人の従兄弟が殺された。1人は銃で撃たれ、1人は意地悪く刺し殺され、最後の1人は・・・連れて行かれて火炙りにされた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%82%A4
要するに、宣教師達は解放されたのだから、判決は実行されたわけだ。
そして、私が可能性があると思った二つの理由のどちらでもなく、要は、「チェロキー族は、「大昔から(from time immemorial)その土地(soil)の紛れなき所有者達」である」という判決理由は、二人の宣教師の解放という判決の判決理由の核心部分(ratio decidendi)ではない、すなわち、傍論
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%8D%E8%AB%96
であるので、法的拘束力が認められなかった(判例法たりえなかった)、ということなのだろう。
(どうやら、「インディアン問題が州政府の<管轄>ではなく連邦政府のみ<の管轄な>ので、ジョージア州がチェロキー族の領土に<州>法を押しつけることはできない」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B6%99%E3%81%AE%E9%81%93 前掲
というのが、判決理由の核心部分であったらしい。)
なお、この裁判は、ロス(チェロキー族国)が裁判費用等を負担したかもしれないが、裁判、より広くは、紛争の直接的当事者はあくまでも白人たる宣教師達であるはずであり、そうである以上、人種主義的な偏見が、裁判はもとより、判示後の実行(執行)過程に影響を与えるとは考えにくいので、この書評子がこの文脈の中で人種主義を持ち出したのはおかしいのではないか。
(繰り返すが、現に、彼らは解放されている。)
-------------------------------------------------------------------------------
(6)涙の道
法の保護(shelter)を否定されたロスは、1960年代の非暴力的市民権示威行為者達の精神でもって、彼の人々に受動的抵抗運動を行う心構えをさせた。
1838年の春に退去するよう命じられたチェロキー族は、その代わり、あたかも収穫期までいるかのように、諸穀物を植えた。
政府は、この部族を追放し始めるために兵士達を送り込んだ。
敗北はしたが、ロスは一つの慰めがあった。
陸軍による、平和なインディアン達の狩り出しはこの悲劇を我々の国の記憶の中に固定した。「君達は我々を武力で追放することができる・・・けれど、我々にそれを公正なことだと呼ばせることはできない」、とロスは1838年に記したのだ。
受動的抵抗運動は、若干の実際的な諸結果を生み出しもした。
人道的大災厄の展望に身の毛がよだったところの、連邦の役人達は、少なくとも、移住の諸条件を改善した。
ロスのチェロキー族政府は、恐らくはその真の価値のほんの一部だろうがそれでも相当な額であるところの、600万ドルを超える額を約束された。
その代わり、チェロキー族は、銃剣を突きつけられて行くのではなく、自分達自身で西部行を組織することに同意した。
ロスは、米国政府に、チェロキー族の<この>旅行について、可能な限りのあらゆる経費を請求した。」(G)
「<米国人なら>誰もが、何千人ものチェロキー族に押し付けられた試練であるところの、チェロキー族の涙の道(Trail of Tears)を間違いなく知っているし、知らなければならない。
チェロキー族は、東部の海沿いの地域(Eastern Seaboard)からの移住に反対するところの、最高裁の判断(judgement)を戦い、勝ち取った後、にもかかわらず、自分達の部族の諸土地を剥奪され、1830年代初頭にインディアン特別保護区(Indian Territory)に徒歩で赴いた。
この移住の規模は甚大なものだった。
チェロキー族だけでなく、マスケギー族、セミノール族、チカソー族、チョクトー族、クリーク族、及び、彼らのアフリカ系米国人たる奴隷達が、米国が犯したうちの、最も大規模にして暴虐的な諸行為の一つにおいて、移住させられたのだ。」(A)
(続く)
太田述正ブログは移転しました 。
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