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太田述正コラム#7682(2015.5.23)
<内藤湖南の『支那論』を読む(その16)>(2015.5.22配信)(2015.9.7公開)
「支那では・・・平等主義<であって、>・・・元来上官と下級官吏との関係でも、私交の上については日本ほど階級はない。
日本ではある局長とかいう者は、書記官とか参事官に対して公務以外のことでも、目下の扱いをする。その書記官なり参事官は上官に対する態度で腰を曲げ謹んで御用を承るが、日本の現在の制度では<、本来、>そんな理屈はない。・・・
<ところが、>支那へ言って宴会など<では、>・・・言葉でも何でも同等で、ほとんど上下の差別はない。・・・
⇒「人物間の親疎関係や上下関係を反映した言語表現が体系的に文法化された形式」としての敬語は欧米語<や漢語(太田)>にはありません
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%AC%E8%AA%9E
が、だからといって、欧米や支那の方が日本よりも平等主義的で階級的でない、ということにはなりません。
私見は、実態はむしろその逆なのであり、だからこそ、人間関係の円滑化と秩序の維持の必要性から、日本で敬語が発達した、というものです。
(日本の文化審議会も、敬語は、「人と人との「相互尊重」の気持ちを基盤とした「自己表現」を表す意味において重要な役割を果た<している>」(上掲)としています。)
そして、敬語があるのだから、敬語的所作もある、というわけです。
また、役所の場合、局長、書記官、参事官・・書記官と参事官の上下は役所によって違いがある・・は、一般に全てキャリアであるところ、年功序列的人事管理が行われているので、通常、職階の上下は年齢・・但し入省年次・・の上下と一致している、ということがあります。
もう一つ、欧米や支那とは違って、日本では公私の境界線が不分明である、ということがあることも、付言しておきましょう。
これら全ては、日本が人間主義社会であるのに、欧米は拡大英国を除いて人間主義的社会ではなく、また、支那は人間主義的社会ではない、ということに起因するところの、文明の違いの現れなのです。
(欧米各国語にも「敬語」ならぬ「敬称」は存在しますが、「英語の二人称代名詞であるyouももともとは敬称であった。英語話者が家族であろうと親しい友人であろうと常に本来敬称であったyouのみを使うようになったためにyouが敬称としての意味を失い、敬称でない形のthouが忘れ去られるに至った」(上掲)ところ、これは、英語のみにおいて生じたものであり、人間主義的社会であるイギリスにおいて、面白いことに、人間主義社会である日本とは逆のベクトルが働いたことを示しています。)
すなわち、結論的には、内藤の捉え方は誤りである、と考えます。(太田)
支那の・・・地方官、総督、巡撫以下には、幕友<(注21)>というものがある。支那の大官は収入が沢山あるから、幕友というものを養っておる。自分の友人として多い人は数十人も養っておる、皆ほとんど同等の礼を執って、本当の客分として扱っておる。・・・
(注20)「<支那、特>に明・清時代における官僚の私設秘書のこと。幕客、師爺(しや)ともいう。」「清の雍正・乾隆年間 (18世紀) に盛んであった。明代以後の地方官は本籍回避の制が適用されたため、まったく不案内の地に赴任しなければならなかった<ことも背景にある>。」「科挙は作詩作文能力や経書に対する知識を試すものであっても、現実の実務知識とは無関係な試験だった。実務は〈読書万巻、律を読まず〉式の官のもとで、胥吏とよばれる専業者によって担われたのである。しかも、一県に正式の官員は数名ということからも分かるように、仕事量と定員の関係はきわめて不釣合だった。・・・ 」
https://kotobank.jp/word/%E5%B9%95%E5%8F%8B-113878
「<支那>の旧法制で,官僚を任用する際、ある条件の地位を避けさせる制度<は、>廻避とも書き、大別して親族回避と本籍回避の2種があった。<支那>では古来から家族制度を重んじ、律においても近親間では互いに犯罪を隠匿することを容認したくらいであるから、こういう制度も自然に発達したのであろう。」
https://kotobank.jp/word/%E6%9C%AC%E7%B1%8D%E5%9B%9E%E9%81%BF-1417900
⇒支那の「地方の末端は、・・・一貫して、宗族群であった」(コラム#7670)ことから、私が言うところの、一族郎党命主義が支那で蔓延してきたからこそ、親族回避・・本籍回避も事実上同じこと・・が必要であったところ、宗族がいない場所で仕事をするために、官吏が部下候補者たる疑似宗族・・宗族的信頼関係で結ばれていた・・を作り出す必要があった、ということ以上でも以下でもありますまい。
(そもそも、平素から、幕友を多数抱えられるくらい、官吏の合法・非合法の収入が大きかったことも、また、問題ですが・・。)
なお、幕友の起源は支那で戦国時代に貴族が抱えた食客
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9F%E5%AE%A2
ではないかと私は想像しているのですが、誰もそう言っていませんね。(太田)
曽国藩<(コラム#4902、4906、5362、5537、5539、5541、5547、6198、6563)<は・・・長髪族の乱の時に・・・もう<役立たずの>常備兵などの力を借るのは愚かなことである、書生<(=幕友(太田))>でやり通そうというので、書生でもって造った兵隊で長髪族の乱を結局は平らげたのである。」(185〜186、188)
⇒同じことが、既に、乾隆・嘉慶二帝時代(前出)に、白蓮教徒の乱(1796〜1804年)でも起こっており、「清朝正規軍八旗・緑営は長い平和により堕落しており、反乱軍に対しての主戦力とはならず、それに代わったのが郷勇と呼ばれる義勇兵と団練と呼ばれる自衛武装集団であった」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E8%93%AE%E6%95%99%E5%BE%92%E3%81%AE%E4%B9%B1
ところです。
現在のイラクのように、こういう体たらくに陥った政権の命脈は、尽きている、ということです。(太田)
(続く)
<内藤湖南の『支那論』を読む(その16)>(2015.5.22配信)(2015.9.7公開)
「支那では・・・平等主義<であって、>・・・元来上官と下級官吏との関係でも、私交の上については日本ほど階級はない。
日本ではある局長とかいう者は、書記官とか参事官に対して公務以外のことでも、目下の扱いをする。その書記官なり参事官は上官に対する態度で腰を曲げ謹んで御用を承るが、日本の現在の制度では<、本来、>そんな理屈はない。・・・
<ところが、>支那へ言って宴会など<では、>・・・言葉でも何でも同等で、ほとんど上下の差別はない。・・・
⇒「人物間の親疎関係や上下関係を反映した言語表現が体系的に文法化された形式」としての敬語は欧米語<や漢語(太田)>にはありません
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%AC%E8%AA%9E
が、だからといって、欧米や支那の方が日本よりも平等主義的で階級的でない、ということにはなりません。
私見は、実態はむしろその逆なのであり、だからこそ、人間関係の円滑化と秩序の維持の必要性から、日本で敬語が発達した、というものです。
(日本の文化審議会も、敬語は、「人と人との「相互尊重」の気持ちを基盤とした「自己表現」を表す意味において重要な役割を果た<している>」(上掲)としています。)
そして、敬語があるのだから、敬語的所作もある、というわけです。
また、役所の場合、局長、書記官、参事官・・書記官と参事官の上下は役所によって違いがある・・は、一般に全てキャリアであるところ、年功序列的人事管理が行われているので、通常、職階の上下は年齢・・但し入省年次・・の上下と一致している、ということがあります。
もう一つ、欧米や支那とは違って、日本では公私の境界線が不分明である、ということがあることも、付言しておきましょう。
これら全ては、日本が人間主義社会であるのに、欧米は拡大英国を除いて人間主義的社会ではなく、また、支那は人間主義的社会ではない、ということに起因するところの、文明の違いの現れなのです。
(欧米各国語にも「敬語」ならぬ「敬称」は存在しますが、「英語の二人称代名詞であるyouももともとは敬称であった。英語話者が家族であろうと親しい友人であろうと常に本来敬称であったyouのみを使うようになったためにyouが敬称としての意味を失い、敬称でない形のthouが忘れ去られるに至った」(上掲)ところ、これは、英語のみにおいて生じたものであり、人間主義的社会であるイギリスにおいて、面白いことに、人間主義社会である日本とは逆のベクトルが働いたことを示しています。)
すなわち、結論的には、内藤の捉え方は誤りである、と考えます。(太田)
支那の・・・地方官、総督、巡撫以下には、幕友<(注21)>というものがある。支那の大官は収入が沢山あるから、幕友というものを養っておる。自分の友人として多い人は数十人も養っておる、皆ほとんど同等の礼を執って、本当の客分として扱っておる。・・・
(注20)「<支那、特>に明・清時代における官僚の私設秘書のこと。幕客、師爺(しや)ともいう。」「清の雍正・乾隆年間 (18世紀) に盛んであった。明代以後の地方官は本籍回避の制が適用されたため、まったく不案内の地に赴任しなければならなかった<ことも背景にある>。」「科挙は作詩作文能力や経書に対する知識を試すものであっても、現実の実務知識とは無関係な試験だった。実務は〈読書万巻、律を読まず〉式の官のもとで、胥吏とよばれる専業者によって担われたのである。しかも、一県に正式の官員は数名ということからも分かるように、仕事量と定員の関係はきわめて不釣合だった。・・・ 」
https://kotobank.jp/word/%E5%B9%95%E5%8F%8B-113878
「<支那>の旧法制で,官僚を任用する際、ある条件の地位を避けさせる制度<は、>廻避とも書き、大別して親族回避と本籍回避の2種があった。<支那>では古来から家族制度を重んじ、律においても近親間では互いに犯罪を隠匿することを容認したくらいであるから、こういう制度も自然に発達したのであろう。」
https://kotobank.jp/word/%E6%9C%AC%E7%B1%8D%E5%9B%9E%E9%81%BF-1417900
⇒支那の「地方の末端は、・・・一貫して、宗族群であった」(コラム#7670)ことから、私が言うところの、一族郎党命主義が支那で蔓延してきたからこそ、親族回避・・本籍回避も事実上同じこと・・が必要であったところ、宗族がいない場所で仕事をするために、官吏が部下候補者たる疑似宗族・・宗族的信頼関係で結ばれていた・・を作り出す必要があった、ということ以上でも以下でもありますまい。
(そもそも、平素から、幕友を多数抱えられるくらい、官吏の合法・非合法の収入が大きかったことも、また、問題ですが・・。)
なお、幕友の起源は支那で戦国時代に貴族が抱えた食客
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9F%E5%AE%A2
ではないかと私は想像しているのですが、誰もそう言っていませんね。(太田)
曽国藩<(コラム#4902、4906、5362、5537、5539、5541、5547、6198、6563)<は・・・長髪族の乱の時に・・・もう<役立たずの>常備兵などの力を借るのは愚かなことである、書生<(=幕友(太田))>でやり通そうというので、書生でもって造った兵隊で長髪族の乱を結局は平らげたのである。」(185〜186、188)
⇒同じことが、既に、乾隆・嘉慶二帝時代(前出)に、白蓮教徒の乱(1796〜1804年)でも起こっており、「清朝正規軍八旗・緑営は長い平和により堕落しており、反乱軍に対しての主戦力とはならず、それに代わったのが郷勇と呼ばれる義勇兵と団練と呼ばれる自衛武装集団であった」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E8%93%AE%E6%95%99%E5%BE%92%E3%81%AE%E4%B9%B1
ところです。
現在のイラクのように、こういう体たらくに陥った政権の命脈は、尽きている、ということです。(太田)
(続く)
太田述正ブログは移転しました 。
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