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太田述正コラム#7670(2015.5.17)
<内藤湖南の『支那論』を読む(その10)>(2015.9.1公開)
「支那では隋・唐以来人民の自治は存在しておるが、官吏は自治の範囲に立ち入らずに、ただ文書の上で執り行うところの職務だけを行っておる。どちらかと云えば官は人民を治めないと言うことも出来る。・・・
それがため、地方の人民というものは官の保護を受けるという考えは無くなってしまった。・・・甚だしきは警察の仕事までも、各自治団体で自治区域の兵を養う、すなわち多くは無頼漢に一方に職務を得させ、そうしてそれを以てまた無頼漢を防ぐ方法を執っておるのであ<る。>・・・
つまるところ近来の支那は大きな一つの国とはいうけれども、小さい地方自治団体が一つ一つの区画を成しておって、それだけが生命あり、体統ある団体であるが、その上にこれに向かって何らの利害の観念をももたないところの・・・官吏が、税を取るために入れ代わり立ち代わり来ておるというに過ぎない。それで謂わば植民地の土人が外国の官吏に支配されておるのと少しも変わらないのである。・・・<だから、>いつ騒乱が起こるかも分らぬのである。・・・
⇒いささか首を傾げざるをえないくだりです。
少し長いが、以下を参照してください。
「明および清初の郷村統治組織<は、>・・・1381・・・年・・・に設定された。田土所有者 110戸をもって1里を編成し,そのうち人丁や税負担額の多い富裕な戸10戸を里長とし,残りの 100戸を甲首として 10戸ずつ 10甲に分けた・・・里甲制<だった。>」
https://kotobank.jp/word/%E9%87%8C%E7%94%B2%E5%88%B6-148616
「この里の中の収税・治安維持などの公的業務(正役)を甲が1年毎に持ち回りで行い、10年で一回りとなる。この制度は<明を創建した>朱元璋の理想とした重農主義を実現しようとするものだったが、明中期以降には経済が発達し、郷紳・豪商・富農への土地の集中と都市への移住が進んだためにこの制度は立ち行かなくなった。これに代わり<明は>1580年・・・一条鞭法を施行した。 清も当初は里甲制を採用したが、ほどなく地丁銀制に変わった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8C%E7%94%B2%E5%88%B6
「一条鞭法<は、>・・・複雑化していた税制を、丁税(人頭税)と地税にまとめ、一括して銀で納税することを定めたもの<であり、>・・・のちの清代における地丁銀制に影響を与えた。・・・一条鞭法の導入は、近代以前のユーラシアで最大の経済力を持つ中華帝国における通貨としての銀の重要性を従来以上に高め、東アジア全域で銀流通を活発化した。そのため、南北アメリカ大陸の膨大な銀生産を独占する西<欧>諸国の影響力が強まり、<欧州>による世界制覇の遠因となったとされる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E9%9E%AD%E6%B3%95
「清代には急激な人口の増加が見られたが、その一因は、地銀制の実施により、従来は丁銀を逃れるために隠されていた人口が表に出て正確な人口が把握できるようになったことにあるとされる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E4%B8%81%E9%8A%80%E5%88%B6
「清末期<には、>・・・宗族を単位とする自治団体の設立が見られた。」
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/81005505.pdf
以上を踏まえ、私は、明と清の郷村なるものは、徴税上の紙の上の末端単位に過ぎず、地方の末端は、それ以前から、一貫して、宗族群であったのではないか、と見ています。
そして、清末には、この宗族群が公的な行政末端の様相を帯び始めた、と見るのです。
その上で、内藤の指摘を借りれば、支那における、中央政府は、清末に至るまで、一貫して、地方における、(事実上、または、公的な)末端たる宗族群を植民地支配的に統治してきていた、ということになりそうです。(太田)
もちろん近日の革命以来、官吏というものは皆地方から選挙されたので、中央の派遣者でなくなったということだけはあるが、その代わり今日の有様では地方の都督並びにその以下の者でも、中央政府に対してほとんど服従の考えは無いのである。」(105〜109)
⇒中華民国において・・ということは、全支那史において・・、初めて中央政府の議会の選挙が実施されたのは1913年でしたが、その次に実施されたのは、実にその35年目の1948年においてでした。
(それが支那本土における、現在のところ、最後の選挙です。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%9B%E4%BA%A5%E9%9D%A9%E5%91%BD
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E6%B0%91%E5%9B%BD%E7%AB%8B%E6%B3%95%E5%A7%94%E5%93%A1%E9%81%B8%E6%8C%99
ですから、私は、中華民国で地方での選挙は実施されなかった、という認識だったのですが、内藤の言っていることが正しければ、末端の首長の選挙が、中華民国が成立した直後の袁世凱時代に実施されていたことになります。
(仮にそれが事実だとすると、中共の現在の選挙事情は、中華民国成立直後の状態にとどまっている、ということになります。)
そのあたりの史実をご存知の方は、(各種選挙の選挙権・被選挙権についてもできればですが、)ぜひご教示いただきたいものです。(太田)
(続く)
<内藤湖南の『支那論』を読む(その10)>(2015.9.1公開)
「支那では隋・唐以来人民の自治は存在しておるが、官吏は自治の範囲に立ち入らずに、ただ文書の上で執り行うところの職務だけを行っておる。どちらかと云えば官は人民を治めないと言うことも出来る。・・・
それがため、地方の人民というものは官の保護を受けるという考えは無くなってしまった。・・・甚だしきは警察の仕事までも、各自治団体で自治区域の兵を養う、すなわち多くは無頼漢に一方に職務を得させ、そうしてそれを以てまた無頼漢を防ぐ方法を執っておるのであ<る。>・・・
つまるところ近来の支那は大きな一つの国とはいうけれども、小さい地方自治団体が一つ一つの区画を成しておって、それだけが生命あり、体統ある団体であるが、その上にこれに向かって何らの利害の観念をももたないところの・・・官吏が、税を取るために入れ代わり立ち代わり来ておるというに過ぎない。それで謂わば植民地の土人が外国の官吏に支配されておるのと少しも変わらないのである。・・・<だから、>いつ騒乱が起こるかも分らぬのである。・・・
⇒いささか首を傾げざるをえないくだりです。
少し長いが、以下を参照してください。
「明および清初の郷村統治組織<は、>・・・1381・・・年・・・に設定された。田土所有者 110戸をもって1里を編成し,そのうち人丁や税負担額の多い富裕な戸10戸を里長とし,残りの 100戸を甲首として 10戸ずつ 10甲に分けた・・・里甲制<だった。>」
https://kotobank.jp/word/%E9%87%8C%E7%94%B2%E5%88%B6-148616
「この里の中の収税・治安維持などの公的業務(正役)を甲が1年毎に持ち回りで行い、10年で一回りとなる。この制度は<明を創建した>朱元璋の理想とした重農主義を実現しようとするものだったが、明中期以降には経済が発達し、郷紳・豪商・富農への土地の集中と都市への移住が進んだためにこの制度は立ち行かなくなった。これに代わり<明は>1580年・・・一条鞭法を施行した。 清も当初は里甲制を採用したが、ほどなく地丁銀制に変わった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8C%E7%94%B2%E5%88%B6
「一条鞭法<は、>・・・複雑化していた税制を、丁税(人頭税)と地税にまとめ、一括して銀で納税することを定めたもの<であり、>・・・のちの清代における地丁銀制に影響を与えた。・・・一条鞭法の導入は、近代以前のユーラシアで最大の経済力を持つ中華帝国における通貨としての銀の重要性を従来以上に高め、東アジア全域で銀流通を活発化した。そのため、南北アメリカ大陸の膨大な銀生産を独占する西<欧>諸国の影響力が強まり、<欧州>による世界制覇の遠因となったとされる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E9%9E%AD%E6%B3%95
「清代には急激な人口の増加が見られたが、その一因は、地銀制の実施により、従来は丁銀を逃れるために隠されていた人口が表に出て正確な人口が把握できるようになったことにあるとされる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E4%B8%81%E9%8A%80%E5%88%B6
「清末期<には、>・・・宗族を単位とする自治団体の設立が見られた。」
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/81005505.pdf
以上を踏まえ、私は、明と清の郷村なるものは、徴税上の紙の上の末端単位に過ぎず、地方の末端は、それ以前から、一貫して、宗族群であったのではないか、と見ています。
そして、清末には、この宗族群が公的な行政末端の様相を帯び始めた、と見るのです。
その上で、内藤の指摘を借りれば、支那における、中央政府は、清末に至るまで、一貫して、地方における、(事実上、または、公的な)末端たる宗族群を植民地支配的に統治してきていた、ということになりそうです。(太田)
もちろん近日の革命以来、官吏というものは皆地方から選挙されたので、中央の派遣者でなくなったということだけはあるが、その代わり今日の有様では地方の都督並びにその以下の者でも、中央政府に対してほとんど服従の考えは無いのである。」(105〜109)
⇒中華民国において・・ということは、全支那史において・・、初めて中央政府の議会の選挙が実施されたのは1913年でしたが、その次に実施されたのは、実にその35年目の1948年においてでした。
(それが支那本土における、現在のところ、最後の選挙です。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%9B%E4%BA%A5%E9%9D%A9%E5%91%BD
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E6%B0%91%E5%9B%BD%E7%AB%8B%E6%B3%95%E5%A7%94%E5%93%A1%E9%81%B8%E6%8C%99
ですから、私は、中華民国で地方での選挙は実施されなかった、という認識だったのですが、内藤の言っていることが正しければ、末端の首長の選挙が、中華民国が成立した直後の袁世凱時代に実施されていたことになります。
(仮にそれが事実だとすると、中共の現在の選挙事情は、中華民国成立直後の状態にとどまっている、ということになります。)
そのあたりの史実をご存知の方は、(各種選挙の選挙権・被選挙権についてもできればですが、)ぜひご教示いただきたいものです。(太田)
(続く)
太田述正ブログは移転しました 。
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