太田述正コラム#7534(2015.3.10)
<「個人」の起源(その3)>5.6.25公開)

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<お詫び>

 以下の本文を執筆し終わる寸前に、この本を、昨年、「個人の出現」シリーズ(コラム#6723、6725、6727、6729、6735、6739、6743)で既に取り上げたことがあること、に気付きました。
 ガーディアンが、つい最近、この本の書評を載せたので、最新刊本だと勘違いしたのです。
 ただし、前回のシリーズは、2つの書評(A(今回のB)とB(今回のD))のみに拠ったものであったのに対し、今回のシリーズは、6つの書評に拠っており、前回よりも4つ拠った書評が増えています。
 今回のシリーズの、「その1」、「その2」では、前回のシリーズで既使用の2つの書評を殆んど使用しなかったために、気付くのが遅れました。
 今回は、前回既使用の書評もかなり使用しましたが、次回以降は、できるだけ既使用の書評は使わず、必要に応じ、前回のシリーズを引用する形にすることとし、概ね予定していた通りに進行させることにしたので、ご了解いただければ幸いです。
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 (3)キリスト教

 「<これらのことは、>サイデントップの見解では、聖パウロ<(Paul)(コラム#337、1019、1204、1233、1411、3100、3151、3616、4078、4884、5326、5388、5390、5402、5408、5414、5416、5422、5432、5566、6024、6146、6365、6477、6481、6483、6485、6493、6652、6723、6727、6735、7058、7366、7425、7448、7464)>によって広められたキリスト教のメッセージによって挑戦を受けた。
 彼にとっては、奴隷も自由人も、ギリシャ人もユダヤ人も、彼らがキリストの言葉を受容しているのであれば、異なった(distinct)地位(status)にはないのだ。・・・
 中世のカトリックの神学、哲学、そして法は、欧米のリベラリズムのルーツを探す先としては通例ではないけれど、ラリー・サイデントップによれば、個々の人間達の間における「道徳的平等性(moral equality)」の観念の中に<そのルーツを>見出すことができる、というのだ。
 彼は、この概念が、キリスト教圏の欧米をその他の世界とを劃すものであり、それがカトリシズムに諸起源を持つことが忘れられてしまっているけれど、それこそが、リベラル・イデオロギーが芽を出した苗床を提供したのだ、と信じている。
 <すなわち、>「その基本的な諸仮定において、リベラル思想はキリスト教の所産(offspring)なのだ。なぜならば、リベラリズムは、キリスト教によって提供された道徳的諸仮定に依拠しているからだ」、と彼は主張する。
 <欧米以外の>世界の他の諸部分において、社会が、何をすることができ、いずこへと方向づけられるべきか、について、異なった諸仮定が支配的である時にあって、これらの諸価値は擁護される必要がある、と。
 <例えば、>中共においては、「政府のイデオロギーは、人間の自由を踏みにじり、功利主義の愚鈍な(crass)形態に堕してしまっているが、これは、我々の最深部の諸直観を損なうものだ」、と彼は述べる。・・・
 <その上で、>「聖パウロは、人間の歴史の中における最も偉大な革命家だった」、とサイデントップは述べる。
 たとえ、彼が新約聖書から、革命的として挙げるいくつかのくだり・・自分自身にやらないであろうことを他人に対してやるな、自分自身と同様に隣人を愛せ・・が、旧約聖書(Hebrew Bible)や他のユダヤの諸典拠からの引用であるとしても・・。
 彼は、東方諸教会、とりわけギリシャ正教もまた、遅れて<ではあれ、>聖パウロを知った、という事実を無視して、<東欧を含む>他と区別される「道徳的平等性」なる欧米の伝統をなぞる。
 また、彼は、彼が大いに強調するところの、カトリック教会の教会法の諸規定(codes)よりも古い諸規定によって支えられていたところの、一種の信者達の「道徳的平等性」を、イスラム教もまた説いていた可能性に関心を示していない。」(B)

 「地中海の周りで、ギリシャ語やラテン語をしゃべる都市住民達が、<キリスト教徒たる>四散したユダヤ人達(Jewish diaspora)と出会い始めた時に・・・種々は蒔かれ、諸物事は興味深いことが引き起こされた。
 「どちらかと言えば、突然、ユダヤ人の諸信条が、かくも興味深いことを引き起こしたところのものは、一体何だったのだろうか。
 それは、部分的には想像に係ることだった。
 <つまり、部分的には、>ローマ帝国に臣従させられた人々としての経験を共有する人々全員に対して、彼の諸法を投与するところの、唯一の、遠くにある、不可解な神のイメージ<の想像に係ることだったのだ>。
 これが、神学的かつ法的な思考の発展に関する、数世紀にわたる、<サイデントップの>思慮深き遠足の始まりなのだ。
 その<間に登場する>スター達は、アウグスティヌス(Augustine)<(コラム#471、1020、1169、1761、3618、3663、3908、5061、5100、5298、6024、6171、6302、6727、7149、7257、7448)>、ドンス・スコトゥス(Duns Scotus)<(コラム#6312)>、そしてウィリアム・オッカム(William of Ockham)<(注8)(コラム#552、6338、6723)>だ。
 オッカムは、「より少ない存在(entity)で説明できるというのに、より多くの諸存在でもって説明するのは無益だ(it is futile to work with more entities when it is possible to work with fewer)」、という命令(injunction)<命題>であるところの「剃刀」でもって有名だ。

 (注8)オッカムの剃刀。「もともとスコラ哲学にあ<ったが、>・・・オッカムが多用したことで有名になった。・・・思考節約の原理や思考節約の法則、思考経済の法則とも呼ばれる。またケチの原理と呼ばれることもある。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%A0%E3%81%AE%E5%89%83%E5%88%80

 (ここでは、関係する諸存在は悪魔達だったが、この、「複数のことは、必要がない限り主張されてはならない」、という原則は、はるかに広範に適用可能であると直ぐに理解されることとなった。)」(A)

(続く)