太田述正コラム#7496(2015.2.19)
<挫折した恋の効用(その3)>(2015.6.6公開)

5 挫折した恋の効用

 さて、ここからは、元ラジオ記者で現在NY州立大学ニュー・パルツ(New Paltz)校助教(ジャーナリズム)のリザ・A・フィリップス(Lisa A. Phillips)
https://www.psychologytoday.com/experts/lisa-phillips
によるコラムからの引用です。
http://www.washingtonpost.com/opinions/how-unrequited-love-can-make-us-more-creative/2015/02/12/525b38c2-ab2a-11e4-9c91-e9d2f9fde644_story.html?hpid=z3
(2月14日アクセス)

 「挫折した(unrequited)恋は、とりわけバレンタインデー前後では、信じがたいほど痛いものだ。
 しかし、それは、・・・恐らく存在する最も強力なミューズ(muse)<(注1)>であるところの、鼓吹させる創造的な力たりうることについても、我々に思い起こさせる。・・・

 (注1)「詩歌・音楽・舞踊・歴史の芸術・学問をつかさどる九女神」
http://ejje.weblio.jp/content/muse

 ファン・ゴッホ(Van Gogh)は、<母の姉の>結婚によるところの、従姉である彼の愛したケー・フォス(Kee Vos)<(注2)>が彼の心を打ち砕いた後で、彼の最良の作品群を若干生み出した。

 (注2)「1881年<のことだが、その>・・・夏の間、最近夫を亡くしたいとこのケー・フォス・ストリッケル<[Kee Vos Stricker]>(母の姉と、アムステルダムのヨハネス・ストリッケル牧師との間の娘)がエッテンを訪れた。彼はケーと連れ立って散歩したりするうちに、彼女に好意を持つようになった。未亡人のケーはゴッホより7歳上で、さらに8歳の子供もいたにもかかわらずゴッホは求婚するが、「とんでもない、だめ、絶対に。」という言葉で拒絶され、打ちのめされた。ケーはアムステルダムに帰ってしまったが、ゴッホは彼女への思いを諦めきれず、ケーに何度も手紙を書き、11月末には、<弟の>テオに無心した金でアムステルダムのストリッケル牧師の家を訪ねた。しかし、ケーからは会うことを拒否され、両親のストリッケル夫妻からはしつこい行動が不愉快だと非難された。絶望した彼は、ストリッケル夫妻の前でランプの炎に手をかざし、「私が炎に手を置いていられる間、彼女に会わせてください。」と迫ったが、夫妻は、ランプを吹き消して、会うことはできないと言うのみだった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%83%E3%83%9B
https://www.google.co.jp/search?q=Kee+Vos%EF%BC%9BVan+Gogh&hl=ja&rlz=1T4RNOA_jaJP583JP584&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=wajlVJWlAsPcmgXg94KYCg&ved=0CB4QsAQ&biw=1603&bih=900#imgdii=_&imgrc=mcozxzGiRMXeaM%253A%3BcGBS1GYWgfTEVM%3Bhttp%253A%252F%252Fvangoghiamo.altervista.org%252Fwp-content%252Fuploads%252F2010%252F11%252FKee-Vos.jpg%3Bhttp%253A%252F%252Fvangoghiamo.altervista.org%252F%253Fm%253D20101129%3B858%3B985 ([]内。ケー・フォスと彼女の子供の写真が載っている。ゴッホは不思議な審美眼を持っていたということか?)
 なお、フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent Willem van Gogh。1853〜1890年)は、「オランダ出身でポスト印象派(後期印象派)の画家。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%83%E3%83%9B

 ダンテ(Dante)は、8歳の時に、ベアトリーチェ(Beatrice)と恋に落ち、大人になってから、彼女に対する傾倒ぶりを、「新生(La Vita Nuova)」<(注3)>と「<神曲>地獄篇(Inferno)」<(注4)>の中で永遠のものにした。

 (注3)「若い時代に書いた詩31篇とその詩を書くにいたった由来や解題をまとめた詩文集である。1293年頃に執筆された。『神曲』に次ぐダンテの代表作・・・。・・・ダンテは幼い時に美少女ベアトリーチェと出会い、青年になって彼女と再会して会釈を受け、激しい恋心を抱くが、ベアトリーチェはほどなくして病気により夭逝した。その悲報を受けてダンテは惑乱し、かねてベアトリーチェについて綴ってきた詩文と、彼女を喪ったことの悲しみをうたった詩をともに『新生』としてまとめ上げた。この中で描写されたベアトリーチェへの賛美に満ちた描写は、のちに『神曲』において天国界の「永遠の淑女」ベアトリーチェの萌芽となった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%94%9F_(%E8%A9%A9%E9%9B%86)
 ダンテ・アリギエーリ(Dante Alighieri。1265〜1321年)。「フィレンツェ出身の詩人、哲学者、政治家。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%AE%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AA
 (注4)「ウェルギリウスに地獄界の教導を請い、煉獄山の頂上でダンテを迎えるベアトリーチェ・・・に関しては、実在した女性ベアトリーチェをモデルにしたという実在論と、「永遠の淑女」「久遠の女性」としてキリスト教神学を象徴させたとする象徴論が対立している。実在のモデルを取る説では、フィレンツェの名門フォルコ・ポルティナーリの娘として生れ、のちに銀行家シモーネ・デ・バルティの妻となったベアトリーチェ(ビーチェ)を核として、ダンテがその詩の中で「永遠の淑女」として象徴化していったと見る。非実在の立場を取る神学の象徴説では、ダンテとベアトリーチェが出会ったのはともに9歳の時で、そして再会したのは9年の時を経て、2人が18歳になった時であるというように、三位一体を象徴する聖なる数「3」の倍数が何度も現われていることから、ベアトリーチェもまた神学の象徴であり、ダンテは見神の体験を寓意的に「永遠の淑女」として象徴化したという説を取る。いずれにせよ、ベアトリーチェは愛を象徴する存在として神聖化され、神学の象徴ともあると考えられている。・・・
 イスラム圏では『神曲』は禁書扱いになっている。それというのも、『神曲』地獄篇第28歌では、・・・ムハンマドと第四代カリフのアリーが「不和・分離の種を蒔いた罪」によって地獄の最下層部に堕とされ、第八圏第九の嚢(マーレボルジェ)の中で、腹を縦に切り開かれて内臓を露出させているという描写があり、そのために、『神曲』地獄篇はイスラム圏では到底受け入れられない内容となっている・・・。また地獄の深層部で重罪人が劫罰を受けるディーテの市は、本文で「回教寺院(モスク)」にも喩えられている。・・・ここには・・・カトリックの信徒としてのダンテが抱く<イスラム教に対する>憎悪が込められている。こうした『神曲』におけるムハンマドの描写は、<イスラム教徒>にとって『悪魔の詩』どころではない最大級の侮辱として受け止められている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%9B%B2

 恋の拒絶(romantic rejection)に際し、伝説的な舞踏家であるイサドラ・ダンカン(Isadora Duncan)<(注5)>は彼女の動作(movement)へのアプローチに関する枢要なひらめき(epiphany)を得た。

 (注5)1878〜1929年。「<米国>のダンサー。モダンダンスの祖。・・・サンフランシスコ生まれ。両親はアイルランド人。・・・ギリシア風のチュニックを用い、靴を用いず、裸足で踊った。ベルリンとパリ、そしてロシア革命後のモスクワにダンス学校を創立。20世紀のダンス、舞踊だけでなく、身体表現の形そのものを変革したといわれる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B5%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%B3

 彼女が自伝に書いたように、彼女は、自分の諸感情を「恋が与えてくれなかった諸喜び(joys)を私に与えてくれた芸術にめがけて」方向付けたのだ。
 我々の時代においては、スミス(Smith)<(注6)>、アデル(Adele)<(注7)>、そして、テイラー・スウィフト(Taylor Swift)<(注8)>が、彼らの音楽の中で、挫折した恋に声を与えた。・・・

 (注6)Sam Smith(1992年〜)。「イギリスのシンガーソングライターである。・・・第57回グラミー賞授賞式が開催され、年間最優秀レコード賞、年間最優秀楽曲賞、最優秀新人賞、そして最優秀ポップ・ヴォーカル・アルバム賞の最多4部門を制覇した。・・・ゲイである・・・。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%9F%E3%82%B9
 彼は、グラミー賞授賞式において、「このアルバムの主である男性に感謝の意を表したい。私の心を折れ(break)させたことで、君は僕に4つのグラミー賞をとらせてくれた」と語った。
http://en.wikipedia.org/wiki/Sam_Smith_(singer)
 (参考)サム・スミス+2名が作詞作曲したStay With Me(2014年)。Youtube上で一番視聴回数の多い彼の曲。
https://www.youtube.com/watch?v=pB-5XG-DbAA
http://www.top40.nl/sam-smith-1/stay-with-me_24927
 (注7)Adele Laurie Blue Adkins(1988年〜)。「イギリスの女性シンガーソングライター。・・・第51回グラミー賞に、主要2部門を含む4部門でノミネートされ、最優秀新人賞と最優秀ポップ女性歌手を受賞した。2011年1月にリリースしたセカンドアルバム『21』は、19カ国で1位を獲得し、年末には売り上げが1,700万枚を超え(21世紀に発売されたアルバムとして3作目)、さらに全米ビルボードアルバムチャートにて発売以来39週連続でトップ5位以内を記録し、マイケル・ジャクソンが持っていた38週連続トップ5の記録を抜いて歴代1位になるという記録を樹立したほか、3つのギネス記録に認定された。・・・第54回グラミー賞に主要3部門を含む6部門でノミネートされ、ノミネートされたすべての賞を獲得した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%87%E3%83%AB_(%E6%AD%8C%E6%89%8B)
 彼女は、上出のセカンドアルバムは、自分の前パートナーとの破局(breakup)によって鼓吹されたものである、と語っている。
http://en.wikipedia.org/wiki/Adele
 (参考)エデル+1名が作詞作曲したSkyfall。映画『007』シリーズ第23作『007 スカイフォール』(2012年)の主題歌。
https://www.youtube.com/watch?v=DeumyOzKqgI
 (注8)Taylor Swift(1989年〜)。「<米>国のカントリー・ミュージック歌手、シンガーソングライター。女優として映画やテレビドラマにも出演している。・・・立て続けにヒット曲を生み出して<いる。>・・・
 過去にジョナス・ブラザーズの次男ジョー・ジョナスや俳優のテイラー・ロートナーと交際していた。2010年には一時ジェイク・ジレンホールと交際報道があったが、すぐに破局。・・・2012年の8月には、ジョン・F・ケネディの甥にあたるコナー・ケネディと交際したが10月に破局。2012年12月頃から、ワン・ダイレクションのハリー・スタイルズと交際していたが約一ヶ月半という短い期間で破局してしまった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%95%E3%83%88
 (参考)テイラー・スウィフト+2名が作詞作曲したShake It Off。全米1の大ヒットをした彼女の曲の一つ(1989年)。
https://www.youtube.com/watch?v=nfWlot6h_JM
http://j-lyric.net/artist/a05267f/l03360f.html

(続く)