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太田述正コラム#7464(2015.2.3)
<イスラム世界における反ユダヤ主義>(2015.5.21公開)
1 始めに
昨日のディスカッションで予告した2つの記事のうちのもう1つ、表記に係る、ジョナサン・サックス(Jonathan Sacks)によるコラム
http://www.wsj.com/articles/the-return-of-anti-semitism-1422638910
(2月2日アクセス)のさわりをご紹介するとともに、私のコメントを付します。
なお、サックス(1948年〜)は、ロンドン生まれのユダヤ人で、ケンブリッジ大学で哲学を学び、オクスフォード大学とロンドン大キングズカレッジで博士号を取得するとともに、ラビに就任したところの、哲学者にしてユダヤ教学者で、男爵を授与さる、という人物です。
http://en.wikipedia.org/wiki/Jonathan_Sacks
2 イスラム世界における反ユダヤ主義
「中東及び北アフリカで調査された者の74%は反ユダヤ的諸姿勢を抱いている。
西欧では24%、東欧では34%、南北アメリカでは19%だ。
⇒(中東以外の)アジアの数字を知りたいところです。
まさか、イスラム教徒やキリスト教徒もかなりいることから、ゼロ%ではないでしょう。(太田)
或いはまた、・・・2011年の資料によると、調査したイスラム教が中心の諸地域では、ユダヤ人に対して好意的な諸見解は「押しなべて少な」かった。
すなわち、トルコやパレスティナ両地域では4%、レバノンでは3%、エジプト、ヨルダン、及び、パキスタンでは2%だった。・・・
反ユダヤ主義は極めて長期間存続してきた。
一つの枢要な瞬間が1世紀末前後に訪れた。
その頃、ヨハネの福音書が、「お前達はお前たちの父親である悪魔に属している」というユダヤ人達についての諸言葉を、イエスによるものとした。
アブラハムの子供達でありながら、ユダヤ人達は、悪魔の子供達へと変容したというのだ。
しかし、この文章(text)がユダヤ人達に対する広範な暴力を引き起こしたのは、その1000年後のことだった。
その到来は、ウルバヌス(Urban)2世<(コラム#1229、1362、1409、3816、3906、5474、5490、5492、5494)>が第一回十字軍の呼びかけを行った1095年だった。
その1年後、若干の十字軍従事者達は、聖なる都市のエルサレムを「解放する」途上、休憩して、北欧、ケルン、ウォルムス、そして、マインツにおけるユダヤ人諸コミュニティを殺戮した。<(注1)>・・・
(注1)「カトリック教徒対異教徒という構図が出来上がると、一部の人々の目に身近な異教徒であるユダヤ人の存在が映った。なぜ異教徒を倒すためにわざわざ遠方に赴かなければならないのか、ここに異教徒がいるではないか、しかもキリストを十字架につけたユダヤ人たちが、というのが彼らの考えであった。・・・
この1096年の事件を逃れたドイツのユダヤ人は、宗教に寛容なポーランド王国へ逃げ込んだ。・・・ポーランドは1264年にカリシュ市で「カリシュの法令」と呼ばれる法律を発布、ユダヤ人の権利と安全を制度的に保障した。これらの歴史的経緯によりポーランドは中世から第二次世界大戦の時代まで、ヨーロッパで最大のユダヤ人人口を抱える国(地域)<とな>った。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC1%E5%9B%9E%E5%8D%81%E5%AD%97%E8%BB%8D
諸十字軍の時代から、キリスト教欧州のユダヤ人達は、人間達ではなく、他者達に害を加えたいと不思議にも、しかし、積極的に思っているところの、悪魔的にして破壊的な力と見られるようになった。・・・
<時代は下って、>1890年代に、誰かが、欧州における反ユダヤ主義の諸震源地を名指しするよう聞かれたとすれば、その諸答えは、恐らく、(ユダヤ系のフランスの軍事士官であるアルフレッド・ドレフュス(Alfred Dreyfus)がスパイに仕立て上げられ、違法に投獄された)パリ、(ヒットラーを鼓吹し、彼の役割モデルとなった、その、偏見を抱く市長たるカール・ルエーガー(Karl Lueger)<(注2)>の)ウィーン、だったことだろう。・・・
(注2)1844〜1910年。ウィーン大学で法学を学ぶ。「<オーストリア帝国議会議員であった>ルエーガーは、ロスチャイルド家などウィーン経済を支配するユダヤ資本に対して市民の間に高まりつつあった反感を巧みに利用し、激しいユダヤ人攻撃を行い、1895年以来3度にわたって選挙に勝利を重ね、市長に選出された。その都度、皇帝フランツ・ヨーゼフの拒絶にあっていたが、4度目の市長選出にあたっては皇帝もこれを認めざるをえなくなり、1897年4月20日にウィーン市長となった。市長となってからは反ユダヤ主義的発言は少なくなり、ルエーガーにとってそれは単なる選挙戦術だったという見方もある。・・・ウィーンのガス、水道、電気など公共施設の拡充に尽力してそれを市営化し、市外電車を設立、教育事業を拡大したり、福祉設備を建てるなどの都市整備を行い、ウィーンの大都市化と都市生活の近代化に貢献した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%82%AC%E3%83%BC
反ユダヤ主義は、文化、国家(nation)、或いは信仰が認知的不協和(cognitive dissonance)に苦しめられ、それが極めて深刻で耐えがたくなった場合にのみ致死的となる。
それは、一つの集団が自身について見る流儀が世界によって自身が見られている流儀と矛盾する場合に生じる。
それは、屈辱の耐え難き感覚の症候なのだ。
4世紀にローマ皇帝コンスタンティヌスの改宗によって変容したキリスト教は、11世紀に、自身が、イスラム教によって凌駕されたことを見出した。
<或いは、>ドイツは、自身を欧州で至上の国家と見ていたのに、第一次世界大戦に敗れ、次いで、ヴェルサイユ条約の下で懲罰された。
これらの諸屈辱は、内省ではなく、非難し破壊することができる外の諸敵たる外国の犯人達の探求をもたらした。
前世紀におけるイスラム世界における同様のことは、残っていた帝国的権力の砦(bastion)のうちの一つであった、オスマントルコ帝国の、1922年の敗北と解体だった。
<その結果、>その6年後、イスラム同胞団という形の急進的な政治的イスラムがエジプトで生まれた。・・・
イスラム世界は、伝統的にユダヤ人達に対する侮蔑を抱いていたけれど、それは憎しみが付加されてはいなかった。
「侮蔑によってあなたは死なないが、憎しみによってあなたは死ぬ」のだ。
反ユダヤ主義は、二つの古典的神話群が欧州から輸入される形で、外から入ってきた。・・・
<1つ目の、血の>中傷(<blood> libel)<(コラム#3844、4495)>は、1144年前後にノリッジ(Norwich)で生まれた、イギリス人の発明だった。<(注3)>・・・
(注3)「血の中傷が最初に知られるようになったのは、イギリス東部の町ノリッ<ジ>で発生したデマによってである。1149年、トマスという名の修道士によって下記のような噂が広められ、瞬く間に有名になったという。ただし、資料学的な検証の末、現在では1144年に起きた出来事と推定されている。ある日のこと、ウィリアムという名の幼児の遺体が森の中で発見された。その遺体は腐敗こそしていなかったものの、暴力が加えられた痕跡が残されていた。事件の調査に当たったトマスは、聞き込みによってユダヤ人の関係を仄めかすいくつかの証言を集めた。ユダヤ人富豪の屋敷で働く家政婦によると、彼女は屋敷内でその幼児が縛られているのを目撃したという。また、キリスト教徒のひとりは、遺体を森の中へと運ぶユダヤ人の集団と遭遇したと報告した。さらには、トマスの友人のユダヤ人キリスト教改宗者も、ユダヤ人が毎年フランスのナルボンヌに集まり、その年の過越の生贄をどの町から調達するのかを協議していると告白した。当時の資料に基づいた歴史家の推論によれば、すべての証言はユダヤ人キリスト教改宗者がトマスに吹聴したものと見られている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%80%E3%81%AE%E4%B8%AD%E5%82%B7
それは、19世紀にキリスト教徒達によって中東にもたらされ、レバノンやエジプト、そして、最も有名なものは1840年にダマスカスで、無辜のユダヤ人達に対する諸裁判をもたらした。・・・
ロシア皇帝の秘密警察の成員達によって作られ、早くも1921年にロンドンタイムスによってフィクションであることが暴露されたところの、いわゆる全球的なユダヤ人の陰謀に関する偽造文書である、19世紀末の「シオンの議定書(The Protocols of the Elders of Zion)」<(コラム#471、1010、1552、3252、4240、4541)が二つ目だ。>・・・
この「議定書」は、中でも、第二次世界大戦中ベルリンに滞在し、ナチスのためのアラビア語の諸放送を制作した、エルサレムの大法律学者(grand mufti of Jerusalem)たるハジ・アミン・アル=フセイニ(Hajj Amin al-Husayni)<(コラム#75、1357、1380、2033、4290)>によって、1930年代に、アラビア語訳で中東に紹介された。・・・
悲劇的にも、欧州は、概ね、自身を反ユダヤ主義から治癒させたけれど、それが<イスラム教徒の流入・増大という形で>復活しつつある。・・・
真の悲劇は、欧米が、反ユダヤ主義を厳密にユダヤ人の問題だと見続けることだろう。
そうではないのだ。
ユダヤ人達はそれによって死ぬけれど、それはユダヤ人達に関することではないのだ。
血の中傷は、聖体拝受(Eucharist)を信じ、諸秘跡と教会の力が失われつつあることを恐れる、キリスト教徒達の創造物だったのだし、「議定書」は、帝国と栄光を夢見つつ、彼らの世界が革命によって粉砕されようとしていることを恐れたロシアの皇帝主義者達による偽造だったのだから・・。
<その結果起こっているのが以下のような諸事件だ。>
シャルリ・エブド風刺誌の事務所における12人の人々の殺害の後の、パリのユダヤ人向けスーパーでの3週間前のユダヤ人来店者達の殺害、はそれがこの種の最初の出来事ではなく、一つのパターンの一部だったので、多くのユダヤ人達の背筋を凍らせた。
2014年には、ブリュッセルのユダヤ博物館で4人が殺された。
2012年には、トゥールーズ(Toulouse)のユダヤ人学校で、一人のラビと3人の子供達が殺害された。
2008年には、ムンバイ(Mumbai)で、同市の諸カフェと諸ホテルで人々を殺害した、より大きな集団とは別に、4人のテロリスト達が、小さな伝統派ユダヤ人センターに押し入り、拷問し、切り刻んだ後、若きラビと彼の妊娠した妻を殺害した。」
3 終わりに
こんなご時世に、あれだけの高等教育を受けながら、イギリスでラビになるようなサックスの心理は、私には到底理解ができませんが、以上ご紹介した彼の指摘は、決して間違ってはいません。
問題なのは、彼が、根本的なことから目を逸らせていることです。
それは、どうして、ユダヤ人迫害が、もっぱら、キリスト教世界とイスラム教世界で行われてきたか、です。
誰でも知っていることですが、キリスト教はユダヤ教の異端、イスラム教はユダヤ教とキリスト教の異端、であり、この3つの宗教の経典のコンテンツは大幅に重なり合っています。
ここから、キリスト教徒やイスラム教徒のユダヤ人嫌いは、親子間の反目的な近親憎悪らしい、と言えそうです。
仮にそうだとすると、近親憎悪とは無縁な親子の方がむしろ通例であるところ、かくも深刻な憎悪の原因を作ったのは親であるユダヤ教である可能性が高い、と言うべきでしょう。
考えてみると確かにそうなのであって、ユダヤ教の創世、及び人類史の物語の面白さ、その物語と密接不可分の厳格な一神教と選民思想と終末論、更には、自分達の宗教ないし同胞達を守るための武力行使を厭わない姿勢、等が、そっくりそのまま、キリスト教とイスラム教に受け継がれたことで、3者間の相互反目ないし深刻な相互憎悪の構造が確立した、と私は考えるに至っています。
そもそも、ユダヤ教とキリスト教ないしイスラム教とは、どこが違うのでしょうか?
前者は宣教をしないのに、後者2つはする、という違いしかありません。
では、キリスト教とイスラム教の違いは?
最近記したばかりですが、基本的に、前者は、政治権力や教会を「神」との間に介在させているけれど、後者は介在させていない、という違いしかありません。
これほどにも、この3つの宗教は互いに似通っているのです。
(話が拡散するので、簡単に触れるにとどめますが、マルクス主義もまた、(ユダヤ人たるイエス/パウロが作ったキリスト教同様、ユダヤ人たるマルクスが作ったところの、アラブ人たるムハンマドが作ったイスラム教よりもはるかに正真正銘の)ユダヤ教の異端なのであり、だからこそ、ロシア革命においてユダヤ人が大きな役割を果たしつつも、スターリン主義下でユダヤ人は迫害される羽目になりました。)
ですから、ユダヤ人に求められるのは、望むらくはサックスらが先頭に立って、これだけ、人類史に害悪や紛争の種をまき散らしてきたところの、ユダヤ教の廃棄を宣言し、キリスト教徒達にはキリスト教の廃棄を、イスラム教徒達にはイスラム教の廃棄を促すことです。
その結果、イスラエル国家が存続できなくなるかどうか、など、芥子粒のように小さいことである、と私は思います。
<イスラム世界における反ユダヤ主義>(2015.5.21公開)
1 始めに
昨日のディスカッションで予告した2つの記事のうちのもう1つ、表記に係る、ジョナサン・サックス(Jonathan Sacks)によるコラム
http://www.wsj.com/articles/the-return-of-anti-semitism-1422638910
(2月2日アクセス)のさわりをご紹介するとともに、私のコメントを付します。
なお、サックス(1948年〜)は、ロンドン生まれのユダヤ人で、ケンブリッジ大学で哲学を学び、オクスフォード大学とロンドン大キングズカレッジで博士号を取得するとともに、ラビに就任したところの、哲学者にしてユダヤ教学者で、男爵を授与さる、という人物です。
http://en.wikipedia.org/wiki/Jonathan_Sacks
2 イスラム世界における反ユダヤ主義
「中東及び北アフリカで調査された者の74%は反ユダヤ的諸姿勢を抱いている。
西欧では24%、東欧では34%、南北アメリカでは19%だ。
⇒(中東以外の)アジアの数字を知りたいところです。
まさか、イスラム教徒やキリスト教徒もかなりいることから、ゼロ%ではないでしょう。(太田)
或いはまた、・・・2011年の資料によると、調査したイスラム教が中心の諸地域では、ユダヤ人に対して好意的な諸見解は「押しなべて少な」かった。
すなわち、トルコやパレスティナ両地域では4%、レバノンでは3%、エジプト、ヨルダン、及び、パキスタンでは2%だった。・・・
反ユダヤ主義は極めて長期間存続してきた。
一つの枢要な瞬間が1世紀末前後に訪れた。
その頃、ヨハネの福音書が、「お前達はお前たちの父親である悪魔に属している」というユダヤ人達についての諸言葉を、イエスによるものとした。
アブラハムの子供達でありながら、ユダヤ人達は、悪魔の子供達へと変容したというのだ。
しかし、この文章(text)がユダヤ人達に対する広範な暴力を引き起こしたのは、その1000年後のことだった。
その到来は、ウルバヌス(Urban)2世<(コラム#1229、1362、1409、3816、3906、5474、5490、5492、5494)>が第一回十字軍の呼びかけを行った1095年だった。
その1年後、若干の十字軍従事者達は、聖なる都市のエルサレムを「解放する」途上、休憩して、北欧、ケルン、ウォルムス、そして、マインツにおけるユダヤ人諸コミュニティを殺戮した。<(注1)>・・・
(注1)「カトリック教徒対異教徒という構図が出来上がると、一部の人々の目に身近な異教徒であるユダヤ人の存在が映った。なぜ異教徒を倒すためにわざわざ遠方に赴かなければならないのか、ここに異教徒がいるではないか、しかもキリストを十字架につけたユダヤ人たちが、というのが彼らの考えであった。・・・
この1096年の事件を逃れたドイツのユダヤ人は、宗教に寛容なポーランド王国へ逃げ込んだ。・・・ポーランドは1264年にカリシュ市で「カリシュの法令」と呼ばれる法律を発布、ユダヤ人の権利と安全を制度的に保障した。これらの歴史的経緯によりポーランドは中世から第二次世界大戦の時代まで、ヨーロッパで最大のユダヤ人人口を抱える国(地域)<とな>った。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC1%E5%9B%9E%E5%8D%81%E5%AD%97%E8%BB%8D
諸十字軍の時代から、キリスト教欧州のユダヤ人達は、人間達ではなく、他者達に害を加えたいと不思議にも、しかし、積極的に思っているところの、悪魔的にして破壊的な力と見られるようになった。・・・
<時代は下って、>1890年代に、誰かが、欧州における反ユダヤ主義の諸震源地を名指しするよう聞かれたとすれば、その諸答えは、恐らく、(ユダヤ系のフランスの軍事士官であるアルフレッド・ドレフュス(Alfred Dreyfus)がスパイに仕立て上げられ、違法に投獄された)パリ、(ヒットラーを鼓吹し、彼の役割モデルとなった、その、偏見を抱く市長たるカール・ルエーガー(Karl Lueger)<(注2)>の)ウィーン、だったことだろう。・・・
(注2)1844〜1910年。ウィーン大学で法学を学ぶ。「<オーストリア帝国議会議員であった>ルエーガーは、ロスチャイルド家などウィーン経済を支配するユダヤ資本に対して市民の間に高まりつつあった反感を巧みに利用し、激しいユダヤ人攻撃を行い、1895年以来3度にわたって選挙に勝利を重ね、市長に選出された。その都度、皇帝フランツ・ヨーゼフの拒絶にあっていたが、4度目の市長選出にあたっては皇帝もこれを認めざるをえなくなり、1897年4月20日にウィーン市長となった。市長となってからは反ユダヤ主義的発言は少なくなり、ルエーガーにとってそれは単なる選挙戦術だったという見方もある。・・・ウィーンのガス、水道、電気など公共施設の拡充に尽力してそれを市営化し、市外電車を設立、教育事業を拡大したり、福祉設備を建てるなどの都市整備を行い、ウィーンの大都市化と都市生活の近代化に貢献した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%82%AC%E3%83%BC
反ユダヤ主義は、文化、国家(nation)、或いは信仰が認知的不協和(cognitive dissonance)に苦しめられ、それが極めて深刻で耐えがたくなった場合にのみ致死的となる。
それは、一つの集団が自身について見る流儀が世界によって自身が見られている流儀と矛盾する場合に生じる。
それは、屈辱の耐え難き感覚の症候なのだ。
4世紀にローマ皇帝コンスタンティヌスの改宗によって変容したキリスト教は、11世紀に、自身が、イスラム教によって凌駕されたことを見出した。
<或いは、>ドイツは、自身を欧州で至上の国家と見ていたのに、第一次世界大戦に敗れ、次いで、ヴェルサイユ条約の下で懲罰された。
これらの諸屈辱は、内省ではなく、非難し破壊することができる外の諸敵たる外国の犯人達の探求をもたらした。
前世紀におけるイスラム世界における同様のことは、残っていた帝国的権力の砦(bastion)のうちの一つであった、オスマントルコ帝国の、1922年の敗北と解体だった。
<その結果、>その6年後、イスラム同胞団という形の急進的な政治的イスラムがエジプトで生まれた。・・・
イスラム世界は、伝統的にユダヤ人達に対する侮蔑を抱いていたけれど、それは憎しみが付加されてはいなかった。
「侮蔑によってあなたは死なないが、憎しみによってあなたは死ぬ」のだ。
反ユダヤ主義は、二つの古典的神話群が欧州から輸入される形で、外から入ってきた。・・・
<1つ目の、血の>中傷(<blood> libel)<(コラム#3844、4495)>は、1144年前後にノリッジ(Norwich)で生まれた、イギリス人の発明だった。<(注3)>・・・
(注3)「血の中傷が最初に知られるようになったのは、イギリス東部の町ノリッ<ジ>で発生したデマによってである。1149年、トマスという名の修道士によって下記のような噂が広められ、瞬く間に有名になったという。ただし、資料学的な検証の末、現在では1144年に起きた出来事と推定されている。ある日のこと、ウィリアムという名の幼児の遺体が森の中で発見された。その遺体は腐敗こそしていなかったものの、暴力が加えられた痕跡が残されていた。事件の調査に当たったトマスは、聞き込みによってユダヤ人の関係を仄めかすいくつかの証言を集めた。ユダヤ人富豪の屋敷で働く家政婦によると、彼女は屋敷内でその幼児が縛られているのを目撃したという。また、キリスト教徒のひとりは、遺体を森の中へと運ぶユダヤ人の集団と遭遇したと報告した。さらには、トマスの友人のユダヤ人キリスト教改宗者も、ユダヤ人が毎年フランスのナルボンヌに集まり、その年の過越の生贄をどの町から調達するのかを協議していると告白した。当時の資料に基づいた歴史家の推論によれば、すべての証言はユダヤ人キリスト教改宗者がトマスに吹聴したものと見られている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%80%E3%81%AE%E4%B8%AD%E5%82%B7
それは、19世紀にキリスト教徒達によって中東にもたらされ、レバノンやエジプト、そして、最も有名なものは1840年にダマスカスで、無辜のユダヤ人達に対する諸裁判をもたらした。・・・
ロシア皇帝の秘密警察の成員達によって作られ、早くも1921年にロンドンタイムスによってフィクションであることが暴露されたところの、いわゆる全球的なユダヤ人の陰謀に関する偽造文書である、19世紀末の「シオンの議定書(The Protocols of the Elders of Zion)」<(コラム#471、1010、1552、3252、4240、4541)が二つ目だ。>・・・
この「議定書」は、中でも、第二次世界大戦中ベルリンに滞在し、ナチスのためのアラビア語の諸放送を制作した、エルサレムの大法律学者(grand mufti of Jerusalem)たるハジ・アミン・アル=フセイニ(Hajj Amin al-Husayni)<(コラム#75、1357、1380、2033、4290)>によって、1930年代に、アラビア語訳で中東に紹介された。・・・
悲劇的にも、欧州は、概ね、自身を反ユダヤ主義から治癒させたけれど、それが<イスラム教徒の流入・増大という形で>復活しつつある。・・・
真の悲劇は、欧米が、反ユダヤ主義を厳密にユダヤ人の問題だと見続けることだろう。
そうではないのだ。
ユダヤ人達はそれによって死ぬけれど、それはユダヤ人達に関することではないのだ。
血の中傷は、聖体拝受(Eucharist)を信じ、諸秘跡と教会の力が失われつつあることを恐れる、キリスト教徒達の創造物だったのだし、「議定書」は、帝国と栄光を夢見つつ、彼らの世界が革命によって粉砕されようとしていることを恐れたロシアの皇帝主義者達による偽造だったのだから・・。
<その結果起こっているのが以下のような諸事件だ。>
シャルリ・エブド風刺誌の事務所における12人の人々の殺害の後の、パリのユダヤ人向けスーパーでの3週間前のユダヤ人来店者達の殺害、はそれがこの種の最初の出来事ではなく、一つのパターンの一部だったので、多くのユダヤ人達の背筋を凍らせた。
2014年には、ブリュッセルのユダヤ博物館で4人が殺された。
2012年には、トゥールーズ(Toulouse)のユダヤ人学校で、一人のラビと3人の子供達が殺害された。
2008年には、ムンバイ(Mumbai)で、同市の諸カフェと諸ホテルで人々を殺害した、より大きな集団とは別に、4人のテロリスト達が、小さな伝統派ユダヤ人センターに押し入り、拷問し、切り刻んだ後、若きラビと彼の妊娠した妻を殺害した。」
3 終わりに
こんなご時世に、あれだけの高等教育を受けながら、イギリスでラビになるようなサックスの心理は、私には到底理解ができませんが、以上ご紹介した彼の指摘は、決して間違ってはいません。
問題なのは、彼が、根本的なことから目を逸らせていることです。
それは、どうして、ユダヤ人迫害が、もっぱら、キリスト教世界とイスラム教世界で行われてきたか、です。
誰でも知っていることですが、キリスト教はユダヤ教の異端、イスラム教はユダヤ教とキリスト教の異端、であり、この3つの宗教の経典のコンテンツは大幅に重なり合っています。
ここから、キリスト教徒やイスラム教徒のユダヤ人嫌いは、親子間の反目的な近親憎悪らしい、と言えそうです。
仮にそうだとすると、近親憎悪とは無縁な親子の方がむしろ通例であるところ、かくも深刻な憎悪の原因を作ったのは親であるユダヤ教である可能性が高い、と言うべきでしょう。
考えてみると確かにそうなのであって、ユダヤ教の創世、及び人類史の物語の面白さ、その物語と密接不可分の厳格な一神教と選民思想と終末論、更には、自分達の宗教ないし同胞達を守るための武力行使を厭わない姿勢、等が、そっくりそのまま、キリスト教とイスラム教に受け継がれたことで、3者間の相互反目ないし深刻な相互憎悪の構造が確立した、と私は考えるに至っています。
そもそも、ユダヤ教とキリスト教ないしイスラム教とは、どこが違うのでしょうか?
前者は宣教をしないのに、後者2つはする、という違いしかありません。
では、キリスト教とイスラム教の違いは?
最近記したばかりですが、基本的に、前者は、政治権力や教会を「神」との間に介在させているけれど、後者は介在させていない、という違いしかありません。
これほどにも、この3つの宗教は互いに似通っているのです。
(話が拡散するので、簡単に触れるにとどめますが、マルクス主義もまた、(ユダヤ人たるイエス/パウロが作ったキリスト教同様、ユダヤ人たるマルクスが作ったところの、アラブ人たるムハンマドが作ったイスラム教よりもはるかに正真正銘の)ユダヤ教の異端なのであり、だからこそ、ロシア革命においてユダヤ人が大きな役割を果たしつつも、スターリン主義下でユダヤ人は迫害される羽目になりました。)
ですから、ユダヤ人に求められるのは、望むらくはサックスらが先頭に立って、これだけ、人類史に害悪や紛争の種をまき散らしてきたところの、ユダヤ教の廃棄を宣言し、キリスト教徒達にはキリスト教の廃棄を、イスラム教徒達にはイスラム教の廃棄を促すことです。
その結果、イスラエル国家が存続できなくなるかどうか、など、芥子粒のように小さいことである、と私は思います。
太田述正ブログは移転しました 。
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