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太田述正コラム#7386(2014.12.26)
<河野仁『<玉砕>の軍隊、<生還>の軍隊』を読む(その5)>(2015.4.12公開)

 「結局、第二次世界大戦中の米軍は、1200万の総動員兵力のうち1000万を選抜徴兵によって確保した。とはいうものの、選抜徴兵制度の非中央集権的で地域に根差した民主的運営という性格のために「総動員からはほど遠い」動員システムであった。動員社会化したとはいえ、志願社会としての特色を色濃くのこしていたのが米国の動員システムの特徴であった。」(62)

⇒馬鹿を言わないでくれ、と叫びたい箇所です。
 「選抜」徴兵制度で足りたほど、米国にとって、第二次世界大戦は、「根こそぎ」総動員する必要などなかったところの、自らの存続に関わることのない戦争に過ぎなかった、というだけのことでしょう。(太田)

 「<日本の>兵士の入隊前の給与レベルをくらべてみると、学歴と勤務地の違いによって、あきらかな格差が見られる。日本国内(内地)で就職していた者7名の平均月給は32円であるのにたいし、中国大陸勤務者(3名)の月給は117円、朝鮮勤務(2名)で110円、満州国勤務(6名)が91円となっている。いずれも37師団の兵士である。
 給与レベルは、あきらかに教育程度と対応している。高等小学校卒業者は、中国大陸で月給100円(華北運輸勤務)近くを稼いでいたひとりを除いて、平均月給は36円である。当時、月給の相場は、中学校卒で51円、大学・高専卒の平均は153円にのぼる。1940(昭和15)年の二等兵の月給は6円程度だから、かれらにとっては入営した途端にいっきに給与が下がることになる。」(68〜69)

⇒ここも無茶苦茶です。
 学歴も階級も異なる兵士達の、しかも極小のサンプル数でもって、「勤務地の違いによ」る「給与レベル」の「格差」を示されても、そんなものに何の意味もないからです。(太田)

 「日本軍の兵士が初年兵教育や内務班生活を回顧する際には、必ずといっていいほど古年兵による「私的制裁」の想い出が語られるのは、米軍兵士の場合と比べてきわめて特徴的である。「私的制裁」は、内務班生活における「インフォーマルな規範」の存在と、その規範からの逸脱に対するインフォーマルな制裁を象徴している。「階級」の上下というフォーマルな規範は、内務班では無視され、「インフォーマルな規範」という別の規範が兵士たちの日常生活を支配するようになるのである。・・・
 このインフォーマルな規範は、いいかえれば「年功規範」である。階級の上下とは独立して、兵役期間の長さによるインフォーマルな秩序が日本軍の組織内に形成されていた。俗にいう「星の数よりメシの数」である。これは、日本社会における「年齢規範」とも関係していると考えられる。日本的経営の一特徴としての「年功序列」は、「階級社会」である軍隊組織にも見られる。」(83〜84)

 「かつて丸山眞男は「抑圧移譲の原理」によってこの病理現象を説明しようとした。つまり、階級社会の軍隊においては上官からの命令は絶対であり下級者には反論の余地はない。下級者は上級者からつねに抑えつけられているから、その自己が経験した抑えつけ、すなわち「抑圧」を、自己よりも下の者へ順繰りに与えていくのだ、というの<だ。>・・・

⇒丸山については、かつて(コラム#1658、1660で)散々批判したところですが、「30歳の時に、<東京>大学助教授でありながら、陸軍二等兵として教育召集を受けた。大卒者は召集後でも幹部候補生に志願すれば将校になる道が開かれていたが、「軍隊に加わったのは自己の意思ではない」と二等兵のまま朝鮮半島の平壌へ送られた。その後、脚気のため除隊になり、東京に戻った。4ヶ月後の1945年・・・3月に再召集を受け、広島市宇品の陸軍船舶司令部へ二等兵として配属された。8月6日、司令部から5キロメートルの地点に原子爆弾が投下され、被爆。・・・8月15日に終戦を迎え、9月に復員した」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B8%E5%B1%B1%E7%9C%9E%E7%94%B7
という軍隊経験から推測するに、自他ともに許すエリートインテリであった彼が、(戦場経験がないまま、)私的制裁を含め、完全に他の二等兵達と同じ扱いを受けたことに対して抱いた鬱屈した個人的な恨みを、戦後、旧陸軍を、あらゆる形で貶めることで晴らそうとしたからこそ、彼は、実証的な裏付けのない、しかも、論理薄弱な諸説を唱えたのである、と見てよいのではないでしょうか。(太田)

 <ところが、>兵士へのインタビューにおいては、私的制裁について肯定的な意見も少なくなかった。私的制裁によって「鍛えられた」者でなければ戦場で役立たないというのである。確かに、戦場で経験する極度の困苦、疲労、苦痛、恐怖、飢餓などはすべて非自発的に与えられた肉体的精神的負荷(ストレス)である。これらの戦場におけるさまざまな負荷に耐える個人の能力(耐性)を高めるのに、私的制裁という非自発的な肉体的精神的負荷への耐性をあげておくことが役立った、というのも一理あるように思われる。この「ストレス耐性向上説」の立場をとるのは自身も従軍体験を持つ伊藤桂一<(注9)>である。・・・

 (注9)1917年〜。「小説家、詩人。」無学歴に近い。従軍経験2回で伍長で終戦を迎える。「1961年に、・・・自身の中国戦線での経験を元にしている・・・短編小説「蛍の河」で直木賞を受賞。・・・<そのほか、>『ノモンハン戦記』や『遥かなインパール』などでは体験者の元兵士らに取材して執筆している。これらについて自身では、戦場にいた兵士達を代弁する語り部として書いているものとして、戦場小説と呼んでいる。・・・時代小説としては、「風車の浜吉・捕物綴」などの捕物帖、「月下の剣法者」などの剣豪小説、市井の人々の暮らしを描いたものなどがある。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E6%A1%82%E4%B8%80

⇒河野が、「肯定的な意見も少なくなかった」と言いつつ、証言例として肯定的なものしか挙げていないことからして、どうやら、元兵士達の多くは私的制裁を肯定的に評価していたということのようであり、たたき上げのインテリで、かつ戦場経験のある伊藤の指摘は、元兵士達大部分の気持ちを的確に代弁している、と受け止めてよいのではないでしょうか。(太田)

 しかし、殴られなくても精強な兵士はいたはずであり、この説の妥当性にもある程度の限界があろう。
 いずれにせよ、「戦地に行けば私的制裁なんかなくなる」という話は、数人の日本軍兵士から聞いた。」(88〜89)

⇒「戦地に行けば私的制裁<は>なくなる」ということから、伊藤の「ストレス耐性向上説」を、「イニシエーション+ストレス耐性向上説」に発展させればよい、ということになりそうです。
 河野が指摘するように、「ストレス耐性」がもともとある新米兵士も当然いたことでしょうが、そういう兵士であっても、意識は大部分が縄文人的であったはずであり、彼らを含め、新米兵士達全員を弥生人的な意識に切り替えさせるための「イニシエーション」としても、私的制裁は有効であった、と私は推察しています。(太田)

(続く)

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