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太田述正コラム#7170(2014.9.9)
<インド文明の起源(その5)>(2014.12.25公開)
当然、社会内戦争の担い手となった渡来人たる戦士達に対しては先住民側から軽蔑の眼差しが注がれたはずです。
そこで、渡来人側は、既に先住民側と混血が進行し始めていたところ、自分達を、戦争を担っていなかった集団を相対的に貴い仕事たる科学(祭祀)に従事するバラモン、戦争を担っていた集団を戦争や統治といった相対的に賤しい仕事に従事するクシャトリア、という二つに区分し、クシャトリアはバラモンを奉ることにした、と想像したいのです。
更に、クシャトリアは、事実上彼らが各単位(各国)の権力を掌握していたにもかかわらず、多くの場合、世襲制の国王にはならず、(それが先住民側由来なのか渡来人側由来なのかは定かではありませんが、)サンガ・・部族民の代表達による集会で選出された首長が行政権を持つ、一種の共和政・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%AC
を隠れ蓑にした統治に委ねた、と考えられます。
そこに現れたのが釈迦(BC624〜463年生、BC544〜383死)です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6
彼は、現在のインドとネパールの国境地帯の、このサンガ制の下にあった、小国シャーキャ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6%E6%97%8F
の、首長であった父の下に生まれたのですが、この父が渡来人なのか、渡来人だとしてアーリア人系なのか、はたまた先住民なのか、定かではないことからすると、既に混血していた、と考えられるところです。
ちなみに、シャーキャは、釈迦出家後に、隣国のたる大国でやはりサンガ制下のコーサラに攻め滅ぼされることになります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6 前掲
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%85%AD%E5%A4%A7%E5%9B%BD#.E3.82.B3.E3.83.BC.E3.82.B5.E3.83.A9.E7.8E.8B.E5.9B.BD
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%98%E7%91%A0%E7%92%83%E7%8E%8B
この釈迦が悟りを開いて唱えたこと・・それが後に仏教になった・・は一体何だったのでしょうか。
当コラムの以前からの読者であれば、それが人間主義への回帰であり、人間主義者になる方法論であったことは、先刻ご承知のことでしょう。
問題は、枢軸の時代の世界の哲人達は、皆、基本的に人間主義への回帰を企図したにもかかわらず、どうして、釈迦だけがそのための最も正しい方法論を発見できたのか、です。
それは、戦争、(被支配者の)隷属、そして飢餓、といった、農業社会に付き物の苦難に苦しめられるようになってから、一番年月が短く、しかも、被支配者の隷属の度合いが相対的に低いサンガ制がかなり普及していた、つまりは、人間主義社会の時代の記憶が消えておらず、しかも、相対的に人間主義的な統治下にあったところの、古代インドに釈迦が生まれたからこそでしょう。
そして、釈迦の思想に耳を傾けた人々の側も、支配者、被支配者を問わず、それが真理であることを容易に察知できたはずであり、その思想が急速に広まったことは想像に難くありません。
その結果、何が起こったか?
釈迦の思想が普及した地域では、カースト制の原初形態は弱められ、各社会の人間主義度は顕著に向上したはずです。
さて、釈迦の頃に、既にガンジス川下流域にマガダ国という国が存在していました。
そのマガダ国のナンダ朝を滅ぼしてマウリヤ朝を創建したのが、北西インドを拠点にした、ジャイナ教<(注7)>徒のチャンドラグプタ(Chandragupta。在位:BC317?〜298?年)でした。
(注7)「マハーヴィーラ(ヴァルダマーナ、前6世紀-前5世紀)を祖師と仰ぎ、特にアヒンサー(不害)の誓戒を厳守するなどその徹底した苦行・禁欲主義をもって知られるインドの宗教。・・・仏教と異なりインド以外の地にはほとんど伝わらなかったが、その国内に深く根を下ろして、およそ2500年の長い期間にわたりインド文化の諸方面に影響を与え続け、今日もなおわずかだが無視できない信徒数を保っている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%83%8A%E6%95%99
カウティリヤ(コラム#7165)が彼の軍師であり、このマキャヴェリストの補佐の下、チャンドラグプタは強権的な勢力拡張と統治を行いました。
(「強権的な勢力拡張と統治」が可能であったのは、チャンドラグプタやカウティリヤの能力もさることながら、その対象となった人々の多くが「大人しい」仏教徒であったからではないでしょうか。
なお、チャンドラグプタの事績が比較的良く伝わっているのは、当時の北西インドまで、ギリシャ系のセレウコス朝の支配が及んでおり、同朝からマウリヤ朝に大使として派遣されたギリシャ人のメガステネスが記録を残しているからです。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A6%E3%83%AA%E3%83%A4%E6%9C%9D
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%B0%E3%83%97%E3%82%BF_(%E3%83%9E%E3%82%A6%E3%83%AA%E3%83%A4%E6%9C%9D)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%AC%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%8D%E3%82%B9
マウリヤ朝の二代目はチャンドラグプタの息子のビンドゥサーラ(Bindusara。BC293?〜268?年)ですが、彼はアージーヴィカ教<(注8)>徒であったところ、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%A5%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%A9
三代目となったのが、その息子のアショーカ(Ashoka。在位:BC268?〜232?年)でした。
(注8)「一時期はバラモン教やジャイナ教、仏教などと並ぶ一大宗教であった。マッカリ・ゴーサーラが主張した「運命がすべてを決定している」という運命決定論、運命論、宿命論を奉じていた。さらに意志に基づく行為や、修行による解脱をも否定した。・・・現在信徒はいない。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%AB%E6%95%99
「アショーカは即位後仏教に帰依し、仏教の教えを広めるためにヘレニズム諸国やスリランカに使節を派遣した<が、>・・・彼の摩崖碑文などでダルマの内容として繰り返し伝えられるのは不殺生(人間に限らない)と正しい人間関係であり、父母に従順であること、礼儀正しくあること、バラモンやシャ<−マ>ンを尊敬し布施を怠らないこと、年長者を敬うこと、奴隷や貧民を正しく扱うこと、常に他者の立場を配慮することなど<であ>る<ところ>、統治上の理由から辺境の諸住民に対しては「ダルマ」の仏教色を前面に押し出さないように配慮がなされている。彼はダルマが全ての宗教の教義と矛盾せず、1つの宗教の教義でもないことを勅令として表明して<いる。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%AB%E7%8E%8B
という次第ですが、「統治上の理由から」云々、と言ってはいけないのであって、アショーカは、仏教が本来宗教でないことを正しく理解していた、ということだと思うのです。
しかし、その結果はインド亜大陸に大きな悲劇をもたらすことになります。
「アショーカ王は晩年、地位を追われ幽閉されたという伝説があり、また実際に治世末期の碑文などが発見されておらず、政治混乱が起こった事が推測される。・・・<そして、>アショーカの死後、マウリヤ朝は分裂<する>」(ウィペディア上掲)ところ、その最大の原因はアショーカの仏教に基づく平和志向/軍事軽視であった、というのが私の考えであることは、既にこれまで累次、指摘してきたところですが、それにとどまらず、インド亜大陸において、アショーカがインド亜大陸全体に広めた仏教の平和志向/軍事軽視の姿勢は、仏教と切り離された形でその後も「堅持」されることとなり、マウリア朝以後、インド亜大陸は、内生的な統一、ないし帝国形成を果たせぬまま、後に、外来の、イスラム勢力やイギリスによる支配を受け続けることになるのです。
私は、アショーカ後に、インド亜大陸において、復活強化されたカースト制、及びそれと不可分の関係にあるヒンドゥー教が、バラモン教を換骨奪胎して生まれ、仏教に代わって大部分の亜大陸住民の間に広まったのは、仏教では、打ち続く戦乱、就中、外来勢力による略奪的侵攻や支配に抗して、彼らの生活の自律性を維持することができなかったからであり、彼らは、ヒンドゥー教によって聖化されたカースト制に拠って自分達の生活の自律性をカーストごとに維持する以外に抗する手段がなかったからだ、と思うのです。
なお、仏教が、西方には伝播せず、東方にだけ伝播したのは、西方が畑作地域であったのに対し、インド自体東半分は水田耕作地域であった
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/0431.html
ところ、東方においては、東南アジアや日本列島のような水田耕作地域や、支那大陸のような南半分が水田耕作地域だったからだ、と私は、最近思うに至っています。
稲作地域の人々は人間主義的(コラム#6930)なので、人間主義の仏教を受け入れる基盤がある、と言えそうだからです。
(完)
<インド文明の起源(その5)>(2014.12.25公開)
当然、社会内戦争の担い手となった渡来人たる戦士達に対しては先住民側から軽蔑の眼差しが注がれたはずです。
そこで、渡来人側は、既に先住民側と混血が進行し始めていたところ、自分達を、戦争を担っていなかった集団を相対的に貴い仕事たる科学(祭祀)に従事するバラモン、戦争を担っていた集団を戦争や統治といった相対的に賤しい仕事に従事するクシャトリア、という二つに区分し、クシャトリアはバラモンを奉ることにした、と想像したいのです。
更に、クシャトリアは、事実上彼らが各単位(各国)の権力を掌握していたにもかかわらず、多くの場合、世襲制の国王にはならず、(それが先住民側由来なのか渡来人側由来なのかは定かではありませんが、)サンガ・・部族民の代表達による集会で選出された首長が行政権を持つ、一種の共和政・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%AC
を隠れ蓑にした統治に委ねた、と考えられます。
そこに現れたのが釈迦(BC624〜463年生、BC544〜383死)です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6
彼は、現在のインドとネパールの国境地帯の、このサンガ制の下にあった、小国シャーキャ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6%E6%97%8F
の、首長であった父の下に生まれたのですが、この父が渡来人なのか、渡来人だとしてアーリア人系なのか、はたまた先住民なのか、定かではないことからすると、既に混血していた、と考えられるところです。
ちなみに、シャーキャは、釈迦出家後に、隣国のたる大国でやはりサンガ制下のコーサラに攻め滅ぼされることになります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6 前掲
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%85%AD%E5%A4%A7%E5%9B%BD#.E3.82.B3.E3.83.BC.E3.82.B5.E3.83.A9.E7.8E.8B.E5.9B.BD
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%98%E7%91%A0%E7%92%83%E7%8E%8B
この釈迦が悟りを開いて唱えたこと・・それが後に仏教になった・・は一体何だったのでしょうか。
当コラムの以前からの読者であれば、それが人間主義への回帰であり、人間主義者になる方法論であったことは、先刻ご承知のことでしょう。
問題は、枢軸の時代の世界の哲人達は、皆、基本的に人間主義への回帰を企図したにもかかわらず、どうして、釈迦だけがそのための最も正しい方法論を発見できたのか、です。
それは、戦争、(被支配者の)隷属、そして飢餓、といった、農業社会に付き物の苦難に苦しめられるようになってから、一番年月が短く、しかも、被支配者の隷属の度合いが相対的に低いサンガ制がかなり普及していた、つまりは、人間主義社会の時代の記憶が消えておらず、しかも、相対的に人間主義的な統治下にあったところの、古代インドに釈迦が生まれたからこそでしょう。
そして、釈迦の思想に耳を傾けた人々の側も、支配者、被支配者を問わず、それが真理であることを容易に察知できたはずであり、その思想が急速に広まったことは想像に難くありません。
その結果、何が起こったか?
釈迦の思想が普及した地域では、カースト制の原初形態は弱められ、各社会の人間主義度は顕著に向上したはずです。
さて、釈迦の頃に、既にガンジス川下流域にマガダ国という国が存在していました。
そのマガダ国のナンダ朝を滅ぼしてマウリヤ朝を創建したのが、北西インドを拠点にした、ジャイナ教<(注7)>徒のチャンドラグプタ(Chandragupta。在位:BC317?〜298?年)でした。
(注7)「マハーヴィーラ(ヴァルダマーナ、前6世紀-前5世紀)を祖師と仰ぎ、特にアヒンサー(不害)の誓戒を厳守するなどその徹底した苦行・禁欲主義をもって知られるインドの宗教。・・・仏教と異なりインド以外の地にはほとんど伝わらなかったが、その国内に深く根を下ろして、およそ2500年の長い期間にわたりインド文化の諸方面に影響を与え続け、今日もなおわずかだが無視できない信徒数を保っている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%83%8A%E6%95%99
カウティリヤ(コラム#7165)が彼の軍師であり、このマキャヴェリストの補佐の下、チャンドラグプタは強権的な勢力拡張と統治を行いました。
(「強権的な勢力拡張と統治」が可能であったのは、チャンドラグプタやカウティリヤの能力もさることながら、その対象となった人々の多くが「大人しい」仏教徒であったからではないでしょうか。
なお、チャンドラグプタの事績が比較的良く伝わっているのは、当時の北西インドまで、ギリシャ系のセレウコス朝の支配が及んでおり、同朝からマウリヤ朝に大使として派遣されたギリシャ人のメガステネスが記録を残しているからです。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A6%E3%83%AA%E3%83%A4%E6%9C%9D
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%B0%E3%83%97%E3%82%BF_(%E3%83%9E%E3%82%A6%E3%83%AA%E3%83%A4%E6%9C%9D)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%AC%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%8D%E3%82%B9
マウリヤ朝の二代目はチャンドラグプタの息子のビンドゥサーラ(Bindusara。BC293?〜268?年)ですが、彼はアージーヴィカ教<(注8)>徒であったところ、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%A5%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%A9
三代目となったのが、その息子のアショーカ(Ashoka。在位:BC268?〜232?年)でした。
(注8)「一時期はバラモン教やジャイナ教、仏教などと並ぶ一大宗教であった。マッカリ・ゴーサーラが主張した「運命がすべてを決定している」という運命決定論、運命論、宿命論を奉じていた。さらに意志に基づく行為や、修行による解脱をも否定した。・・・現在信徒はいない。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%AB%E6%95%99
「アショーカは即位後仏教に帰依し、仏教の教えを広めるためにヘレニズム諸国やスリランカに使節を派遣した<が、>・・・彼の摩崖碑文などでダルマの内容として繰り返し伝えられるのは不殺生(人間に限らない)と正しい人間関係であり、父母に従順であること、礼儀正しくあること、バラモンやシャ<−マ>ンを尊敬し布施を怠らないこと、年長者を敬うこと、奴隷や貧民を正しく扱うこと、常に他者の立場を配慮することなど<であ>る<ところ>、統治上の理由から辺境の諸住民に対しては「ダルマ」の仏教色を前面に押し出さないように配慮がなされている。彼はダルマが全ての宗教の教義と矛盾せず、1つの宗教の教義でもないことを勅令として表明して<いる。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%AB%E7%8E%8B
という次第ですが、「統治上の理由から」云々、と言ってはいけないのであって、アショーカは、仏教が本来宗教でないことを正しく理解していた、ということだと思うのです。
しかし、その結果はインド亜大陸に大きな悲劇をもたらすことになります。
「アショーカ王は晩年、地位を追われ幽閉されたという伝説があり、また実際に治世末期の碑文などが発見されておらず、政治混乱が起こった事が推測される。・・・<そして、>アショーカの死後、マウリヤ朝は分裂<する>」(ウィペディア上掲)ところ、その最大の原因はアショーカの仏教に基づく平和志向/軍事軽視であった、というのが私の考えであることは、既にこれまで累次、指摘してきたところですが、それにとどまらず、インド亜大陸において、アショーカがインド亜大陸全体に広めた仏教の平和志向/軍事軽視の姿勢は、仏教と切り離された形でその後も「堅持」されることとなり、マウリア朝以後、インド亜大陸は、内生的な統一、ないし帝国形成を果たせぬまま、後に、外来の、イスラム勢力やイギリスによる支配を受け続けることになるのです。
私は、アショーカ後に、インド亜大陸において、復活強化されたカースト制、及びそれと不可分の関係にあるヒンドゥー教が、バラモン教を換骨奪胎して生まれ、仏教に代わって大部分の亜大陸住民の間に広まったのは、仏教では、打ち続く戦乱、就中、外来勢力による略奪的侵攻や支配に抗して、彼らの生活の自律性を維持することができなかったからであり、彼らは、ヒンドゥー教によって聖化されたカースト制に拠って自分達の生活の自律性をカーストごとに維持する以外に抗する手段がなかったからだ、と思うのです。
なお、仏教が、西方には伝播せず、東方にだけ伝播したのは、西方が畑作地域であったのに対し、インド自体東半分は水田耕作地域であった
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/0431.html
ところ、東方においては、東南アジアや日本列島のような水田耕作地域や、支那大陸のような南半分が水田耕作地域だったからだ、と私は、最近思うに至っています。
稲作地域の人々は人間主義的(コラム#6930)なので、人間主義の仏教を受け入れる基盤がある、と言えそうだからです。
(完)
太田述正ブログは移転しました 。
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