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太田述正コラム#7168(2014.9.8)
<インド文明の起源(その4)>(2014.12.24公開)
渡来人が馬を駆使する戦車等、高度な武器をひっさげてインド亜大陸にやってきたことは、下掲から間違いなさそうです。
「インドでは、紀元前二千年頃からアーリア人の侵入が始まったが、彼らはヴェーダと総称される聖典群と、それにもとづく壮大な祭式のシステムを有していた。・・・国王の即位儀礼として・・・駿馬が放たれ、一年間、領国内を自由に移動<させ>る。これを・・・軍が守り、それと同時に祭場での祭式も断続的に行われる。最後には、放たれていた馬が供犠され、新王に灌頂が与えられる。・・・
<これは、インドにおいて、>馬が王権と結びついた動物であることをよく示す儀礼であるが、馬は戦車・・・の一部として、実際に王の進軍や戦闘の場面で活躍した。」(森雅彦(注4)「インドの馬と伝馬」より)
http://mmori.w3.kanazawa-u.ac.jp/works/article_pdf/10_35indo_uma.pdf
(注4)名古屋大1984年卒、同大修士、ロンドン大学東洋アフリカ学院博士。名大、高野山大学を経て金沢大教授。
http://ridb.kanazawa-u.ac.jp/public/detail.php?id=3599
さて、先住民はこの渡来人の「侵攻」と戦わなかったのではないか、と私はあえて想像したいのです。
先住民は、馬にも武器にも、脅威を感じるどころか、何の関心も示さず、その代わり、「ヴェーダと総称される聖典群と、それにもとづく壮大な祭式のシステム」に目を輝かせた、と私の想像は続くのです。
なぜか?
それが、彼らにユートピアのようなインダス渓谷から離れなければならなくなった理由を教えてくれるとともに、彼らがこのことがもたらしたフラストレーションと爾後のより惨めな生活から解放される手段を提供してくれたから、と私は考えるわけです。(注5)
(注5)宗教観念のなかった先住民は、渡来民を、一種の科学者集団と受け止めた可能性がある。
「レヴィ=ストロースは、思考様式の比較という観点から、呪術<・・「宗教」と言い換えてもよかろう(太田)・・>をひとつの思考様式としてみなした。科学のような学術的・明確な概念によって対象を分析するような思考方式に対して、そのような条件が揃っていない環境では、思考する人は、とりあえず知っている記号・言葉・シンボルを組み立ててゆき、ものごとの理解を探るものであり、そのように探らざるを得ない、とした。そして、仮に前者(科学的な思考)を「栽培種の思考」と呼ぶとすれば、後者は「野生の思考」と呼ぶことができる、とした。
「野生の思考」は、素人が「あり合わせの材料でする工作」(ブリコラージュ)のようなものであり、このような思考方式は、いわゆる"未開社会"だけに見られるものでもなく、現代の先進国でも日常的にはそのような思考方法を採っている<とも>指摘し<た。>」。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%AA%E8%A1%93
仮にそうであったとすれば、先住民は、渡来人の「侵攻」に対して抵抗しなかっただけでなく、渡来人を、敬意をもって、進んで支配者として受け入れた、としても不思議ではないでしょう。
渡来人の聖典群の中には、元から輪廻についての言及もあったに違いありません。(注6)
(注6)「輪廻(reincarnation)に関連する諸観念は、異なった諸地域で独立して生まれたかもしれないし、文化的接触の結果として普及したのかもしれない。
文化的伝播(transmission)の主唱者達は、鉄器時代のケルト、ギリシャ、そしてヴェーダにおける哲学と宗教の間の諸繋がり(links)を探求してきたし、若干の人々は、プロト印欧宗教の中に輪廻信条が存在したということさえ示唆している。
古代の欧州、イラン、そしてインドの農業諸文化の中で、生誕、死、そして再生誕のライフサイクルが、自然な農業サイクルのレプリカと認識されていた。」
http://en.wikipedia.org/wiki/Reincarnation
そして、この輪廻信条を援用して、(渡来人と先住民が混血した新しい社会が創生されていったところの北インドにおいて、)前述したように、カースト制のはしりが生まれた、と見るわけです。
ただし、この新しい社会においては、渡来人が持ち込んだ観念と武器によって、渡来人系の人々が主導する社会内戦争が多発することとなった、と考えられます。
(続く)
<インド文明の起源(その4)>(2014.12.24公開)
渡来人が馬を駆使する戦車等、高度な武器をひっさげてインド亜大陸にやってきたことは、下掲から間違いなさそうです。
「インドでは、紀元前二千年頃からアーリア人の侵入が始まったが、彼らはヴェーダと総称される聖典群と、それにもとづく壮大な祭式のシステムを有していた。・・・国王の即位儀礼として・・・駿馬が放たれ、一年間、領国内を自由に移動<させ>る。これを・・・軍が守り、それと同時に祭場での祭式も断続的に行われる。最後には、放たれていた馬が供犠され、新王に灌頂が与えられる。・・・
<これは、インドにおいて、>馬が王権と結びついた動物であることをよく示す儀礼であるが、馬は戦車・・・の一部として、実際に王の進軍や戦闘の場面で活躍した。」(森雅彦(注4)「インドの馬と伝馬」より)
http://mmori.w3.kanazawa-u.ac.jp/works/article_pdf/10_35indo_uma.pdf
(注4)名古屋大1984年卒、同大修士、ロンドン大学東洋アフリカ学院博士。名大、高野山大学を経て金沢大教授。
http://ridb.kanazawa-u.ac.jp/public/detail.php?id=3599
さて、先住民はこの渡来人の「侵攻」と戦わなかったのではないか、と私はあえて想像したいのです。
先住民は、馬にも武器にも、脅威を感じるどころか、何の関心も示さず、その代わり、「ヴェーダと総称される聖典群と、それにもとづく壮大な祭式のシステム」に目を輝かせた、と私の想像は続くのです。
なぜか?
それが、彼らにユートピアのようなインダス渓谷から離れなければならなくなった理由を教えてくれるとともに、彼らがこのことがもたらしたフラストレーションと爾後のより惨めな生活から解放される手段を提供してくれたから、と私は考えるわけです。(注5)
(注5)宗教観念のなかった先住民は、渡来民を、一種の科学者集団と受け止めた可能性がある。
「レヴィ=ストロースは、思考様式の比較という観点から、呪術<・・「宗教」と言い換えてもよかろう(太田)・・>をひとつの思考様式としてみなした。科学のような学術的・明確な概念によって対象を分析するような思考方式に対して、そのような条件が揃っていない環境では、思考する人は、とりあえず知っている記号・言葉・シンボルを組み立ててゆき、ものごとの理解を探るものであり、そのように探らざるを得ない、とした。そして、仮に前者(科学的な思考)を「栽培種の思考」と呼ぶとすれば、後者は「野生の思考」と呼ぶことができる、とした。
「野生の思考」は、素人が「あり合わせの材料でする工作」(ブリコラージュ)のようなものであり、このような思考方式は、いわゆる"未開社会"だけに見られるものでもなく、現代の先進国でも日常的にはそのような思考方法を採っている<とも>指摘し<た。>」。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%AA%E8%A1%93
仮にそうであったとすれば、先住民は、渡来人の「侵攻」に対して抵抗しなかっただけでなく、渡来人を、敬意をもって、進んで支配者として受け入れた、としても不思議ではないでしょう。
渡来人の聖典群の中には、元から輪廻についての言及もあったに違いありません。(注6)
(注6)「輪廻(reincarnation)に関連する諸観念は、異なった諸地域で独立して生まれたかもしれないし、文化的接触の結果として普及したのかもしれない。
文化的伝播(transmission)の主唱者達は、鉄器時代のケルト、ギリシャ、そしてヴェーダにおける哲学と宗教の間の諸繋がり(links)を探求してきたし、若干の人々は、プロト印欧宗教の中に輪廻信条が存在したということさえ示唆している。
古代の欧州、イラン、そしてインドの農業諸文化の中で、生誕、死、そして再生誕のライフサイクルが、自然な農業サイクルのレプリカと認識されていた。」
http://en.wikipedia.org/wiki/Reincarnation
そして、この輪廻信条を援用して、(渡来人と先住民が混血した新しい社会が創生されていったところの北インドにおいて、)前述したように、カースト制のはしりが生まれた、と見るわけです。
ただし、この新しい社会においては、渡来人が持ち込んだ観念と武器によって、渡来人系の人々が主導する社会内戦争が多発することとなった、と考えられます。
(続く)
太田述正ブログは移転しました 。
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