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太田述正コラム#7146(2014.8.28)
<現代哲学におけるアングロサクソンと欧州(その2)>(2014.12.13公開)

 (分析哲学の創建者達の幾何か、例えば、フレーゲ<(注3)(コラム#6991)>やカルナップ<(注4)>が欧州人達であったこと、かつまた、「大陸」哲学の指導的中心人物達が米国の諸大学にいたこと、更には、多くの「分析」哲学者達が諸概念の分析に興味を持たなかったこと、が話を更に奇妙なものにしている。

 (注3)ゴットロープ・フレーゲ(Friedrich Ludwig Gottlob Frege。1848〜1925年)。「ドイツの数学者、論理学者、哲学者である。現代の数理論理学、分析哲学の祖と呼ばれる。・・・母・・・はポーランド系である。・・・彼ははじめイェーナ大学で学び、その後ゲッティンゲン大学に移り1873年に博士号を取得した。その後イェーナに戻り、1896年から数学教授。・・・
 フレーゲはアリストテレス以来の最大の論理学者<の一人>といわれる。・・・またフレーゲは言語哲学や分析哲学の基礎を確立した人物の一人としても数えられる。・・・フレーゲは数学は論理に帰着しうるとする論理主義の最初の主要な論客でもあ<る。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B2
 (注4)ルドルフ・カルナップ (Rudolf Carnap。1891〜1970年)。「ドイツの哲学者。論理実証主義の代表的論客・・・フライブルク大学で、数学、物理、および哲学を学ぶ。・・・論理実証主義の視点から物理学上の問題について研究した。」ウィーン大学、プラハ大学で教鞭を執ってから、「1935年には<米国>へ渡り、1941年に帰化。シカゴ大学、プリンストン高等研究所を経て・・・UCLA・・・で教鞭を執った。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%83%E3%83%97
 彼が米国に渡ったのは、社会主義的、平和主義的信条を抱いていて、ナチスの下でドイツに留まるのは危険だったから。
http://en.wikipedia.org/wiki/Rudolf_Carnap

 判別感覚を養うためには、歴史に注意を向ける必要がある。
 20世紀初において、イギリスの哲学者達(ラッセル(Russell)<(注5)(コラム#3106、3533、3535、3722、5236、5276、5876、6338、6991、7045、7051)>、ムーア(Moore)<(注6)>、ウィトゲンシュタイン(Wittgenstein)<(注7)<(コラム#814、5236、5249、6169、6991)>)、そして、ドイツとオーストリアの哲学者達(カルナップ、ライヘンバッハ(Reichenbach)<(注8)>、ヘンペル(Hempel)<(注9)> ・・彼らは全員ナチスの興隆に伴い、米国に移住した)は、フレーゲとラッセルによって発展させられた象徴的論理学(symbolic logic)の新しい諸手法(techniques)に立脚したところの、彼らが哲学への急進的な新しいアプローチであると見たものを発展させた。

 (注5)第3代ラッセル伯爵、バートランド・アーサー・ウィリアム・ラッセル(Bertrand Arthur William Russell, 3rd Earl Russell。1872〜1970年。「イギリスの哲学者、論理学者、数学者、貴族。<英国>の首相を2度務めた初代ラッセル伯ジョン・ラッセルは祖父である。・・・ケンブリッジ<大学卒>・・・。
 <やはり、>アリストテレス以来最大の論理学者の<一>人<といわれる。>・・・
 ウィトゲンシュタインの才能を早くに見抜き、親交を結ぶとともに、良き理解者として<彼>・・・を支援した。・・・
 第二次世界大戦においては、第一次世界大戦に対する反戦の態度とは正反対にナチズムに対抗するために徹底した抗戦を主張するようになった(アインシュタインも彼と同じく、第一次世界大戦の際<と>・・・第二次世界大戦<の際と>では・・・変節している)。・・・第二次世界大戦直後は、世界政府樹立とそれによる平和維持をめざした。1940年代末から1950年代始めにかけて、<米国>の持つ原子爆弾という超兵器の抑止力によってソ連を押さえ込むことで実現することを構想し、西側諸国の核保有による東側諸国との対抗を説<いた。>・・・<しかし、その後、>ソ連の核兵器開発の成功<等を踏まえ、>・・・核兵器廃絶の運動に身を投じる。・・・<更に、>サルトルらとともに、<米国>の対ベトナム政策を糾弾する国際戦争犯罪法廷を開廷する。・・・
 1950年度ノーベル文学賞<受賞。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%AB
 (注6)ジョージ・エドワード・ムーア(George Edward Moore。1873〜1958年)。「イギリスの哲学者。・・・メタ倫理学における直観主義(直覚主義とも訳される)という立場を提案したこと、規範倫理学においては「理想主義的功利主義」と呼ばれる立場を提案したことで知られる。直観主義(intuitionism)とは、直観という能力によって何が善かを把握できるという立場。・・・理想主義的功利主義とは、帰結主義の一種ではあるが、それまでの功利主義のように快楽を最大にするのを目的にするのではなく、直観によって善であると把握されるさまざまなものを行為の目標とする立場。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%A0%E3%83%BC%E3%82%A2
 (注7)ルートヴィヒ・ヨーゼフ・ヨーハン・ウィトゲンシュタイン(Ludwig Josef Johann Wittgenstein。1889〜1951年。「オーストリア・・・に生まれ主にイギリスのケンブリッジ大学で活躍した<ユダヤ系>哲学者である。著作活動は母語のドイツ語で行った。後の言語哲学、分析哲学に強い影響を与えた。・・・
 1906年からベルリンのシャルロッテンブルク工科大学(現ベルリン工科大学)で機械工学を学び、・・・その後、・・・マンチェスター大学工学部へ入学、ブレード端に備えた小型ジェットエンジンの推力によって回転するプロペラの設計に携わり、1911年には特許権を認定された。・・・<そして、>フレーゲのもとで短期間学んだ。・・・1912年に<ケンブリッジ大学>に入学を認められ、ラッセルやG・E・ムーアのもとで論理の基礎に関する研究を始めた。・・・J・M・ケインズと知り合ったのもこの頃・・・のことであり、ケインズはウィトゲンシュタインに対して友情と尊敬の念を終生にわたって抱きつづけた。・・・
 <この間の部分が、恐ろしく面白い。ぜひご一読あれ。(太田)>
 ・・・後期ウィトゲンシュタインの最もラディカルな特徴は「メタ哲学」である。プラトン以来およそすべての西洋哲学者の間では、哲学者の仕事は解決困難に見える問題群(「自由意志」、「精神」と「物質」、「善」、「美」など)を論理的分析によって解きほぐすことだという考え方が支配的であった。しかし、これらの「問題」は実際のところ哲学者たちが言語の使い方を誤っていたために生じた偽物の問題にすぎないとウィトゲンシュタインは喝破したのである。言語は日常的な目的に応じて発達したものであり、したがって日常的なコンテクストにおいてのみ機能するのだとウィトゲンシュタインは述べる。しかし、日常的な言語が日常的な領域を超えて用いられることにより問題が生じる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%92%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%88%E3%82%B2%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3
 (注8)ハンス・ライヘンバッハ(Hans Reichenbach。1891〜1953年)。ドイツ生まれの「科学哲学者であり、・・・エアランゲン大学から確率の理論で博士号を取得する。
第一次世界大戦に従軍後、・・・シュトゥットガルト工科大の私講師を経てベルリン大学の物理学科に1926年に就職する。・・・1938年に・・・ドイツを逃れ、<米国>に渡って<UCLA>に職を得る。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%83%E3%83%8F
 祖先がユダヤ人であるだけで、母親はプロテスタントのドイツ人で、本人はユダヤ教徒ではなかったが、ナチスの迫害を受けたもの。
http://en.wikipedia.org/wiki/Hans_Reichenbach
 (注8)カール・ヘンペル(Carl Gustav Hempel。1905〜97年)。「ドイツ生まれの科学哲学者、論理経験主義者。・・・ゲッティンゲン大学で数学・物理・哲学を学び、・・・1934年にベルリン大学から確率論の論文で博士号を得る。同年、・・・ドイツを離れ、ベルギーへ移住。1937年、<米国>へ移り、カルナップの助手としてシカゴ大学に勤める。次いでニューヨーク市立大学・・・、<エ>ール大学・・・、プリンストン大学・・・エルサレム<の>ヘブライ大学・・・、<米国の>ピッツバーグ大学で・・・教鞭をとった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%AB
 彼がナチス下のドイツを離れたのは、妻の祖先がユダヤ人であったことから。
http://en.wikipedia.org/wiki/Carl_Gustav_Hempel

→広義の分析哲学者に関しても、多くの著名学者が、ナチスの反ユダヤ主義のおかげで、英米、とりわけ米国に「亡命」させられたことが分かります。
 米国の第二次世界大戦後における学問の興隆は、そのかなり多くの部分を、ナチスの愚行に負っている、と言ってよいでしょう。
 なお、ラッセルがヒットラー憎さの余り、反戦の志を一時放棄して対ナチスドイツ戦を唱道するという愚行に走ったのも、第二次世界大戦後、反核、反ベトナム戦争のスタンスをとったのも、結局のところ、それぞれ、欧州文明に対する嫌悪、米国「文明」に対する侮蔑、に由来するのであって、彼もまた、典型的なイギリス人であって、並のイギリス人よりもはるかに、アングロサクソン文明のホンネに忠実に生きただけである、というべきでしょう。
 そもそも、彼の「本職」における、反欧州哲学性もまた、その典型的イギリス人性に由来するわけですが・・。(太田)

(続く)

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