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太田述正コラム#7144(2014.8.27)
<ロシアとナショナリズム(その2)>(2014.12.12公開)

 (2)ソ連・ロシア共和国

 「<ロシアでは、>ナショナリズムは、二つの歴史的な戦略的諸論理に由来する矛盾的諸動態によって水で薄められ掘り崩された。
 それは、第一にソ連より前の帝国的論理であり、第二にソ連の連邦主義の文法だ。
 ロシア帝国とソ連のどちらも、ロシア共和国(Russian Federation)に、より均一的で統一されたロシア民族(nation)への大衆的願望と並列的に、民族的(ethno)地域的な飛び地(enclave)を持った異なった「諸民族」万華鏡的遺産を遺贈した。・・・
 <とまれ、>ロシア人達は、ロシアによって実効支配された(controlled)、しかし、非ロシア人達が住む諸領域を失うことについて、殆んど心の準備ができていなかったし、今日においては全くできていない。・・・
 第二次世界大戦の後にロシアに併合された比較的小さな千島列島の問題が良い例だ。・・・
 <現在のロシア共和国では、>ロシア人が総人口の約82〜85%を占めている。
 他の民族集団で5%を超えるものはない。
 2010年の国勢調査・・ロシアの国勢調査の信頼性は余り高くないが・・によれば、タタール人が人口の4%近くおり、ウクライナ人が2%をちょっと切るくらいだ。・・・
 <ロシア帝国当時は、>帝国への忠誠(allegiance)は、まずは皇帝(ツァー)に、次いでロシア正教に、そして最後に(帝国と理解されたところの)祖国(Fatherland)、に向けられていた。・・・
 ロシアのナショナリズムは、ロシアにおける統治において、(無政府主義者達によってアレクサンドル2世(Alexander IV)<(コラム#2506、4238、4240、4318、4326、4402、4597、4599、6559、7092)>が暗殺された後、)アレクサンドル3世(Alexander III)<(コラム#1751、2506、4402、6690)>の下になってからだけ、鍵となる役割を演じ始めた。
 このナショナリスト的な国家論理は、その後、この帝国の分解に貢献し、統一よりも諸緊張を創造することとなった。・・・
 ロシアの倫理的かつ文化的上部構造は、こうして、ソ連の諸共和国という常に拡大し続ける世界の基盤として機能(serve)し、新しい諸民族(nations)を引きいれ、ロシア語を共通語として用いさせた。
 仮に、ロシア的・ソ連的坩堝がロシア民族性(Russian nationality)をより高次の非民族的アイデンティティのための文化的乗り物(vehicle)として用いたとすれば、それは、ロシア民族的アイダンティティへの顕示的な公的諸主張(explicit public claims)の禁止という代償の下でそうされたのだ。・・・
 差し引きすれば、長期的には、民族的・領域的多様性の促進と並行した新しいソ連的アイデンティティの鍛造という実験は、支配的な(overarching)政治的コミュニティを構築することに比べ、民族的ナショナリズムの発展に、少々ながら、より貢献した。
 ロシア・ナショナリズムは、良く知られているように、第二次世界大戦の後に成長した。
 それでも、ペレストロイカ(perestroika)が始まるまでは政治的にはっきり語られることは決してなかった。
 <しかし、振り返ってみれば、>1930年代に打ち出された、スターリンの反ユダヤ主義的諸政策は、ロシアのナショナリスト的諸ムードとのいちゃつき(flirtation)の一部だった。
 彼の、1943年におけるロシア正教会の再合法化(relegitimation)は、特に、ドイツ人達に対する戦争の間の愛国的諸感情を掻き立てることを意図したものだった。

→スターリンの反ユダヤ主義やロシア正教会の再合法化は、ナショナリズム云々よりも、プロト欧州文明への復帰の一環ととらえるべきでしょう。(太田)

 (強い訛りのあるロシア語をしゃべった、グルジア人たる指導者がロシア・ナショナリズムを受け入れ(coopt)たところの、20世紀のロシア帝国主義の最も劇的な顔であったことの皮肉を考えてもみよ。)
 <そして、>軍部(military command)と諜報諸機関においては、より濃厚なロシア愛国的姿勢(posture)が支配的となった(predominated)。
 それには、若干の実際的な諸含意があった。
 すなわち、ユダヤ人達、タタール人達、そしてリトアニア人達は、1960年代から、KGBで上級職に就くことが認められなくなった。
 また、最上級の数学・科学系諸大学は、彼らが、将来エミグレ達となる可能性があるとみなされたために、機密に関わる軍事技術諸部門における彼らの存在感を制限する目的での暗黙の諸上限枠を設定していた。・・・
 プーチンによる2005年の憲法改正により、ロシアの大統領が、(2004年のベスラン(Beslan)虐殺の後に、クレムリンからの力強い(muscular)「権力垂直性(power vertical)」を復権(reinstate)させ、)諸選挙抜きで連邦政治諸単位の指導者達を指名できるようにしたことに伴い、ロシアにおける連邦観念はその憲法的意味(sense)を失った。」
http://globalbrief.ca/blog/2014/03/24/the-curious-case-of-russian-nationalism/

→最後の点は、ナショナリズム云々よりも、専制権力強化ととらえるべきでしょう。(太田)

 要するに、スターリンが、反ナショナリズム的な連邦主義を追求したため、ペレストロイカによってスターリン主義という共通イデオロギーによるしばりが失われた瞬間に、旧ロシア帝国領土(及び東欧からなるソ連圏)の分解がもたらされた、ということです。

 そして、旧ロシア帝国領土の回復を目指していると考えられるプーチンとしても、ナショナリズムは、扱いにくい代物であり続けています。
 まず、現在のロシア内でナショナリズムを掲げるのには何の問題もないのであって、ポスト欧州文明への回帰ないしタタールの軛のトラウマに根差した安全保障フェティシズムに突き動かされたところの国内における専制権力確立を図るべく、現に正教の更なる復権等を彼は進めているわけであり、また、やはりタタールの軛のトラウマに根差した安全保障フェティシズムに突き動かされたところの緩衝地帯の拡大を図るべく、ロシア語に着目したロシア語・ナショナリズムを掲げることも、ベラルーシやカザフスタンやウクライナとの政治統合を目指すのには有効であることは確かです。
 現に、プーチンは2011年にぶち上げた、EUを模倣したユーラシア連合
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%82%A2%E9%80%A3%E5%90%88
構想の中に、ロシア語人口が大部分を占めているベラルーシとカザフスタンを取り込むのに成功したところです。
 (ベラルーシの場合は正教信徒も大部分を占めていますが、カザフスタンはそうではありません。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%B7
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%B6%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3
 しかし、既にユーラシア連合構想に加盟しているもう一つの国であるタジキスタンは、(正教信徒が殆んどいない上、)ロシア語人口も少ない
http://en.wikipedia.org/wiki/Tajikistan#Demographics
わけであり、ロシア帝国/ソ連、の一員であったという歴史の共有だけが同国と現在のロシアとの紐帯となっていることに照らせば、ユーラシア連合構想加盟国を増やしていくためにも、ロシア・ナショナリズムやロシア語ナショナリズムに依拠するわけにいかないことは明白でしょう。

3 終わりに代えて

 最後に、終わりに代えて、ユーラシア連合ならぬ、ユーラシア主義(Eurasianism)に触れておきましょう。
 ユーラシア主義については、以下の通りです。
 「ロシア革命・ボリシェビキ政権に対する反応の1つとして、1920年代に白系ロシア人(非ソ<連>系亡命ロシア人)の間で流行した民族主義的思想潮流<であり、>「非欧州」と「ロシア正教会」を主軸としたロシア文明の再構築を構想しつつ、ロシア革命・ボリシェビキ政権(<ソ連>政権)を、そこに至る必要な一過程として、肯定的に捉える。・・・
 <なお、>ソ連崩壊後の1990年代には、・・・これを継承する新ユーラシア主義(Neo-Eurasianism)が誕生し、ロシアは<欧州>よりもアジアに近いユーラシア国家だという主張を展開した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%82%A2%E4%B8%BB%E7%BE%A9

 私見では、ユーラシア主義は、ソ連当時以降において、左派、右派を問わず、ロシア人の間に、欧州文明継受を止め、プロト欧州文明継受の昔に復帰する志向が広範に存在していることの証なのです。
 ロシアにおいて、プロト欧州文明継受のモスクワ大公国時代の首都はモスクワであったのが、欧州文明継受のロシア帝国になってからサンクト・ぺテルブルクに変わり、それがソ連になって再びモスクワに復帰し、ロシア共和国の現在でもそのままである、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AF
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%9A%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AF
ということが、このことを象徴している、と思うのです。
 私の希望としては、累次申し上げているように、新ユーラシア主義が更に徹底、純化するとともに、現在のロシアで勢力を増して、ロシアがプロト欧州文明とも手を切って、日本文明継受に乗り出すことなのであるところ、その可能性は殆んどない、と見ている次第です。

(完)

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