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太田述正コラム#7136(2014.8.23)
<フィリップ2世の帝国(その3)>(2014.12.8公開)

 (3)アメリカ大陸

 「スペイン人達は、原住民達を、強制的にではなくキリスト教に改宗させることと、攻撃されない限り彼らに危害を加えない、という義務を自覚していた。・・・
 恐らく、約250,000人のスペイン人達が16世紀の間に新世界へと移民した。・・・
 貴金属類の輸入が、16世紀におけるスペインの物価上昇の殆んど半分を説明するところ、ポトシ(Potosi)・・ボリヴィアの巨大な銀鉱の名前・・は、セルバンテス(Cervantes)<(注12)>の『ドン・キホーテ(Don Quixote)』<(注13)>の中では富の同義語だ。

 (注12)セルバンテス(1547〜1616年)は、「マドリード近郊<で生まれ、>・・・1564年ごろ、マドリード<で>・・・ルネサンスの人文学者ロペス・デ・オヨスに師事する。・・・ナポリでスペイン海軍に入隊<し、>・・・スペイン最盛期の象徴であるレパントの海戦(1571年)において被弾し、左腕の自由を失った後も4年間従軍を続け、ナヴァリノの海戦やチュニスへの侵攻にも参加した<が、>・・・<ベルベル人地域の>海賊に襲われ捕虜となる。・・・キリスト教の慈善団体・・・によって身請けされ本国に戻<り、>・・・無敵艦隊の食料調達係の職を得てスペイン各地を歩き回って食料を徴発するが、教会から強引に徴発したかどで投獄され、さらに翌年アルマダの海戦で無敵艦隊が撃破されたため職を失う。その後なんとか徴税吏の仕事に就くが、税金を預けておいた銀行が破産、併せて負債として30倍の追徴金を背負わされ、未納金につき1597年に投獄される。・・・『ドン・キホーテ』の序文で、・・・そのセビーリャの・・・牢獄において<この小説を>構想したことをほのめかしている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%B2%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%B9
 (注13)「1605年に出版された前編と、1615年に出版された後編がある。・・・旧態依然としたスペインなどへの批判精神に富んだ作品で、風車に突進する有名なシーンは、スペインを象徴する騎士姿のドン・キホーテがオランダを象徴する風車に負けるという、オランダ独立の将来を暗示するメタファーであったとする説もある・・・主人公の自意識や人間的な成長などの「個」の視点を盛り込むなど、それまでの物語とは大きく異なる技法や視点が導入されていることから、最初の近代小説ともいわれる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%86

 <こうして、>超大金持ちの新階級のスペイン人達が生まれた。
 しかし、多くが財産群を砿業で作ったところ、この帝国から最大の財産を得た家族は、新世界に葡萄酒とオリーブ油を恐るべき分量輸出したホルへ家(Jorges)<(注14)>だった。・・・

 (注14)不詳。

 スペイン帝国の原住民達の零落をもたらしたのは、<スペイン人の>強欲と残酷さではなく、彼らが免疫を持っていなかったところの、欧州の諸疾病だった。
 トーマスは、ノバイスパニア(New Spain)<(注15)>を1531年には800万人から1100万人とするが、その世紀の終わりには250万人前後になったと推計する。

 (注15)「《新しいイスパニアの意》スペイン植民地時代のメキシコのこと。」
http://kotobank.jp/word/%E3%83%8E%E3%83%90%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%91%E3%83%8B%E3%82%A2

 ペルーでは、インディアン人口は1531年には約600万人だったが、1600年にはその3分の1にまで減少した。
 キューバとサントドミンゴ(Santo Domingo)<(注16)>の砂糖プランテーション群の労働力として、そして、ノバ・イスパニアへ持ち込まれた羊の諸群れの羊飼いとして、アフリカ人奴隷達が連れてこられた。

 (注16)「1492年にクリストファー・コロンブス<が最初に到着したアメリカ大陸の地が彼がイスパニョーラ島と名付けたカリブ海の島だったが、>・・・1496年、スペイン人が<この>島に定住し、1498年・・・サントドミンゴは南北アメリカで最も古い欧州風の都市となった。・・・<現在は、>はドミニカ共和国の首都である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%89%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%82%B4

 彼らに対する扱いはひどかったが、後に、英国人達、フランス人達、そして米国人達によってアフリカ人奴隷達に行われた扱いほど悪くはなかった(no worse than)。
 既に記したように、とりわけユカタン半島のマヤ・インディアンのように、偶像崇拝(idolatry)や人身御供儀式の諸残滓の引き続きの諸慣行のために、時に暴虐的に処罰されることはあったものの、インディアン達は改宗を強制されなかった。
 その他の点では、スペイン人達は、以北のアングロサクソン人入植者達に比べて、人種的差異に係る有毒な認識(toxic perception)を発展させなかった。
 アステカ(Aztec)の国王のモンテスマ(Montezuma)<(注17)>の子供達のうちの3人は、インカの国王のアタワルパ(Atahualpa)<(注18)>の妹同様、「スペインの植民地貴族に極めて容易に移行した」のであり、雑婚は一般に眉を顰められることはなかったのだ。

 (注17)モクテスマ2世(Moctezuma II, 1466〜1520年)は、「アステカの第9代の君主(在位1502年〜1520年)。・・・エルナン・コルテス・・・をケツァルコアトル神の使い(もしくは神そのもの)と信じていた。・・・最後はスペインのアステカ征服・・・の過程で激怒したアステカ市民から無数の石を投げつけられて死亡した」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%82%AF%E3%83%86%E3%82%B9%E3%83%9E2%E4%B8%96
 コルテス(Hernan Cortes。1485〜1547年)は、「スペイン<人で>・・・メキシコ高原にあったアステカ帝国を征服した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%B9
 貴族の家系に生まれたが学歴なし。
http://en.wikipedia.org/wiki/Hern%C3%A1n_Cort%C3%A9s
 (注18)1502?〜1533年。「インカ帝国の実質的に最後(13代)のサパ・インカ(皇帝)である(名目上最後の皇帝はトゥパク・アマル)。・・・ピサロは、<彼を捕え、>模擬裁判を行い、皇帝が偶像崇拝を常習としたこと及び実の兄であるワスカルを殺害したことでスペイン人を不快にさせたとして火あぶりによる死刑判決を下した(ワスカルの死についてはアタワルパが関与した証拠はない)。インカの宗教では、焼死した魂は転生できないとされているため、アタワルパはこの判決に恐怖した。ここでバルベルデ神父が、キリスト教への改宗に同意するなら判決文を変更するように働きかけるとアタワルパに言った。皇帝は洗礼を受けることに同意し、洗礼名フランシスコ・アタワルパを与えられ、キリスト教徒たる彼の要求に従い、焚刑に代えて鉄環絞首刑(ガローテ)となった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%BF%E3%83%AF%E3%83%AB%E3%83%91
 フランシスコ・ピサロ(Francisco Pizarro。1470?〜1541年)は、「スペイン人<で>・・・ペルーのインカ帝国を征服した。・・・父は軍人で小貴族、母は召使であったといわれる。教育されず、文字も知らないままで育った。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%83%94%E3%82%B5%E3%83%AD

 実際、欧州人とインディアンの混血たるメスティゾ(mestizo)は、「新世界におけるスペイン人達の最も独創的な(original)創造物」である、とトーマスは考えている。」(A)

(続く)

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