太田述正ブログは移転しました 。
www.ohtan.net
www.ohtan.net/blog/

太田述正コラム#6993(2014.6.12)
<米国と支那は似ている?(その2)>(2014.9.27公開)

 1906年の講義、「プラグマティズムとは何ぞや」の中で、ジェームズは、プラグマティックな方法論(method)は、「個々の観念(notion)をそれぞれの実際的(practical)な諸帰結を追跡することによって解釈する」ことを目指す、と語った。
 私は、この点に関しては、この手法が米国的というより支那的に見える、と主張したい。
 大部分の米国人は、外交政策となると、中共政府がプラグマティックであることにはお馴染みだ。
 他の諸国との道徳的諸議論(debates)に興味を示すことなく、中共は、自国の諸政策が「単なるビジネス」であるとの立場をとり、相手が諸聖人であれ諸僭主であれ、取引(trade)を行う。
 米国は、少なくとも公的には、この一見、原則がないことに対して上から目線をとるけれど、我々は、支那文化において、より深いところにあるプラグマティックな倫理を理解することができていない、というのが私の見解だ。
 今日においては、米国の知識人達より支那の知識人達の方が、より一般的にプラグマティズムを抱懐しているように見える。
 支那では、(米国では、関心が萎れているけれど、)とりわけ、デューイの哲学に対する熱意が急速に高まりつつある。・・・
 デューイと、彼の前のウィリアム・ジェームズの哲学の中心的(overarching)テーマは、人生に対する実験的アプローチは、宗教、政治、倫理、芸術、そしてむろん科学を含む、あらゆる諸領域において我々を導かなければならない、というものだ。

 デューイは、頭の固い(sclerotic)イデオロギーと絶対主義(absolutism)<(注8)>と本質主義(essentialism)<(注9)>に反対する主張を行った。・・・

 (注8)「絶対的な存在や、絶対的な価値・基準の存在を認める考え。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B6%E5%AF%BE%E4%B8%BB%E7%BE%A9
 (注9)本質主義では、「本質が現実存在に先立つものとされ、本質が現実存在から事後的に抽出・構成されるとは考えない。事物とその本質との関係はアプリオリなものであるから、事物が現実に存在する文脈からは独立しており、その事物がその事物である限り、その本質は同一不変であるとみなされる。・・・<本質主義の>このもっとも古典的な範例が<プラトンの>イデア論である」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%B3%AA%E4%B8%BB%E7%BE%A9

 プラグマティズムは、ダーウィン(Darwin)に甚だ影響を受けており、倫理でさえも、人類の社会生活における進化的な適応的対応(evolving adaptive response)であるとする。
 最近の、支那におけるデューイとプラグマティズムのルネサンスでは、増大しつつある富裕階級に<私を超える>公共善(common good)<というもの>が存在することを想起させる一つの方法として、<プラグマティズム>の世俗的倫理の側面(dimension)が強調されている。

→筆者は、一般の日本人同様、支那人には公の観念がない、と思いこんでいるようですが、そもそも、下掲の引用論文の著者自身が指摘しているように「公」という漢字が存在していることだけとっても、舌足らずだと思います。
 「中国人・・・の意識する「他人」は、眼前の他人をまず優先するので、不確定で見えない複数の他人に至っては・・・次要の存在でしかない。<よって、>・・・中国型の「公」観念のもとでは、・・・社会一般の「情」「理」の原則に違反しない限り、個人の「利益」「私情」を排斥することはない・・・。
 日本人の「公」「私」観念が、中国人のそれと違う点は大きくいって二つある。一つは<このような中国人とは違って、>「公」と「私」とが<峻別され>ていること。二つは「公」が無条件に「私」に優先するということである。中国社会では、個人は「公」「私」が対立したとき、必ずしも「私」を捨てて「公」につくというようなことをせず、通常「情」「理」で推し量ったうえで、「公」「私」の取捨選択を決定する。」
http://lib.yg.kobe-wu.ac.jp/metadb/up/library01/KY00000228/Body/link/wang.pdf
 要するに、こういうことです。
 そもそも、支那では、秦以来、支配者(公)と被支配者(私)の間に、(両者が文化を共有していなかった場合がはるかに多かったところの、中東イスラム世界ほどひどくはないものの、)信頼関係が基本的に成立しなかったため、被支配者同士でも(信頼関係違背行為を支配者が適切に救済してくれる保証がないため)信頼関係が一般的には成立せず、それが一族郎党ないしは擬似的一族郎党の間でのみ成立する形で、現在に至っているのです。
 このような支那においては、支配者(公)と被支配者(私)との関係は、不平等な私と私の関係でしかないのであり、この不平等性が貫徹できない・・有体に言えば、後者が前者によって処罰されない、或いは前者が後者を処罰できない・・場合には、後者が自利を追求する目的で前者の領域を侵害することを躊躇しないのは当然でしょう。
 (なお、公の側からなされる、非法治主義的な公的私的な私の側の領域侵害もまた、頻繁に見られたところです。)
 この論文の著者は、支那人の公観を二つの観点から説明していますが、それはこのように単一の観点から説明ができるのです。(太田)

 支那の人々は、数千年にわたって無神論者達であり続けてきたが、プラグマティズムは、甚だ世俗的な儒教倫理と極めて相性が良い(congenial)のだ。

→(猛威を振るった白蓮教や太平天国についてはさておき、)上代において支配者と被支配者の間に相当浸透した仏教が無神論であるということは間違いではないものの、主として被支配者の間で広範にかつ時代を超えて信奉されてきたところの、道教の天帝は神と言わざるをえませんし、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%B8%9D
同じ道教の神仙や鬼も神の要素を持っている
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E6%95%99
ので、「支那の人々」が「無神論者達であり続けてきた」というのは言い過ぎです。(太田)

(続く)

太田述正ブログは移転しました 。
www.ohtan.net
www.ohtan.net/blog/