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太田述正コラム#6971(2014.6.1)
<支那文明の起源(その6)>(2014.9.16公開)
爾来、易姓革命を成し遂げるほどの気概と能力を持った一握りの被支配層を除き、支那の被支配層は、殆んど救いのない、無明の世界に生き続けたと言っても過言ではありません。
そんな被支配層の中に浸透した道教(注6)は、彼らの阿Q性を募らせるだけの阿片的な土俗宗教でしかありませんでした。
(注6)「道教は漢民族の土着的・伝統的な宗教である。中心概念の道(タオ)とは宇宙と人生の根源的な不滅の真理を指す。・・・この道(タオ)と一体となる修行のために錬丹術を用いて、不老不死の霊薬、丹を錬り、仙人となることを究極の理想とする。・・・
老荘すなわち道家の思想と道教とには直接的な関係はないとするのが、日本及び中国の専門家の従来の見解であった<が、>・・・仏教に対抗して道教が創唱宗教の形態を取る過程で、老子を教祖に祭り上げ、大蔵経に倣った道蔵を編んで道家の書物や思想を取り入れたことは事実」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E6%95%99
結局のところ、支那文明を、瓦解させるか、少なくとも抜本的に改変させるかしない限り、支那の阿Q的被支配層には、そして、究極的には、支那の利己主義的な支配層にも、この無明の世界から逃れる術はなかったわけですが、悲劇的にも、彼らは、その手がかりを東方の日本列島における人間主義に求めることなく(注7)、西方の終末論的・救世主待望論に求めることなるのです。
(注7)秦始皇帝にまつわる徐福伝説
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%90%E7%A6%8F
や、仙人の住む東方の三神山の一つの瀛州(えいしゅう)を日本に擬する考え方
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%9B%E5%B7%9E
に、昔の支那人の日本列島(における人間主義的なもの)への憧れを私は見出す。
惜しむらくは、この憧れは後世まで持続することがなかった。
西方の終末論的・救世主待望論の支那版による支那文明への挑戦の第一弾は、どちらも西方からやってきたところの、マニ教と弥勒信仰を習合させたところの、白蓮教を掲げた、阿Q達による諸叛乱でした。(注8)
(注8)白蓮教は、「明教(マニ教)と弥勒信仰が習合したものといわれる。マニ教は、<支那>には694年・・・に伝来し<たものだが、>・・・元末、・・・大規模な反乱を起こした。これは目印として紅い布を付けた事から紅巾の乱とも呼ばれる。明の太祖朱元璋も当初は白蓮教徒だったが、元を追い落とし皇帝となると一転して白蓮教を危険視し、これを弾圧した。・・・<とまれ、>「明」の国号は、マニ教すなわち「明教」に由来したものだといわれている・・・その後も白蓮教は革命を望む民衆の間で信仰され続け、異民族支配に反抗する秘密結社の紐帯となっていた。清の乾隆 - 嘉慶期には大規模な反乱を起こしたが(白蓮教徒の乱)、1813年の天理教徒の乱を最後に沈静化した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E8%93%AE%E6%95%99
「1900年の北清事変(義和団の乱)の契機となった排外主義的な拳闘集団である義和団なども、そうした秘密結社のひとつといわれる。・・・
<ちなみに、>マニ教の教義は、ヘレニズム世界において流行した神秘主義的哲学として知られるグノーシス主義、パレスティナを発祥の地とするユダヤ教およびキリスト教、イランに生まれたゾロアスター教、また、ローマ帝国で隆盛した太陽崇拝のミトラ教、伝統的なイラン土着の信仰、さらに東方の仏教・道教からも影響を受け、これらを摂取・融合している。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8B%E6%95%99
「<また、>弥勒はゴータマ・シッダッタ・・・の次にブッダとなることが約束された菩薩(修行者)で、シッダッタの入滅後56億7千万年後の未来に姿を現れて、多くの人々を救済するとされる。それまでは兜率天で修行(あるいは説法)しているといわれ、<支那>・朝鮮半島・日本では、弥勒菩薩の兜率天に往生しようと願う信仰(上生信仰)が流行した<ところ、>・・・弥勒信仰には、上生信仰とともに、下生信仰も存在し、<支那>においては、こちらの信仰の方が流行した。
下生信仰とは、・・・弥勒如来の下生が56億7千万年の未来ではなく現に「今」なされるからそれに備えなければならないという信仰であ<り、>浄土信仰に類した上生信仰に対して、下生信仰の方は、弥勒下生に合わせて現世を変革しなければならないという終末論、救世主待望論的な要素が強<く、>そのため、反体制の集団に利用され<たり>、下生信仰の集団が反体制化<したり>、という例が、各時代に数多く見られ<、>北魏の大乗の乱や、北宋・南宋・元・明・清の白蓮教が、その代表である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E5%8B%92%E8%8F%A9%E8%96%A9
思い起こせば、14世紀に白蓮教徒が紅巾の乱を起こして元を北に逐った時、支那文明大改変の機会が一瞬訪れたものの、乱の有力将領であった朱元璋の裏切りによって、明が建国されてしまい、それは単なる易姓革命へと堕してしまった、といったことも起こっています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E
そして、第二弾が、プロト欧州文明由来のキリスト教の中の終末論・救世主待望論の部分を肥大化させ、洪秀全をキリストの弟たる救世主に擬したところの、阿Q達による、太平天国の乱でした。
この乱もいたずらに人命の喪失と国土の荒廃をもたらしただけで失敗に終わります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E5%A4%A9%E5%9B%BD%E3%81%AE%E4%B9%B1
そして、第三弾ですが、欧州文明由来の民主主義独裁なる終末論・救世主待望論の痕跡を強く残すイデオロギー群を、主として日本経由で次々に継受することで、まず、ナショナリズムを掲げ、「打倒清朝、回復中華、樹立民国」を叫んだ辛亥革命が起こり、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%9B%E4%BA%A5%E9%9D%A9%E5%91%BD
次いで、ファシズムを旨とする中国国民党とスターリニズムを掲げる中国共産党の内戦時代となり、最終的に中国共産党が内戦に勝利を収めて、ここに初めて、阿Q達を糾合した形で、スターリン主義を掲げた支那文明の大改変が断行されるのです。
しかし、その後、トウ小平及びその後継者たる中共の歴代最高支配層は、スターリン主義は支那文明の大改変こそ成功させた・・例えば、女性差別の軽減、脱儒教/道教化・・ものの、被支配層の阿Q性(及び支配層の利己主義)の矯正には失敗したことから、ついに、東方に本格的に目を転じることとし、日本化戦略を発動する運びとなり、まず、日本型経済体制の継受を目指し、それをある程度達成した上で、今度は、日本の人間主義そのものの継受に乗り出して現在に至っている、(そして、将来における、日本型政治体制の継受を目指している、)と私は見ているわけです。
(完)
<支那文明の起源(その6)>(2014.9.16公開)
爾来、易姓革命を成し遂げるほどの気概と能力を持った一握りの被支配層を除き、支那の被支配層は、殆んど救いのない、無明の世界に生き続けたと言っても過言ではありません。
そんな被支配層の中に浸透した道教(注6)は、彼らの阿Q性を募らせるだけの阿片的な土俗宗教でしかありませんでした。
(注6)「道教は漢民族の土着的・伝統的な宗教である。中心概念の道(タオ)とは宇宙と人生の根源的な不滅の真理を指す。・・・この道(タオ)と一体となる修行のために錬丹術を用いて、不老不死の霊薬、丹を錬り、仙人となることを究極の理想とする。・・・
老荘すなわち道家の思想と道教とには直接的な関係はないとするのが、日本及び中国の専門家の従来の見解であった<が、>・・・仏教に対抗して道教が創唱宗教の形態を取る過程で、老子を教祖に祭り上げ、大蔵経に倣った道蔵を編んで道家の書物や思想を取り入れたことは事実」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E6%95%99
結局のところ、支那文明を、瓦解させるか、少なくとも抜本的に改変させるかしない限り、支那の阿Q的被支配層には、そして、究極的には、支那の利己主義的な支配層にも、この無明の世界から逃れる術はなかったわけですが、悲劇的にも、彼らは、その手がかりを東方の日本列島における人間主義に求めることなく(注7)、西方の終末論的・救世主待望論に求めることなるのです。
(注7)秦始皇帝にまつわる徐福伝説
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%90%E7%A6%8F
や、仙人の住む東方の三神山の一つの瀛州(えいしゅう)を日本に擬する考え方
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%9B%E5%B7%9E
に、昔の支那人の日本列島(における人間主義的なもの)への憧れを私は見出す。
惜しむらくは、この憧れは後世まで持続することがなかった。
西方の終末論的・救世主待望論の支那版による支那文明への挑戦の第一弾は、どちらも西方からやってきたところの、マニ教と弥勒信仰を習合させたところの、白蓮教を掲げた、阿Q達による諸叛乱でした。(注8)
(注8)白蓮教は、「明教(マニ教)と弥勒信仰が習合したものといわれる。マニ教は、<支那>には694年・・・に伝来し<たものだが、>・・・元末、・・・大規模な反乱を起こした。これは目印として紅い布を付けた事から紅巾の乱とも呼ばれる。明の太祖朱元璋も当初は白蓮教徒だったが、元を追い落とし皇帝となると一転して白蓮教を危険視し、これを弾圧した。・・・<とまれ、>「明」の国号は、マニ教すなわち「明教」に由来したものだといわれている・・・その後も白蓮教は革命を望む民衆の間で信仰され続け、異民族支配に反抗する秘密結社の紐帯となっていた。清の乾隆 - 嘉慶期には大規模な反乱を起こしたが(白蓮教徒の乱)、1813年の天理教徒の乱を最後に沈静化した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E8%93%AE%E6%95%99
「1900年の北清事変(義和団の乱)の契機となった排外主義的な拳闘集団である義和団なども、そうした秘密結社のひとつといわれる。・・・
<ちなみに、>マニ教の教義は、ヘレニズム世界において流行した神秘主義的哲学として知られるグノーシス主義、パレスティナを発祥の地とするユダヤ教およびキリスト教、イランに生まれたゾロアスター教、また、ローマ帝国で隆盛した太陽崇拝のミトラ教、伝統的なイラン土着の信仰、さらに東方の仏教・道教からも影響を受け、これらを摂取・融合している。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8B%E6%95%99
「<また、>弥勒はゴータマ・シッダッタ・・・の次にブッダとなることが約束された菩薩(修行者)で、シッダッタの入滅後56億7千万年後の未来に姿を現れて、多くの人々を救済するとされる。それまでは兜率天で修行(あるいは説法)しているといわれ、<支那>・朝鮮半島・日本では、弥勒菩薩の兜率天に往生しようと願う信仰(上生信仰)が流行した<ところ、>・・・弥勒信仰には、上生信仰とともに、下生信仰も存在し、<支那>においては、こちらの信仰の方が流行した。
下生信仰とは、・・・弥勒如来の下生が56億7千万年の未来ではなく現に「今」なされるからそれに備えなければならないという信仰であ<り、>浄土信仰に類した上生信仰に対して、下生信仰の方は、弥勒下生に合わせて現世を変革しなければならないという終末論、救世主待望論的な要素が強<く、>そのため、反体制の集団に利用され<たり>、下生信仰の集団が反体制化<したり>、という例が、各時代に数多く見られ<、>北魏の大乗の乱や、北宋・南宋・元・明・清の白蓮教が、その代表である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E5%8B%92%E8%8F%A9%E8%96%A9
思い起こせば、14世紀に白蓮教徒が紅巾の乱を起こして元を北に逐った時、支那文明大改変の機会が一瞬訪れたものの、乱の有力将領であった朱元璋の裏切りによって、明が建国されてしまい、それは単なる易姓革命へと堕してしまった、といったことも起こっています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E
そして、第二弾が、プロト欧州文明由来のキリスト教の中の終末論・救世主待望論の部分を肥大化させ、洪秀全をキリストの弟たる救世主に擬したところの、阿Q達による、太平天国の乱でした。
この乱もいたずらに人命の喪失と国土の荒廃をもたらしただけで失敗に終わります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E5%A4%A9%E5%9B%BD%E3%81%AE%E4%B9%B1
そして、第三弾ですが、欧州文明由来の民主主義独裁なる終末論・救世主待望論の痕跡を強く残すイデオロギー群を、主として日本経由で次々に継受することで、まず、ナショナリズムを掲げ、「打倒清朝、回復中華、樹立民国」を叫んだ辛亥革命が起こり、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%9B%E4%BA%A5%E9%9D%A9%E5%91%BD
次いで、ファシズムを旨とする中国国民党とスターリニズムを掲げる中国共産党の内戦時代となり、最終的に中国共産党が内戦に勝利を収めて、ここに初めて、阿Q達を糾合した形で、スターリン主義を掲げた支那文明の大改変が断行されるのです。
しかし、その後、トウ小平及びその後継者たる中共の歴代最高支配層は、スターリン主義は支那文明の大改変こそ成功させた・・例えば、女性差別の軽減、脱儒教/道教化・・ものの、被支配層の阿Q性(及び支配層の利己主義)の矯正には失敗したことから、ついに、東方に本格的に目を転じることとし、日本化戦略を発動する運びとなり、まず、日本型経済体制の継受を目指し、それをある程度達成した上で、今度は、日本の人間主義そのものの継受に乗り出して現在に至っている、(そして、将来における、日本型政治体制の継受を目指している、)と私は見ているわけです。
(完)
太田述正ブログは移転しました 。
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