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太田述正コラム#6969(2014.5.31)
<支那文明の起源(その5)>(2014.9.15公開)
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<脚注:阿Qは愚民政策の産物>
本日読んだあるコラムの中に、「秦の始皇帝(Qin Shi Huang<。BC259〜BC210年>)の22世紀前のモットーであったところの、「民衆は無知のままにとどめれば彼らは従順であり続けるだろう(Keep the Masses Ignorant and They Will Follow)<(=民愚则易治)>」」
http://www.ft.com/intl/cms/s/2/b2ca5c80-e724-11e3-88be-00144feabdc0.html#axzz33G9Whe9A
というくだりを見出した時、それを言ったのは始皇帝ではなかったのではないか、という気がして、調べてみたところ、秦王としての始皇帝の5代前の秦の恵文王、及びその更に1代前の孝公に仕えた、法家の商鞅(Shang Yang。BC390〜BC338年)の言であったことを思い出した。
http://finance.yahoo.com/news/china-went-being-closed-system-192556550.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%95%86%E9%9E%85
「恵文王以降の秦の歴代君主は商鞅が死んだ後も商鞅の法を残した」(ウィキペディア上掲)というのだから、この愚民政策も踏襲されたと見てよかろう。
そして、秦より後の諸王朝によっても踏襲されたのではなかろうか。
ただし、この日本語ウィキペディアにも、同じ商鞅に関する英語ウィキペディア
http://en.wikipedia.org/wiki/Shang_Yang
にも、この話は出てこない。
他方、漢語サイトでは、いくらでも出てくる。
「民愚则易治:秦国商鞅变法暗藏哪些猫腻儿? ・・・」
http://www.baijiajiangtan.com.cn/WHDT/2010/12/31/3138.html
毛沢東がこの商鞅の愚民政策を「崇拝」していた、と主張する、在米漢人の漢語サイトもあった。
http://blog.sina.com.cn/s/blog_64892f210101h4cf.html
どうやら、支那の被支配層の阿Q性は、その歴代の支配層によって、強化・温存されてきた、と見てよさそうだ。
ここで、日本にも愚民政策があったのではないか、という反論に答えておこう。
「農民達は・・・酒や茶を買って飲まない・・・粟や稗などの雑穀などを食べ、米を多く食べ過ぎない・・・麻と木綿のほかは着てはいけない<。また、>帯や裏地にも使ってはならない」などとしたところの、悪名高い、「慶安御触書」は、「1697年・・・に甲斐国甲府藩領で発布されていた農民教諭書が慶安年間の幕法であるとする伝承が付加され広まったもの」に過ぎない
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E5%AE%89%E5%BE%A1%E8%A7%A6%E6%9B%B8
ようだ。
ただ、「徳川斉昭<(1800〜60年)>が、「百姓に学問など全く不要だ」「ただひたすら農耕にはげんでさえいればよい」と公言した上で、農民を「愚民」「頑民」と呼んでいた」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9A%E6%B0%91%E6%94%BF%E7%AD%96
のは確からしい。
(本人に関するウィキペディアには言及がない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%96%89%E6%98%AD )
しかし、「藩主に就任した斉昭がまず行なったことは「三雑穀切り返しの法」という農民に不利な年貢をやめることであった。そして、精炭、梅の接木、茶や山椒の栽培、養蜂などを奨励した。また、「常平倉」(災害対策用の備蓄倉庫)を積極的に設ける。おかげで天保7年(1836年)の大飢饉の際にも、水戸藩はほとんど餓死者を出さなかった。」
http://www.geocities.jp/bane2161/tokugawanariaki.html
というのだから、斉昭ですら、支那の歴代王朝の大部分の皇帝達とは違って、民本主義者であったことは間違いなさそうだ。
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<脚注:南北支那相違再訪>
やはり、本日読んだもう一つのコラムからだ。
筆者は、欧米における個人主義社会は、世界的には圧倒的少数派であるとした上で、一、自分と友人達の社会的ネットワーク図を書かせると、米国人は自分のを大きく描くのに対し、日本人は小さく描く、二、友人と赤の他人の誠実さに対して、アジア人は友人には多く報いるのに対し欧米人は両者を同等に報いる、三、犬と兎と人参の図を見せると、アジア人は兎は人参を食べるからと両者を一括りにするが欧米人は犬と兎はどちらも動物だからと両者を一括りにする、というこれまでの研究を紹介する。
そして、先般、太田コラムで紹介したところの、支那における、米文化の南と小麦文化の北の違いに関する最新研究は、以上のような違いが、アジアと欧米の違いではなく、耕作文化の違いに由来することを明らかにした、と説く。
更に、米文化においては、紛争回避的で共同体志向であるとし、離婚率が低く、革新の気運に乏しい、とする研究も紹介する。
http://online.wsj.com/articles/can-wheat-and-rice-determine-the-nature-of-cultures-1401489355
革新の気運に乏しい、ということが本当に科学的に言えるとして、その原因は、米文化の方が小麦文化に比べて平和志向的であること、に求められるのではなかろうか。
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(続く)
<支那文明の起源(その5)>(2014.9.15公開)
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<脚注:阿Qは愚民政策の産物>
本日読んだあるコラムの中に、「秦の始皇帝(Qin Shi Huang<。BC259〜BC210年>)の22世紀前のモットーであったところの、「民衆は無知のままにとどめれば彼らは従順であり続けるだろう(Keep the Masses Ignorant and They Will Follow)<(=民愚则易治)>」」
http://www.ft.com/intl/cms/s/2/b2ca5c80-e724-11e3-88be-00144feabdc0.html#axzz33G9Whe9A
というくだりを見出した時、それを言ったのは始皇帝ではなかったのではないか、という気がして、調べてみたところ、秦王としての始皇帝の5代前の秦の恵文王、及びその更に1代前の孝公に仕えた、法家の商鞅(Shang Yang。BC390〜BC338年)の言であったことを思い出した。
http://finance.yahoo.com/news/china-went-being-closed-system-192556550.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%95%86%E9%9E%85
「恵文王以降の秦の歴代君主は商鞅が死んだ後も商鞅の法を残した」(ウィキペディア上掲)というのだから、この愚民政策も踏襲されたと見てよかろう。
そして、秦より後の諸王朝によっても踏襲されたのではなかろうか。
ただし、この日本語ウィキペディアにも、同じ商鞅に関する英語ウィキペディア
http://en.wikipedia.org/wiki/Shang_Yang
にも、この話は出てこない。
他方、漢語サイトでは、いくらでも出てくる。
「民愚则易治:秦国商鞅变法暗藏哪些猫腻儿? ・・・」
http://www.baijiajiangtan.com.cn/WHDT/2010/12/31/3138.html
毛沢東がこの商鞅の愚民政策を「崇拝」していた、と主張する、在米漢人の漢語サイトもあった。
http://blog.sina.com.cn/s/blog_64892f210101h4cf.html
どうやら、支那の被支配層の阿Q性は、その歴代の支配層によって、強化・温存されてきた、と見てよさそうだ。
ここで、日本にも愚民政策があったのではないか、という反論に答えておこう。
「農民達は・・・酒や茶を買って飲まない・・・粟や稗などの雑穀などを食べ、米を多く食べ過ぎない・・・麻と木綿のほかは着てはいけない<。また、>帯や裏地にも使ってはならない」などとしたところの、悪名高い、「慶安御触書」は、「1697年・・・に甲斐国甲府藩領で発布されていた農民教諭書が慶安年間の幕法であるとする伝承が付加され広まったもの」に過ぎない
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E5%AE%89%E5%BE%A1%E8%A7%A6%E6%9B%B8
ようだ。
ただ、「徳川斉昭<(1800〜60年)>が、「百姓に学問など全く不要だ」「ただひたすら農耕にはげんでさえいればよい」と公言した上で、農民を「愚民」「頑民」と呼んでいた」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9A%E6%B0%91%E6%94%BF%E7%AD%96
のは確からしい。
(本人に関するウィキペディアには言及がない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%96%89%E6%98%AD )
しかし、「藩主に就任した斉昭がまず行なったことは「三雑穀切り返しの法」という農民に不利な年貢をやめることであった。そして、精炭、梅の接木、茶や山椒の栽培、養蜂などを奨励した。また、「常平倉」(災害対策用の備蓄倉庫)を積極的に設ける。おかげで天保7年(1836年)の大飢饉の際にも、水戸藩はほとんど餓死者を出さなかった。」
http://www.geocities.jp/bane2161/tokugawanariaki.html
というのだから、斉昭ですら、支那の歴代王朝の大部分の皇帝達とは違って、民本主義者であったことは間違いなさそうだ。
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<脚注:南北支那相違再訪>
やはり、本日読んだもう一つのコラムからだ。
筆者は、欧米における個人主義社会は、世界的には圧倒的少数派であるとした上で、一、自分と友人達の社会的ネットワーク図を書かせると、米国人は自分のを大きく描くのに対し、日本人は小さく描く、二、友人と赤の他人の誠実さに対して、アジア人は友人には多く報いるのに対し欧米人は両者を同等に報いる、三、犬と兎と人参の図を見せると、アジア人は兎は人参を食べるからと両者を一括りにするが欧米人は犬と兎はどちらも動物だからと両者を一括りにする、というこれまでの研究を紹介する。
そして、先般、太田コラムで紹介したところの、支那における、米文化の南と小麦文化の北の違いに関する最新研究は、以上のような違いが、アジアと欧米の違いではなく、耕作文化の違いに由来することを明らかにした、と説く。
更に、米文化においては、紛争回避的で共同体志向であるとし、離婚率が低く、革新の気運に乏しい、とする研究も紹介する。
http://online.wsj.com/articles/can-wheat-and-rice-determine-the-nature-of-cultures-1401489355
革新の気運に乏しい、ということが本当に科学的に言えるとして、その原因は、米文化の方が小麦文化に比べて平和志向的であること、に求められるのではなかろうか。
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(続く)
太田述正ブログは移転しました 。
www.ohtan.net
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