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太田述正コラム#6663(2013.12.29)
<映画評論41:永遠の0(その3)>(2014.4.15公開)
この映画で、主題歌を作詞・作曲した桑田佳祐(青学経営学部除籍)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%91%E7%94%B0%E4%BD%B3%E7%A5%90
は、「家族のために必ず生きて帰る。これこそが愛ではないか。」そう信じ、「待っている人がいる」ことそのものが生きる力となり、生きる原動力となっている。そんな主人公宮部久蔵の姿に非常に大きな感動をいただきました。この映画の中に流れている「平和への祈り」のようなメッセージを、私なりに音楽と言う形を通じて、多くの方々に伝わっていくためのお手伝いが、少しでも出来ればと思っております。」(A・42頁)と言っていますが、少なくとも脚本は読んだはずの彼が、完全にこの映画のテーマを勘違いしているわけです。
なぜなら、宮部は、自分の意思で「生きて帰」らなかったからです。
また、ヨーコ・オノ(学習院大学哲学科中退、米サラ・ローレンス大中退)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%8E%E3%83%BB%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%B3
に至っては、「「死にたくない」と叫びながら、愛する人のために死んでいった若者たち。いつの時代も自らの命と引き換えに誰かの命を奪うことなど、決してあってはならないことです。」(A・40)と一方的に自分ないしは自分とジョン・レノンの信条を書いています。
脚本すら読んでいないか、或いは執筆依頼者の簡単な映画紹介文だけを見て、こう書いたと思われます。
いずれにせよ、監督・脚本の山崎が、桑田やオノに映画のテーマを的確に伝えなかったか、誤って伝えた、ということでしょう。
(オノに関しては、山崎が、その人選を含め、一切関わっていなかった可能性も皆無ではありませんが、その場合でも、このパンフレット制作者に山崎からテーマが正しく伝わっていなかったわけです。)
ちょっと信じ難い思いがしているのは、こんな山崎が監督・脚本を担当し、あんな岡田が主演した映画が、人間主義についての感動的な名画たりえたことです。
結局のところ、それは原作の力なのでしょう。
脚本は、原作の忠実な要約だったのですから・・。
ただし、山崎の名誉のために、原作者の百田の以下の言を引用しておきましょう。
「今まで、映画化やテレビドラマ化のオファーはいただいていたのですが、そのたびに脚本を読んで、「何か違うな」と思い、全部お断りしていたんです。そのうちに、もし映画化するなら自分で脚本を書くしかないのではないかと考えたこともあったのですが、約600ページの長編を2時間少々の尺にまとめるのは不可能だなと思い、自分でも匙を投げたんです(笑)。自分でできないなら、誰にもできないと思っていたのですが、山崎監督でとオファーをいただいて、『ALWAYS 三丁目の夕日』は大好きな作品なので期待できると思いつつも、シナリオはどうなるかな、と。そして山崎監督と林民夫さんが書かれた脚本を読んだら、「本当に素晴らしい! こんな脚本ができるのか!」と思い、ぜひ映画化してもらいたいと伝えました。」(A・44頁)
脚本の共同執筆者である林民夫
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E6%B0%91%E5%A4%AB
が卒業した日本映画学校は、現在は日本映画大学になっていますが、林の在籍当時は、3年制の専門学校であったところ、その「理念に、「人間とは何と面白いものかを知り、これを問う己は一体何かと反問し、個々の人間観察をなし遂げる為に」とあるように、一貫して人間探求のカリキュラムを組」んだ学校であった、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E6%B0%91%E5%A4%AB
ことから、林は、大学の教養課程修了程度の綜合的教養は身に付けることができたと考えられ、その点で、山崎貴の出た阿佐ヶ谷美術専門学校
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B4%8E%E8%B2%B4 前掲
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E4%BD%90%E3%83%B6%E8%B0%B7%E7%BE%8E%E8%A1%93%E5%B0%82%E9%96%80%E5%AD%A6%E6%A0%A1
とは一味違っていた可能性があります。
しかも、林は、「懸命に生きた人間の思いが、たとえその時は報われなかったとしても、時代を超えて繋がっていく。原作を読んだ時、そんな部分に共感した」(A・27)と、この原作のテーマを的確に捉えているかに見えることも言っています。
こういったことから、私には、「本当に素晴らしい・・・脚本」ができたのは林の功績のように思われるのですが、それはそれとして、脚本が林と山崎の共同執筆ということになっている以上は、山崎も、この「脚本」の「素晴らし」さにそれなりの貢献をしたと言わざるをえないのです。
3 終わりに代えて
私が、この映画、ひいては原作について、最も残念に思ったのは、そのテーマが、日本人の間での人間主義的な戦争の遂行という戦術的にしてささやかなレベルにとどまっていて、あの戦争の目的そのものが、日本人を含むところの全人類のための対赤露抑止という人間主義的なものであったという戦略的にして雄大なテーマではなかった点です。
もとより、これは原作者の百田の非ではないのであって、日本の戦後の政治学者や歴史学者が、百田らを啓発するような著作を生み出してこなかった怠慢こそが責められなければならないのです。
(完)
<映画評論41:永遠の0(その3)>(2014.4.15公開)
この映画で、主題歌を作詞・作曲した桑田佳祐(青学経営学部除籍)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%91%E7%94%B0%E4%BD%B3%E7%A5%90
は、「家族のために必ず生きて帰る。これこそが愛ではないか。」そう信じ、「待っている人がいる」ことそのものが生きる力となり、生きる原動力となっている。そんな主人公宮部久蔵の姿に非常に大きな感動をいただきました。この映画の中に流れている「平和への祈り」のようなメッセージを、私なりに音楽と言う形を通じて、多くの方々に伝わっていくためのお手伝いが、少しでも出来ればと思っております。」(A・42頁)と言っていますが、少なくとも脚本は読んだはずの彼が、完全にこの映画のテーマを勘違いしているわけです。
なぜなら、宮部は、自分の意思で「生きて帰」らなかったからです。
また、ヨーコ・オノ(学習院大学哲学科中退、米サラ・ローレンス大中退)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%8E%E3%83%BB%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%B3
に至っては、「「死にたくない」と叫びながら、愛する人のために死んでいった若者たち。いつの時代も自らの命と引き換えに誰かの命を奪うことなど、決してあってはならないことです。」(A・40)と一方的に自分ないしは自分とジョン・レノンの信条を書いています。
脚本すら読んでいないか、或いは執筆依頼者の簡単な映画紹介文だけを見て、こう書いたと思われます。
いずれにせよ、監督・脚本の山崎が、桑田やオノに映画のテーマを的確に伝えなかったか、誤って伝えた、ということでしょう。
(オノに関しては、山崎が、その人選を含め、一切関わっていなかった可能性も皆無ではありませんが、その場合でも、このパンフレット制作者に山崎からテーマが正しく伝わっていなかったわけです。)
ちょっと信じ難い思いがしているのは、こんな山崎が監督・脚本を担当し、あんな岡田が主演した映画が、人間主義についての感動的な名画たりえたことです。
結局のところ、それは原作の力なのでしょう。
脚本は、原作の忠実な要約だったのですから・・。
ただし、山崎の名誉のために、原作者の百田の以下の言を引用しておきましょう。
「今まで、映画化やテレビドラマ化のオファーはいただいていたのですが、そのたびに脚本を読んで、「何か違うな」と思い、全部お断りしていたんです。そのうちに、もし映画化するなら自分で脚本を書くしかないのではないかと考えたこともあったのですが、約600ページの長編を2時間少々の尺にまとめるのは不可能だなと思い、自分でも匙を投げたんです(笑)。自分でできないなら、誰にもできないと思っていたのですが、山崎監督でとオファーをいただいて、『ALWAYS 三丁目の夕日』は大好きな作品なので期待できると思いつつも、シナリオはどうなるかな、と。そして山崎監督と林民夫さんが書かれた脚本を読んだら、「本当に素晴らしい! こんな脚本ができるのか!」と思い、ぜひ映画化してもらいたいと伝えました。」(A・44頁)
脚本の共同執筆者である林民夫
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E6%B0%91%E5%A4%AB
が卒業した日本映画学校は、現在は日本映画大学になっていますが、林の在籍当時は、3年制の専門学校であったところ、その「理念に、「人間とは何と面白いものかを知り、これを問う己は一体何かと反問し、個々の人間観察をなし遂げる為に」とあるように、一貫して人間探求のカリキュラムを組」んだ学校であった、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E6%B0%91%E5%A4%AB
ことから、林は、大学の教養課程修了程度の綜合的教養は身に付けることができたと考えられ、その点で、山崎貴の出た阿佐ヶ谷美術専門学校
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B4%8E%E8%B2%B4 前掲
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E4%BD%90%E3%83%B6%E8%B0%B7%E7%BE%8E%E8%A1%93%E5%B0%82%E9%96%80%E5%AD%A6%E6%A0%A1
とは一味違っていた可能性があります。
しかも、林は、「懸命に生きた人間の思いが、たとえその時は報われなかったとしても、時代を超えて繋がっていく。原作を読んだ時、そんな部分に共感した」(A・27)と、この原作のテーマを的確に捉えているかに見えることも言っています。
こういったことから、私には、「本当に素晴らしい・・・脚本」ができたのは林の功績のように思われるのですが、それはそれとして、脚本が林と山崎の共同執筆ということになっている以上は、山崎も、この「脚本」の「素晴らし」さにそれなりの貢献をしたと言わざるをえないのです。
3 終わりに代えて
私が、この映画、ひいては原作について、最も残念に思ったのは、そのテーマが、日本人の間での人間主義的な戦争の遂行という戦術的にしてささやかなレベルにとどまっていて、あの戦争の目的そのものが、日本人を含むところの全人類のための対赤露抑止という人間主義的なものであったという戦略的にして雄大なテーマではなかった点です。
もとより、これは原作者の百田の非ではないのであって、日本の戦後の政治学者や歴史学者が、百田らを啓発するような著作を生み出してこなかった怠慢こそが責められなければならないのです。
(完)
太田述正ブログは移転しました 。
www.ohtan.net
www.ohtan.net/blog/