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太田述正コラム#6641(2013.12.18)
<個人主義の起源(その2)>(2014.4.4公開)
「1620年に新世界に向けて航海した102人のピルグリム・ファーザーズ達は、共産主義者たるべきことを運命付けられていた。
彼らがプリマス会社(Plymouth company)<(注1)>と結んだ協定に記された諸条件の下で、彼らは、最初の7年の「間、交易(trade)、交換(traffick)、輸送(trucking)、労働(working)、漁労、その他の手段によって得られた全利益及び便益…は、汝の(ye)共通の備蓄(comone stock)として維持される」「その後、諸純益(proceeds)はイギリスの投資家達と分かち合われる」と、共産的(communally)に働くことになっていたからだ。
(注1)「バージニア会社(・・・Virginia Company)は、北アメリカ海岸に植民地を建設する目的で、1606年に<イギリス>王ジェームズ1世に勅許された1組の<イギリス>のジョイント・ストック・カンパニー (joint stock company) ・勅許会社である。2つの会社があり、「ロンドンのバージニア会社」(ロンドン会社)と「プリマスのバージニア会社」(プリマス会社)と呼ばれ、同一の勅許だが異なる領域で運営された。領域が重なる所もあった。・・・プリマス会社は北緯38度線から同45度線の間(おおまかにチェサピーク湾上流側から現在の<米加>国境の間)の植民地建設を・・・認められていた。1607年8月13日、プリマス会社は現在のメイン州にあるケネベック川沿いにポパム植民地を建設した。しかし、約1年間でこの植民地は放棄され、プリマス会社は活動を停止した。プリマス会社の事業を引き継いだマーチャント・アドベンチャラーズの資金により、メイフラワー号に乗って到着した宗教的集団ピルグリム・ファーザーズが、現在のニューイングランドで1620年に恒久的なプリマス植民地を建設した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%8B%E3%82%A2%E4%BC%9A%E7%A4%BE
この取極め(arrangement)は、英国教会の迫害という共通の経験によって団結していたところの、移民達のうちの固く結合された中核にとってはとりわけ歓迎された。
彼らの首席スポークスマンのロバート・クッシュマン(Robert Cushman)<(注2)>は、個人的貪欲を不信心(ungodly)であると非難し、財産が「共有されて(in common)」保有(hold)された初期キリスト教諸社会のより良き範例を指摘した。
(注2)1578〜1625年。オランダに、更には北米に植民した清教徒達(puritans=separatists(英国教の分離派))の本国での首席連絡員(Chief Agent)を、1617年からその死まで務めた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Cushman
その年の末に到着した彼らは、最初の厳しい冬の大部分を船の上で過ごしたが、春になって、メイフラワー号で猛威を振るった疾病をものともせずに生き残った53人の頑健な連中が草臥れた身体を引きずって上陸したところ、共通の福利(common good)のための農業の大変な諸仕事は、彼のやる気を殆んど掻き立てなかった。
「労働と役務に関する能力と適性を最も持っていた若い男達は、他人の奥さん達や子供達のために無償労働を行うために自分達の時間と力を使うことに不平を言った」と、将来総督(governor)となる、ウィリアム・ブラッドフォード(William Bradford)<(注3)>は記している。
(注3)1590?〜1657?年。5度にわたってプリマス植民地(Plymouth Colony)で、都合約30年間総督を務めた。
http://en.wikipedia.org/wiki/William_Bradford_%28Plymouth_Colony_governor%29
繰り返しの鞭打ちだけが彼らをして仕事を続けさせた。・・・
「他者達のための福利、富、利潤」を追求せず、利己的な「食道楽(belly-god)」を崇拝するいかなる者をも非難するクッシュマンのような人々と、良く働く者がか弱き者よりもたくさん食物をもらえないことを不正義と考える人々、との間に溝ができた。
これは、会社に投資したロンドンとプリマス(Plymouth)<(注4)>の商人達が予期しなかったことだった。
(注4)「<イギリス>南西部のデヴォン州にある港湾都市・・・。17世紀、ピューリタン(清教徒)を含んだピルグリム・ファーザーズの一団、102名はこの港からメイフラワー号に乗船し、新大陸に向かった。その到着地点となった海岸部が、現在の<米国>東部マサチューセッツ州の都市プリマスに当たる(彼らが出発地と同じ名を名づけたとよく言われるが、実際は<勅許会社の名称に由来する>同名の地に偶然到着したのである)。現在はイギリス国内有数の港湾都市、およびイギリス海軍の重要な軍港として知られている。・・・1588年にはスペインの無敵艦隊と会戦するためイギリス海軍がこの地から出航し<ている。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%9E%E3%82%B9
彼らは、この入植地が、英国で売るための塩漬け鱈とビーバーの毛皮の交易拠点として運営されることを期待していた。
<他方、>宗教的自由への欲求こそ、この分離派聖教徒達の小さな一団をして、太平洋を横切って船で運ばれた契約を受け容れるべく駆動させたものだった。
両者とも、土地の所有が何か重要なものである、とは考えなかった。
諍いに悩まされ、飢餓に脅かされつつ、この植民地は1623年の春まで何とか凌いでいった。
新しい種まきの季節がやってきた時、<入植者達の>過半は、会社の諸規則を変えることを決めた。
「彼らは、「会社は、<入植者>各位に穀類(corn)を自分のためだけに栽培させることとし、<入植者>各位に信頼を寄せなければならない」と総督を説得した」、とブラッドフォードは、彼がものしたプリマス植民地史の中で記した。
「こうして、各家族は、「家族の員数に比例して」<それぞれが>一片の土地を割り当てられたのだ」と。
この決定は、「全員を極めて働き者にしたおかげで大いなる成功を収めた」とブラッドフォードは付け加えている。
些末なことのいくつかについてこそ、それまでに議論され解決されたことはあったが、アメリカの地において行われた最初の民主主義的な主要な決定が個人所有権に好意的なものであったことは、その後何世紀にもわたって木魂するところの、象徴的な意味を持った。
共産的所有に関する、この失敗した実験は、ブラッドフォードに、それが人間の本性に反するものであるとの確信を抱かせた。
しかし、彼は、この新しい体制がコストを伴っていることを発見した。
「こうして、今では、一人として牛とその全頭を飼うための広い地所がなければ生きていけないと考えない者はおらず、みんなが自分達の家畜を殖やそうと懸命だ」と悲しげに陳述している。
「そのため、彼らはすぐに湾の全域にわたって散らばってしまい、彼らが肩を寄せ合って今まで暮らしていた町は閑散としてしまった」と。」(C)
→リンクレイターは、この最初期の英領北米植民地が共産主義体制でもって出発したことが、会社側と入植者側双方の意思によるように書いていますが、後者の多数決でこの体制が簡単に改められ、その際の会社側との交渉や会社側の了解について一切言及がないことから、もともと、この体制は入植者側の発意で採用された可能性が大です。
農業に係る共産主義体制としては、カトリシズムに立脚する修道院、(カトリシズム/プロテスタンティズムの突然変異であるマルクス主義の一環であるとともに、)正教の突然変異とも言うべきスターリニズムに立脚するコルホーズ/人民公社、そして、世俗化したユダヤ教に基づくキブツ、が有名ですが、英国教会分離派(清教)に立脚するプリマス植民地の体制もこれに加えなければなりますまい。
どうやら、ユダヤ教/キリスト教には生来的に共産主義への志向性がある、と見てよさそうです。
とまれ、アングロサクソン文明が徹頭徹尾、個人主義文明であることからすれば、米国の出発点、より正確には北部米国の出発点が共産主義体制であったということは、米国のアングロサクソン文明と欧州文明とのキメラ性を改めて裏付けるものである、と言えるのではないでしょうか。(太田)
(続く)
<個人主義の起源(その2)>(2014.4.4公開)
「1620年に新世界に向けて航海した102人のピルグリム・ファーザーズ達は、共産主義者たるべきことを運命付けられていた。
彼らがプリマス会社(Plymouth company)<(注1)>と結んだ協定に記された諸条件の下で、彼らは、最初の7年の「間、交易(trade)、交換(traffick)、輸送(trucking)、労働(working)、漁労、その他の手段によって得られた全利益及び便益…は、汝の(ye)共通の備蓄(comone stock)として維持される」「その後、諸純益(proceeds)はイギリスの投資家達と分かち合われる」と、共産的(communally)に働くことになっていたからだ。
(注1)「バージニア会社(・・・Virginia Company)は、北アメリカ海岸に植民地を建設する目的で、1606年に<イギリス>王ジェームズ1世に勅許された1組の<イギリス>のジョイント・ストック・カンパニー (joint stock company) ・勅許会社である。2つの会社があり、「ロンドンのバージニア会社」(ロンドン会社)と「プリマスのバージニア会社」(プリマス会社)と呼ばれ、同一の勅許だが異なる領域で運営された。領域が重なる所もあった。・・・プリマス会社は北緯38度線から同45度線の間(おおまかにチェサピーク湾上流側から現在の<米加>国境の間)の植民地建設を・・・認められていた。1607年8月13日、プリマス会社は現在のメイン州にあるケネベック川沿いにポパム植民地を建設した。しかし、約1年間でこの植民地は放棄され、プリマス会社は活動を停止した。プリマス会社の事業を引き継いだマーチャント・アドベンチャラーズの資金により、メイフラワー号に乗って到着した宗教的集団ピルグリム・ファーザーズが、現在のニューイングランドで1620年に恒久的なプリマス植民地を建設した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%8B%E3%82%A2%E4%BC%9A%E7%A4%BE
この取極め(arrangement)は、英国教会の迫害という共通の経験によって団結していたところの、移民達のうちの固く結合された中核にとってはとりわけ歓迎された。
彼らの首席スポークスマンのロバート・クッシュマン(Robert Cushman)<(注2)>は、個人的貪欲を不信心(ungodly)であると非難し、財産が「共有されて(in common)」保有(hold)された初期キリスト教諸社会のより良き範例を指摘した。
(注2)1578〜1625年。オランダに、更には北米に植民した清教徒達(puritans=separatists(英国教の分離派))の本国での首席連絡員(Chief Agent)を、1617年からその死まで務めた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Cushman
その年の末に到着した彼らは、最初の厳しい冬の大部分を船の上で過ごしたが、春になって、メイフラワー号で猛威を振るった疾病をものともせずに生き残った53人の頑健な連中が草臥れた身体を引きずって上陸したところ、共通の福利(common good)のための農業の大変な諸仕事は、彼のやる気を殆んど掻き立てなかった。
「労働と役務に関する能力と適性を最も持っていた若い男達は、他人の奥さん達や子供達のために無償労働を行うために自分達の時間と力を使うことに不平を言った」と、将来総督(governor)となる、ウィリアム・ブラッドフォード(William Bradford)<(注3)>は記している。
(注3)1590?〜1657?年。5度にわたってプリマス植民地(Plymouth Colony)で、都合約30年間総督を務めた。
http://en.wikipedia.org/wiki/William_Bradford_%28Plymouth_Colony_governor%29
繰り返しの鞭打ちだけが彼らをして仕事を続けさせた。・・・
「他者達のための福利、富、利潤」を追求せず、利己的な「食道楽(belly-god)」を崇拝するいかなる者をも非難するクッシュマンのような人々と、良く働く者がか弱き者よりもたくさん食物をもらえないことを不正義と考える人々、との間に溝ができた。
これは、会社に投資したロンドンとプリマス(Plymouth)<(注4)>の商人達が予期しなかったことだった。
(注4)「<イギリス>南西部のデヴォン州にある港湾都市・・・。17世紀、ピューリタン(清教徒)を含んだピルグリム・ファーザーズの一団、102名はこの港からメイフラワー号に乗船し、新大陸に向かった。その到着地点となった海岸部が、現在の<米国>東部マサチューセッツ州の都市プリマスに当たる(彼らが出発地と同じ名を名づけたとよく言われるが、実際は<勅許会社の名称に由来する>同名の地に偶然到着したのである)。現在はイギリス国内有数の港湾都市、およびイギリス海軍の重要な軍港として知られている。・・・1588年にはスペインの無敵艦隊と会戦するためイギリス海軍がこの地から出航し<ている。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%9E%E3%82%B9
彼らは、この入植地が、英国で売るための塩漬け鱈とビーバーの毛皮の交易拠点として運営されることを期待していた。
<他方、>宗教的自由への欲求こそ、この分離派聖教徒達の小さな一団をして、太平洋を横切って船で運ばれた契約を受け容れるべく駆動させたものだった。
両者とも、土地の所有が何か重要なものである、とは考えなかった。
諍いに悩まされ、飢餓に脅かされつつ、この植民地は1623年の春まで何とか凌いでいった。
新しい種まきの季節がやってきた時、<入植者達の>過半は、会社の諸規則を変えることを決めた。
「彼らは、「会社は、<入植者>各位に穀類(corn)を自分のためだけに栽培させることとし、<入植者>各位に信頼を寄せなければならない」と総督を説得した」、とブラッドフォードは、彼がものしたプリマス植民地史の中で記した。
「こうして、各家族は、「家族の員数に比例して」<それぞれが>一片の土地を割り当てられたのだ」と。
この決定は、「全員を極めて働き者にしたおかげで大いなる成功を収めた」とブラッドフォードは付け加えている。
些末なことのいくつかについてこそ、それまでに議論され解決されたことはあったが、アメリカの地において行われた最初の民主主義的な主要な決定が個人所有権に好意的なものであったことは、その後何世紀にもわたって木魂するところの、象徴的な意味を持った。
共産的所有に関する、この失敗した実験は、ブラッドフォードに、それが人間の本性に反するものであるとの確信を抱かせた。
しかし、彼は、この新しい体制がコストを伴っていることを発見した。
「こうして、今では、一人として牛とその全頭を飼うための広い地所がなければ生きていけないと考えない者はおらず、みんなが自分達の家畜を殖やそうと懸命だ」と悲しげに陳述している。
「そのため、彼らはすぐに湾の全域にわたって散らばってしまい、彼らが肩を寄せ合って今まで暮らしていた町は閑散としてしまった」と。」(C)
→リンクレイターは、この最初期の英領北米植民地が共産主義体制でもって出発したことが、会社側と入植者側双方の意思によるように書いていますが、後者の多数決でこの体制が簡単に改められ、その際の会社側との交渉や会社側の了解について一切言及がないことから、もともと、この体制は入植者側の発意で採用された可能性が大です。
農業に係る共産主義体制としては、カトリシズムに立脚する修道院、(カトリシズム/プロテスタンティズムの突然変異であるマルクス主義の一環であるとともに、)正教の突然変異とも言うべきスターリニズムに立脚するコルホーズ/人民公社、そして、世俗化したユダヤ教に基づくキブツ、が有名ですが、英国教会分離派(清教)に立脚するプリマス植民地の体制もこれに加えなければなりますまい。
どうやら、ユダヤ教/キリスト教には生来的に共産主義への志向性がある、と見てよさそうです。
とまれ、アングロサクソン文明が徹頭徹尾、個人主義文明であることからすれば、米国の出発点、より正確には北部米国の出発点が共産主義体制であったということは、米国のアングロサクソン文明と欧州文明とのキメラ性を改めて裏付けるものである、と言えるのではないでしょうか。(太田)
(続く)
太田述正ブログは移転しました 。
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