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太田述正コラム#6533(2013.10.25)
<大英帝国の崩壊と英諜報機関(その7)>(2014.2.9公開)

 「これは非常に重要なことなのだが、ウォルトンは、<植民地からの>撤退の文脈と仕方の双方を形成するのに果たした冷戦の役割を強調する。
 ソ連が新しく独立した諸国を同盟諸国や衛星諸国に変えようとすることを畏れて、英国は、これを阻害する諸構造や諸人物(personalities)を確立(entrench)しようとした。

→英国が慌ただしく諸植民地の独立に取り組まざるをえなかったことも、それをソ連との冷戦下でやらざるをえなかったことも、米国を焚き付けて、共に日本帝国を敗北へと追いやったことの論理的帰結です。(太田)

 新国家群の機微に触れる諸通信が、しばしば、英国が供給し、読んだところの、エニグマ(Enigma)<(注19)(コラム#3287、3290、3408、4876、5772)>をベースとした暗号機群経由で送信されたことが彼らを助けた、とウォルトンは指摘する。」(F)

 (注19)「第二次世界大戦のときにナチス・ドイツが用いていたことで有名なローター式暗号機のこと」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%8B%E3%82%B0%E3%83%9E_(%E6%9A%97%E5%8F%B7%E6%A9%9F)

→英国の暗号機ではなく、自分が解読済みである旧敵国ドイツの暗号機を旧諸植民地に与えるとは、あこぎなことをやったものです。(太田)

 「しかし、<英諜報機関の>諸失敗は、銘記されるされるべきだ。
 パレスティナ、ビルマ、そしてアデンは、優しい(benign)<独立への>移行の明白なる例外だ。
 <とにかく、諸植民地の独立を>次々に手掛けて(campaigns)は行ったけれど、諸教訓が学ばれることはなかった。
 諜報諸技術と対叛乱諸技術は、<対象植民地ごとに、>毎回、再発明されたように見える。
 例えば、拷問や、略式裁判による処刑においてさえ、比較的人道的なアプローチを確保する諸試みは、しばしば、上級の諸人物の黙認の下に甚だしく覆された。
 このことが、今日における暴露と<英国政府が敗訴した>裁判諸事例をもたらした。
 しかも、米国は、反植民地的スタンスをとることが想像されたというのに、しばしば、そのスタンスを、都合の悪い場合には放棄し、ガイアナ(Guyana)<(注20)>やチャゴス諸島(Chagos Islands)<(注21)>において、体制変革や土地の奪取という、準帝国主義的(sub-imperial)諸戦術を<英国に>押し付けた。

 (注20)「・・・<植民地下の>1953年の初の総選挙でインド・・・系のチェディ・ジェーガン<[Cheddi Jagan]>率いる人民進歩党(PPP)が勝利した。PPPはレーニン主義、スターリン主義を標榜しており、ガイアナの社会主義化を恐れた<英国>は、1953年・・・に4隻の軍艦と1600名の兵士を派遣し、ガイアナ憲法を停止させ、暫定政府による統治が開始された。・・・1955年にアフリカ系弁護士のフォーブス・バーナム<[Forbes Burnham]>が人民国民会議(PNC)を結成し、人民進歩党から分裂した。PPPは急進主義的な政策を掲げ、インド・・・系の支持を受けていたのに対し、PNCは穏健主義的であり、黒人系の支持を得ていた。1961年・・・の選挙ではPPPが勝利し、・・・ジェーガンが首相となった。ジェーガンは社会主義的な政策<を>さらに推し進め、砂糖産業の統制化を図ろうとしていたが、砂糖産業の労働者の多くを占めていたアフリカ系の反発を受けた。1962年・・・には・・・暴動が全国に広がった。政府はこれを制圧することができず、<英国>政府の力を借りざるを得なくなった。1964年・・・の選挙でPNCが白人の利益を代表する統一勢力UPPと連立し、政権を掌握した。・・・首相に就任したバーナムはボーキサイトを国有化し、電気、通信、流通などのインフラも国家に統制されるようになった。1966年・・・に・・・独立し、バーナムが引き続き首相となった。社会主義の建設を目指したバーナムは、1970年・・・に共和制移行を宣言し、ガイアナ協同共和国と国名を変更した。アーサー・チュンが初代大統領となったが、<英>連邦には残留した。独立後も黒人勢力を代表する人民国民会議と、インド・・・系でマルクス・レーニン主義[で南アメリカ原住民の支持を受けているところ]の人民進歩党との間で人種的対立が続き、政情不安が続いた。・・・1980年には、大統領の権力の強化を盛り込んだ新憲法が制定され、バーナムが大統領となったが、経済の悪化は収まらなかった。1985年にバーナムが死亡し、副大統領のヒュー・デズモンド・ホイト・・・が大統領に就任した。ホイトはバーナム以来の社会主義政策を転換し、新自由主義政策を採り入れた。1992年・・・には・・・総選挙で人民進歩党が勝利し、人民進歩党の代表であった植民地時代の元首相、ジェーガンが大統領に就任した。ジェーガンは新自由主義政策を継承した・・・。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%8A
 この間、一貫して米国務省と米CIAは、英国政府とともに、秘密裏にバーナムへの資金提供と助言を続けた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Guyana ([]内も)
 (注21)インド洋にある諸島。英領インド洋地域の一部。「諸島には18世紀から住民が定住し、20世紀半ばには2,000人ほどとなっていた。住民は1967年から1971年にかけてモーリシャスへ移住させられている。1971年からは<米>国との条約が締結され、ディエゴガルシア島に軍事基地が建設された。2007年現在では、ディエゴガルシア島以外の島は無人である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%B4%E3%82%B9%E8%AB%B8%E5%B3%B6

→ガイアナでは、エンクルマもどきのマルクス主義者のジェーガンと、ネールもどきの(当時の英労働党的)社会主義者のバーナムとが、不毛の権力闘争を繰り返した、ということです。
 それにしても、植民地化に伴い、いわば3級市民化した南アメリカ原住民をそっちのけにして、ジェーガンは(南アメリカ原住民の支持も受けていたようですが、)大英帝国内を自由意思で移住して来た、いわば2級市民たるインド系人の支持を受け、バーナムはかつて奴隷としてアフリカから連れてこられたところの、やはりいわば2級市民たる黒人の支持を受けていたというのですから、英国の帝国主義の功罪を改めて考えさせられますね。(太田)

 <その間、>冷戦が常に幅を利かせていた(ruled)が、英国は冷戦を止めることなどできなかった。
 ウォルトンは、弁護士なので、いくつかの出来事・・例えば、イーデンが致命的に米国と袂を分かつこととなったところの、スエズ危機・・についての法的含意<に触れている箇所>がとりわけ興味深い。」(D)
 
 「当然のことながら、<諜報機関の活動が>常にうまく行ったわけではない。
 ビルマでは、現在の親民主主義的指導者たるアウンサン・スーチー(Aung San Suu Kyi)の父親のアウンサン将軍の暗殺以降、ひどい失敗に帰した。
 ザンビア(Zambia)、タンザニア(Tanzania)、そしてウガンダ(Uganda)では、何年か本来のコースをはずれる一方で、マライにおける対立、パレスティナとキプロスにおけるテロ、そしてとりわけ、ケニヤにおける蜂起の際には、印パ分離やフランスのアルジェリアにおける内戦の規模ではなかったけれど、深刻な暴力が伴った。
 実際、独立過程は、しばしば、コントロールされたところの束縛からの解放(controlled disengagement)というよりは、とりわけ、急いでなされた場合、管理された解体(managed disintegration)であった、とウォルトンは主張する。
 当時の多くの人々にとって明白であったこのことは、現在の私にとってそれほど大きな驚きであるとは言えない。
 <というのも、>1950年代のある時点で、MI5には、アフリカ全体でわずかに3人の担当官しかいなかった<からだ>。
 <だからこそ、>マライで学んだ諸教訓はケニヤでは生かされなかったのだし、(ロンドンに所在する<植民地、あるいは元植民地における>反対諸集団から発せられる諜報から抽出された)一般的に正確なMI5による諸評価は、余りにもしばしば、現地ないしは大英帝国の他の<植民地>地域から登用された保安要員達によって無視されたのだし、その一方で、新独立国の保安諸機関は、(シンガポールにおけるように)余りにもしばしば正統な諸反対派に対して用いら(deployさ)れたのだ。・・・
 それは、「英国の非植民地化の歴史は、欺騙の物語だ」というウォルトンの結論にも関係してくる。」(F)

→ヒトもカネも圧倒的に不足していたので、欺騙の限りを尽くすよりなかった、ということですね。
 同様、ヒトもカネも圧倒的に不足していたところの、戦中の日本軍の諜報要員達による植民地解放運動の扇動は、ほぼ欺騙なしで極めて成功裏になされたことと対比すべきでしょう。(太田)

(続く)

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