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太田述正コラム#6459(2013.9.18)
<啓蒙主義と人間主義(その8)>(2014.1.3公開)

 「パグデンの啓蒙主義物語のバージョンの一つの問題は、その創始期から始めるとして、一体誰が「啓蒙された人々(enlightened)」の「クラブ」に属しているものとして数に入れるかを決めることが困難な点にある。
 結局のところ、18世紀のより劇的なクライマックス群は、フランス革命の最中のロベスピエール(Robespierre)による恐怖の支配(reign of terror)だ。
 革命に関する啓蒙された理論家達と哲学者達によれば、社会は、新しく、徳に立脚したものにならなければいけなかった。
 <しかし、>その結果は、ご存知のように、殺人的狂乱だった。
 パグデン氏は、もちろん、ロベスピエールのジャコバン派(Jacobins)を彼のクラブから追い出すことに熱心だ。
 では、理性の要請(imperative)によって導かれていることになっている、マルクス主義者その他の革命家達はどうだ?
 パグデン氏は、彼らも除外しているが、どうして除外したかを理解するのは困難というものだ。
 マルクスが述べたことのかなり大きな部分は、ヘーゲルによって多かれ少なかれ述べられていたが、パグデン氏は、ヘーゲルを適切な敬意をもって扱っているからだ。
 スターリン、毛沢東、そしてポルポトに関して理想社会を想像したルソーその他の思想家を非難するのはばかげている。
 そうではなくて、もし、あなたがパグデン氏もそうであるように見えるところの、特定の諸理念(ideas)を賞揚(elevate)し、それ以外のものを誹謗(denigrate)すると決意しているのであれば、知的諸潮流と政治哲学間の微妙な因果関係をたどることが大切だ。
 パグデン氏は、カントとその他1〜2名の啓蒙された思想家達が、若干の人種群が他の群よりも劣っていると判断しており、人種問題に関して非健全であったことを認める。
 パグデン氏は、言い訳的に、アフリカ人の奴隷化は、さほど、「何世紀にもわたる絶対的にして専制的(despotic)な君主制とカトリック教会の知的暴政(tyranny)が欧州人達に対して行ったことと違わない」ことを我々に思い出させる。
 しかし、そうだとすれば、我々は、明らかに、<パグデン氏の主張する通り、>神学的偏見の頸城から脱して啓蒙された智慧に到達した我々は幸運だった、と思わなければなるまい。
 我々は、<中世において、>(ヒュームを読む前のカントのように、)専制的まどろみに陥ってしまっていたように見える。
 ホッブス、ロック、そしてスピノザのような初期の人物群によって目を覚まされるまで・・。
 <パグデン氏は、>その後、このクラブは、我々の文明を正しい方向へと転換する事業に、ついに乗り出した<、と言う>のだ。
 <しかし、>このような瞠目すべきコースの変換が<欧州において>なされた原因は一体何だったのだろうかを、我々は<パグデン氏によって>教えられてはいない。
 パグデン氏の啓蒙主義の描き方(take)は、あたかも知的諸進歩が哲学者達が宗教的権威に疑問を呈した時に初めて始まったかのような、世俗的伝説(legendry)の中に閉じ込められてしまっている。
 ディドロ(Diderot)<(注35)(コラム#496、516、1257、1259、3329、5238)>、ダランベール(d'Alembert)<(注36)(コラム#1257、3724)>、ヴォルテールその他の啓蒙主義の指導的思想家達は、「宗教的理解のどれかの種類が知の真の源泉であることが証明されるかもしれないとの観念の評判を効果的に貶めた」とパグデン氏は言う。

 (注35)Denis Diderot。1713〜84年。「フランスの哲学者、[美術評論家、]作家。・・・ダランベールとともに百科全書を編纂した、いわゆる百科全書派の中心人物・・・。・・・思想的には、初期の理神論から唯物論、無神論に進んでいる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%8B%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%89%E3%83%AD
http://en.wikipedia.org/wiki/Denis_Diderot ([]内)
 (注36)Jean Le Rond d'Alembert。1717〜83年。「フランスの哲学者、数学者、[機械技師、]物理学者[、音楽理論家]。・・・ダランベール力学の大きな功績は、ニュートン力学を肯定しながらも、そのなかにみられた神の影響を払拭した点にある。また・・・「ダランベールの原理」を明らかにしている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%AB
http://en.wikipedia.org/wiki/Jean_le_Rond_d'Alembert ([]内)

 <これに対し、私は、>我らが欧米文明は、全くもって瞠目すべきものだが、その理由は、それが、18世紀よりはるかに前に、自由な探求(inquiry)と知的厳密さ(rigor)の諸可能性を探索(explore)する点で、世界で唯一の文化であったところに存する<、と考える>。
 <すなわち、>欧米<文明>を<他の諸文明と>異なったものとしたところの、複雑な始まりは、中世へと遡るだけでなく、実際のところ、若干の側面においては、ギリシャ、ローマ、そしてキリスト教それ自体にも遡るのだ。

→「自由な探求と知的厳密さの諸可能性を探索」したのは、欧州の中世(?!)やギリシャ、ローマだけではありません。
 例えば、日本でも、17世紀における、ライプニッツやニュートンとの同時代人たる関孝和・・「世界で最も早い時期に行列式・終結式・・・の概念を提案した」、「方程式の求根の際に導関数に相当するものを計算した」、「ヤコブ・ベルヌーイより1年早くベルヌーイ数を発見していた」、「円周率・・・<を>小数第11位まで算出した」・・の登場以降、隆盛を極めた和算(コラム#1480、1482、1617、5883)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E5%AD%9D%E5%92%8C
は、「宣教師が伝えたヨーロッパ数学の影響が有るとする見解」もないわけではない
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E7%AE%97
けれど、どうやら、実用一点張りにとどまった支那の数学を参照しつつ、日本独自でそれを理論的に飛躍的に発展させたもののよう
http://en.wikipedia.org/wiki/Seki_Takakazu (及びコラム#5883)
だからです。
 算額奉納競争(コラム#1480)から窺えるように、和算の研究が当時の広範な一般の日本人の間で遊びとして流行っていた
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%97%E9%A1%8D
ことも特筆されるべきでしょう。
 従って、啓蒙主義を「自由な探求と知的厳密さの諸可能性<の>探索」とするこの書評子の認識は不適切です。(太田)

(続く)

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