太田述正コラム#6344(2013.7.22)
<日支戦争をどう見るか(その3)>(2013.11.6公開)

→「経済的自給自足に向けての猛運動」たって、援蒋ルートの遮断により、米英からの支援物資が入らなくなったことのコインの半面に過ぎないと言うべきでしょうし、「難民危機によって拍車をかけられた社会福祉」については、本に具体的説明が出てくるのかもしれないけれど、具体的説明抜きじゃ眉唾ですねえ。
 なお、「蒋介石が・・・かくも長く、一人ぼっちで抵抗を持続し、支那の切り盛りを続けたのはどうして」かについては、(米国が脱落を許さなかったということもあるけれど、)後で私見を述べます。(太田)
 
 (4)蒋介石

 「蒋介石による諸決定は、しばしば誤っており、時々大災厄的に誤っており、たびたび、河南省(Henan)の堤防の破壊や日本軍の目の前で南京を無防備にして残した、といった事例における、数百万人の運命に対しての無感覚な無視によって特徴づけられている。
→この二つの事例だけでも、蒋介石に社会福祉の観念があったとは考えにくいのですが・・。(太田)

 彼の戦争の戦略的遂行についても欠陥があった。
 蒋介石のお好みであったところの、在来型戦術と、彼の敵の毛沢東が、北方において、そして後には他の場所において、かなりの効果をもってやってのけたところの、ゲリラ戦術の類と、を織り交ぜた方が賢明だったのではなかろうか。
 <ところが、>国民党は、これを長沙の防衛<(注4)>の時にしかやらなかったように見えるのだ。」(A)

 (注4)「第一次長沙作戦・・・とは、・・・1941年9月18日から10月6日の間に湖南省の長沙周辺で行われた日本陸軍の作戦である。1941年・・・1月、大本営と支那派遣軍は、重慶政府を転覆させ事変解決のきっかけをつくるため、夏から秋にかけての総力を挙げた一大攻勢作戦を決意していた。その主体となるのが第11軍による長沙作戦である。
 ところが、6月独ソ戦の勃発による「関特演」への兵力転用や、日米交渉の難航による南方作戦準備が問題になるにつれ、大本営や陸軍省では長沙進攻中止論が台頭してきた。しかし第11軍司令官阿南惟幾中将は大いなる熱意をもってこの作戦準備を推し進めた。それは南方や満州へ兵力が抽出される前に<支那>軍に打撃を与え、以後の自存自活を容易にするという必要性からである。そして、南方へ転用予定の兵力を使用しないこと、なるべく早期に切り上げ反転帰還する、という条件付けを受けて作戦は実行に移されることとなった。・・・
 <その結果、>日本軍は、・・・長沙<の>攻略<に成功>したが、・・・攻略後わずか4日で反転に移った。
 第11軍が長沙から反転に移ろうとするころ、警備の手薄になった宜昌には同地の奪回をめざして・・・<蒋介石軍>約15個師が押し寄せていた。・・・日本軍は・・・最後の手段として化学兵器(毒ガス)による攻撃を実行した。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E9%95%B7%E6%B2%99%E4%BD%9C%E6%88%A6
 「第二次長沙作戦・・・とは、・・・1941年12月24日から1942年1月16日まで、湖南省の長沙周辺で行われた日本陸軍の作戦である。太平洋戦争の開戦により始まった香港攻略作戦(第23軍)を支援する目的で第11軍が実施した。広東方面へ南下した<蒋介石>軍を牽制するのが当初の目的だったが、長沙攻略戦へと発展した。しかし、日本軍は長沙周辺で頑強な抵抗を受け、その後反転して引きあげた・・・
 <蒋介石政権としては、>これは、太平洋戦争の開戦以来、敗北が続いていた連合国陣営の中で唯一日本軍を撃退した「勝利」として一定の政治的な宣伝効果があった。しかしこの戦いの結果は、香港防衛戦にも太平洋方面の戦いにも戦略的な影響を与えることはなかった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E9%95%B7%E6%B2%99%E4%BD%9C%E6%88%A6

→長沙作戦の際の蒋介石軍によるゲリラ戦術なるものが、少なくとも日本語ウィキペディアには登場しないのですが・・。
 いずれにせよ、ビルマの援蒋ルートがまだ閉鎖されていなかった時点での、長沙作戦の際の蒋介石軍の健闘ぶりと、閉鎖後の1944年の打通作戦の際の蒋介石軍の潰滅的敗北ぶりから浮かび上がってくるのは、米英の蒋介石政府への軍事物資の支援が前者の頃にはどれだけ巨大なものであったかです。(前出)(太田)

 「日本人が支那人を劣等者としてまともに相手にしないこと(disregard)は良く知られている。

→少なくとも書評子は典拠を明らかにしておらず、当時、そうであったとしても、どうしてそうなったかについても、同様、説明をしていないのは困ったものです。(太田)

 それに比べて良く知られていないのは、蒋介石が日本人を「小人の盗賊たち(dwarf bandits)」と切り捨てていたこと(dismissal)や、彼の装備不十分だが大きな兵力が日本人の軍事諸技術に対抗しうるとの誤った自信を持っていたことだ。
 蒋介石は、<日本との>休戦について真剣に考慮したことが一切ないように見えるのであり、「抗戦到底(Kangzhan daodi=抵抗戦争を最後まで)」を求め叫んだ。・・・

→これは蒋介石の異常性を示すものであり、繰り返しますが、後で私の私見を申し上げます。(太田)

 ソ連も欧米列強も支那内の戦争に関わるのを欲していなかったし、これら諸国は、カネやモノの補給にもさしたる関心を持っていなかった。

→(ソ連が、最初から蒋介石政権(と中国共産党)に軍事支援をしていた話はさておき、)先ほど述べた米英の蒋介石政権への軍事支援の話に照らしてだけでもウソこけ、と言いたくなりますね。
 それどころではないのであって、米国が、日本による対米英開戦前の1941年11月にはビルマのラングーン近郊と支那の昆明の基地にフライングタイガーズ(Flying Tigers)なる、名目上は蒋介石軍の部隊だが実態は米空軍の部隊を展開させていた(但し、日本軍との初戦闘は、太平洋戦争開始後の12月20日。)
http://en.wikipedia.org/wiki/Flying_Tigers
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%82%B9
ことはご承知の通りです。(太田)

 蒋介石の戦争努力に対して投げかけられた、当時、及びそれ以降の批判にもかかわらず、蒋介石軍が、ビルマ、マラヤ、そして東インド諸島における欧州諸国軍のように、或いはフィリピンにおける米軍のように、完全に崩壊することがなかったということは、良く考える価値がある。
 ミターは、日支双方の身の毛のよだつ諸行為(horrors)を描写する。
 この戦争に関して世界中で良く知られている一つの出来事である、日本軍による「南京大虐殺」について、ミターは、日本人による否認論を相手にしない。
 しかし、彼は、同時に、50万人を超える支那人の死亡と480万人の難民をもたらしたところの、日本軍の前進を阻止するための黄河の堤防の破壊命令を無慈悲にも蒋介石が命じた背景についても探索する。・・・

→書評子の紹介の仕方の問題なのかもしれませんが、南京事件の方は日本側の背景事情を説明せず、堤防決壊事件の方は蒋介石側の背景事情を説明する、というのは権衡がとれていません。(太田)

 日本との戦争がひどいレベルの残虐行為でもって戦われている間、蒋介石の諜報の長たる(明らかに「支那のヒムラー」であった)戴笠(Dai Li)<(注5)>は、大逆者たる疑いや共産主義者たる疑いのある何千もの支那人を殺したり拷問したりしたテロ機関を運営した。

 (注5)1897〜1946年。「中華民国の政治家・軍人(追贈で陸軍中将)。・・・1926年・・・、<蒋介石が校長の>黄埔軍官学校<に>入学し、あわせて中国国民党に加入した。・・・1931年・・・9月、満州事変・・・が起きると、蒋介石の命により・・・特務処処長(中華民族復興社=藍衣社特務処長)となっている。・・・戴笠は、親日派の軍人・政治家や、共産党・民主党派の活動家を監視・弾圧・暗殺する秘密工作を展開していく。・・・<1938>年、・・・藍衣社<等>は解散された。それに伴い、戴笠は軍事委員会調査統計局(いわゆる「軍統」)副局長に任命され、以後、軍統組織の整備に尽力する。1942年・・・には、軍統の構成員は4万から5万にまで達したとされる。また、戴笠は軍統の影響力をさらに拡大し、国民政府や国民党、国民革命軍の内部にまで浸透させていった。・・・<そして、>共産党・民主党派要人の弾圧・暗殺に加え、ハノイ滞在中の汪兆銘・・・暗殺未遂事件を起こしただけでなく、実際には日本に投降する意思がなかった唐紹儀までも、日本に利用されることを恐れて殺害するなどした。・・・さらに、南京国民政府の要人、特に周仏海の一派との連携を密にし、これを利用しようと図った。これら南京国民政府要人との接触は、対日工作であっただけでなく、これら人物たちの共産党への寝返りを防ぐ狙いもあったとされる。・・・1946年・・・3月17日、戴笠は青島から南京へ飛行機で向かった。しかし悪天候が原因で、飛行機は南京、上海のどちらにも着陸できず、徐州に向かおうとして、南京市上空で墜落し、戴は死亡した。・・・蒋介石は、「戴笠が生きていたら、台湾に撤退せずにすんだのに。」とのちに述べたといわれる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B4%E7%AC%A0

 汪兆銘もまた、李士群(Li Shiqun)<(注6)>等の、自分の保安ならず者達を持っていた。

 (注6)1905〜43年。「中華民国の政治家。南京国民政府(汪兆銘政権)の要人で、特工総部(ジェスフィールド76号)の指導者の1人として知られる。・・・上海で私立美術専科学校、私立上海大学を卒業する。続いてソ連に留学して東方勤労者共産大学を卒業した。中国国民党が北伐を開始した頃に中国共産党に加入し、上海を拠点に活動していた。
 しかし1932年・・・に国民政府当局に逮捕されると、転向を表明する。・・・<日支戦争>勃発後に南京が陥落すると、李士群は上層部の指示により南京に潜伏した。翌年夏からは、香港の日本総領事館との連携を開始し、上海で活動を開始している。1939年・・・5月、汪兆銘・・・の配下となり、<諜報機関の幹部>に任ぜられた。・・・
 1940年・・・3月、汪兆銘が南京国民政府を正式に樹立すると、李士群は、・・・12月、警政部部長に昇格した。
 <その後も様々な要職>を歴任し<、・・・1943>年1月、江蘇省長に任命された。・・・
 同年9月6日、上海憲兵隊特高課課長岡村適三の招待で出席した宴席において、李士群は毒を盛られて倒れる。9日に蘇州でそのまま死亡した。・・・軍統と周が共謀して李を毒殺したとされる。しかし、真相は諸説が囁かれている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%A3%AB%E7%BE%A4

 彼は、上海のギャングであり、上海の「76番」にあったゲシュタポのような本部は、日本の監督者達(supervisors)にとってさえ、度が過ぎていた。
 李士群は、日本の秘密警察員からあるホテルでの食事に招待され、その数日後に、その時の魚料理に盛られた毒が原因で死亡した。
 太平洋戦争(1941〜45年)中の蒋介石による日本軍への抵抗は、欧米諸国をして、それに伴ったところの、テロ作戦を見て見ぬふりをさせた。
 ミターによる説明を貫くものの一つは、蒋介石の欧米との困難な関係についてだ。
 欧米諸国は、<支那における>疑似帝国主義時代から生まれた愛顧的(patronizing)侮蔑(disdain)でもって彼を扱った。
 ミターは、蒋介石の戦時中の首都である重慶における一人の英国外交官による、1942年における、大英帝国の諸部隊の屈辱的な敗北を踏まえたところの、支那人達の<英国人達に対する>「倨傲の度合い」に対する苦情を引用している。
 まさに、目糞鼻糞を笑う事例と言えよう。」(B)
 
 「欧米において、支那の兵士達が、より優れていた日本の諸部隊に対し、白兵戦で勝利を挙げたところの、台児荘(Taierzhuang)の防衛<(注7)>について聞いた者がいるだろうか。」(C)

 (注7)「台児荘の戦い・・・とは、・・・1938年3月から4月7日までの間、山東省最南部の台児荘(台児庄とも)付近で行われた戦闘である。台児荘の攻略を企図した日本軍部隊が、<蒋介石>軍の大部隊に包囲されて撤退、徐州作戦の引き金となった。<支那>側が「抗戦以来の大勝利」を宣伝したことでも知られる。・・・
 台児庄からの後退は敗退ではなく、いずれ下がることは大本営との初めからの約束<だったが、>・・・局部的とはいえ日本軍の後退は盧溝橋事件以来初めてのもので、損害が比較的大きかったことも事実である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E5%85%90%E8%8D%98%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
 「徐州作戦とは、・・・1938年・・・4月7日から6月7日まで、江蘇省・山東省・安徽省・河南省の一帯で行われた日本陸軍と<蒋介石>軍(国民革命軍)による戦いである。日本軍は南北から進攻し、5月19日に徐州を占領したが、<支那側は、黄河決壊等で抵抗し、蒋介石>軍主力を包囲撃滅することはできなかった。・・・<しかし、支那>側の「台児荘の勝利」という誇大宣伝に・・・打撃を与えること<は>できた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%90%E5%B7%9E%E4%BC%9A%E6%88%A6

→台児荘の戦いでは、「ドイツ製15cm榴弾砲が初めて使用され、<同じくドイツ製の>ラインメタル対戦車砲も効果を発揮した」(台児荘の戦いのウィキペディア上掲)のであり、白兵戦というミターの形容は、いささか筆が滑っている感があります。(太田)

 「日本の方がより先進国であったけれど、蒋介石軍が二級であったと結論付けるのは間違っている。
 その将校のうち約30,000人はドイツ軍将官であるハンス・フォン・ゼークト(Hans von Seekt)<(コラム#2813、2876、4936、4990、4992、6268)>とアレグザンデル・フォン・ファルケンハウゼン(Alexander von Falkenhausen)<(コラム#4992、6268、6276)>によって訓練されていたし、彼らが提供した抵抗は、日本の勝利を阻止することに資したからだ。・・・
 蒋介石政権にとっての行動方針は、国際的な助けが得られるまで敗北を回避することだった。
 この助けは、真珠湾の後に、「ヴィネガー・ジョー(Vinegar Joe)」スティルウェル(Stilwell)<(注8)(コラム#2127、4087)>率いる米国人達という余り調和的でない形で与えられることになった。

 (注8)「ジョーゼフ・ウォーレン・スティルウェル(Josepf Warren Stilwell。1883〜1946年)。「<米>陸軍の軍人。第二次世界大戦中は中国雲南、北ビルマ戦線でルイス・マウントバッテンの下、対日作戦の指揮を執り援蒋ルートの確保に当たった。・・・米陸士、米参謀大学卒。・・・1942年<から支那>戦線を担当したが、この年から蒋介石は全く役に立たず、能力はあっても抗日戦に軍を使う気がないとレポートしていた。スティルウェルはビルマ・インドに拠点を移し、ビルマの援蒋ルートを遡って中国大陸に攻め入り、数百万の中国兵をアメリカの将校団が指揮することで<支那>大陸から日本を駆逐するという構想を持つようになる。その為に彼は蒋介石に対し、彼の元に<彼の>陸軍の数個師団をよこし、彼に・・・兵の訓練を任せるよう要求するのである。それにより、米式中国軍・・・が編成されている。しかし、この彼の構想は蒋介石の利害と正面から衝突し、二人の関係は悪化。最終的にスティルウェルは蒋介石にひどく嫌われて最後は<1944年10月に>解任されてしまう。蒋介石は軍隊の強化により政権への反旗の翻しを危惧した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%BB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%AB

 「<戦後、>支那と米国との間で育ったところの有毒な関係と戦時中に<支那と米国が>相互理解に失敗したこととの間には、極めて緊密な連関がある」とミターは言う。」(D)

→ローズベルト政権が、余りにも後になって(日本の降伏後に)トルーマン政権が共有するところとなるというのに、スティルウェルの蒋介石政権観を退けたことが、ローズベルト政権や戦時中のトルーマン政権による対日宥和を妨げ、あまつさえ、トルーマン政権によるソ連の対日参戦要請とその実現とによる日本の降伏とその必然的結果としての中国共産党の支那政権奪取をもたらした、と書くべきところを、ミターは何と訳の分からないことを書き散らしていることでしょうか。(太田)

(続く)