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太田述正コラム#6306(2013.7.3)
<日本文明と中性文化>(2013.10.18公開)
学士会会報の別冊であるUSEVENcol50 July2013に、大阪大学の武田佐知子教授の「邪馬台国の女王卑弥呼の謎 〜卑弥呼は男装の麗人だった?〜」が載っていて、(講演録なので整理された論文ではありませんが、)このコラムのタイトルの観点から大変面白かったので、そのさわりをご紹介し、私のコメントを付そうと思います。
なお、武田は、1948年生まれ、早大文(日本史学専攻)卒、同大博士課程を経て都立大で博士号(史学)、大阪外大助教授、教授を経て阪大教授、サントリー学芸賞受賞、という経歴です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BD%90%E7%9F%A5%E5%AD%90
2 日本文明と中性文化
<日本では、天照大神が「裳引きまつりて袴となし」(=スカートモードをズボンモードに変えて)荒くれ者の弟素戔嗚尊を迎えたり、神功皇后が三韓征伐をした際、男装をして出征したり、巴御前が男装して出陣したり、女性だけの宝塚歌劇や男性だけの歌舞伎が人気があったり、オカマが女装してTVバラエティを賑わしたりしているが、そんなことは欧米では考えられない。>(31〜32)
「しかしヨーロッパの場合は、例えばジャンヌ・ダルクが異端審問裁判を受け、魔女の烙印を押されて火あぶりになったのは、実は彼女がズボンをはいたことが問題となったからでした。宗教裁判で彼女は、「私にズボン<(注1)>をはかせたのは大天使ミカエルの預言だ」と言い張りますが、カトリック教会側は、「大天使ミカエルがそんなことを言うはずがない」と彼女を糾問しました。最後に「ここで『違う』と言ったら、明日は火あぶりだ」と言い渡された彼女は怖くなり、「間違いでした。あれは、大天使ミカエルではなかったかもしれない」と言って、その日は許されました。そして、ズボンを脱いでスカートをはきましたが、三日目に司教たちが彼女の牢獄をのぞいてみると、彼女は再びズボンをはいていました。そのため、もはや何の容赦もなく、翌日に彼女は火あぶりの刑に処されました。<(注2)>・・・・<(典拠は>『ジャンヌ・ダルク処刑裁判記録』<)>・・・
(注1)「ユーラシア大陸の放牧民は、後にハンガリー人やオスマン人によって近代ヨーロッパに伝達されることになるズボンをはいていた最初の民族であると考えられる。・・・
古代中国では騎兵だけが着用していた。紀元前307年に趙の武霊王が、北方の遊牧民族の習慣をまねする形で乗馬に適したズボン式の服装を初めて取り入れた。・・・
日本でも3世紀頃より直垂というズボンと同じ形式の着物が存在した。・・・
ヨーロッパ<では>・・・、用いるのは貴族階級に限られ、一般人にまで普及したのは16世紀以降の近世からである。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BA%E3%83%9C%E3%83%B3
(注2)この武田の指摘を完全に検証することはできなかったが、異端者を死刑に処すことができるのは、非違行為が繰り返された場合だけだ、ということ
https://en.wikipedia.org/wiki/Joan_of_Arc
なので、恐らく、武田は正しいのだろう。
ただし、ズボンが原因でジャンヌが死刑になったことが事実だとしても、それは彼女が女性だったからなのか、それとも庶民だったからなのか(ズボンの日本語ウィキペディア参照)、等一抹の疑問は残る。
<19世紀半ばには、>サンシモニスト・・・フランスの社会思想家サン=シモンが唱えた、宗教を大切にし、産業人の支配する社会を理想とする考え方を基に、門弟らが形成したサン=シモン主義を支持する者・・・たちが、完全な男女平等を訴えました。完全な男女平等の社会では、女性もズボンを許されるべきだということで、彼女達はズボンをはきました。すると、道路交通法が改正され、女性がズボンで大通を歩いてはいけないことになってしまい、女性たちが水を掛けられるなど、いろいろな弾圧に遭った例があります。」(32、43)
→日本は中性文化であったのに対し、欧州の文化は男女を峻別するものであった、ということです。(太田)
「<もう一度日本の場合に戻ろう。>
昔、日本では、男性も女性も同じ形の衣服を着ていました。・・・着物は、男性用も女性用も同じ格好です。・・・三世紀の邪馬台国の人々は、・・・『魏志倭人伝』<に言う>貫頭衣・・・<すなわち、>スカート型のワンピースを<男女ともが>着ていたという推定が成り立ちます。・・・
私は、この衣服は以後の日本人の衣服の基本型になっていったと考えます。・・・
この後の古墳時代の衣服は、埴輪像でよく見ることができますが、非常に太いズボンをはいてい<るものがある一方で、>農夫の像は・・・貫頭衣<を着ているとおぼしき姿です。>・・・
<また、私は、>8世紀の農民も、日常着としては貫頭衣を着ていた<、と考えています。>・・・」(32、35〜37)
「<さて、>中国には則天武后という大変な女傑がいますが、・・・「泰山封禅の儀」という・・・正式<の>・・・即位<式を>・・・行っています。それにもかかわらず、今、私たちは「則天皇帝」とは呼ばず、「則天武后」のままです。
なぜか。『資治通鑑』に「中国史上最大の汚点である」と書いてあるように、中国では、彼女が皇帝位に就いたことは一番抹消したい事実だったようです。それぐらい女性の皇帝は考えられないことでした。・・・
<他方、>752年・・・に行われた大仏開眼会に出席した・・・孝謙天皇・・・は女性でありながら男性と同じ・・・白い・・・衣服を着て、父親から譲られた・・・冠をかぶりました。・・・
推古天皇から始まって6人、8代の女帝が連続して出現し得たのは、私は、天皇の衣服の男女同形が大きくかかわっていたのではないか、恐らく、天皇が性を超越した存在として位置づけられていたからだろうと考えています。
→支那もまた男女峻別の文化であったというわけです。
ただし、日本の弥生人は、支那の南方の男女を峻別しない稲作民が日本列島に移住して来たものであったところ、その後、支那は、南方もまた、遊牧民が社会の上層を占めていた北方の漢人の支配を受けて、男女峻別の文化一色に染め上げられた、と考えることができそうです。
なお、弥生人が日本列島で出会うこととなった、定住的狩猟採集民たる縄文人が中性文化の民であったことも、弥生人が比較的円滑に縄文人と融合で来た理由の一つであったのではないでしょうか。
また、武田の言う弥生人の服装(貫頭衣)は、縄文人の服装を受け継いだものではないでしょうか。(太田)
ところが、これがぱたっと止まるのが810年・・・です。嵯峨天皇<(注3)>という中国かぶれの天皇がいて、儀式や衣服を全部中国風にしました。・・・そして、・・・明治天皇の前の孝明天皇まで、男性の天皇だけがそれを着ることになりました。女性の天皇の衣服は、真っ白で模様のない衣服のままに取り残されます。
(注3)786〜842.天皇:809〜823年。「818年・・・、弘仁格を発布して死刑を廃止した。中央政界における死刑の廃止は以後保元の乱まで347年間続く。・・・皇子皇女多数おり、その生活費も財政圧迫の原因となった。そこで皇族の整理を行い、多数に姓を賜り臣籍降下させた・・・。嵯峨天皇の子で源姓を賜ったものとその子孫を嵯峨源氏という。漢詩、書をよくし、三筆の一人に数えられる。・・・また、華道嵯峨御流の開祖とも伝わっている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B5%AF%E5%B3%A8%E5%A4%A9%E7%9A%87
→嵯峨天皇の弟の葛原親王の子が平姓を与えられ、その子孫が桓武平氏となった(ウィキペディア上掲)のは、兄に倣った(倣わざるをえなかった?)ものかもしれませんね。
ちなみに、嵯峨天皇のひ孫の清和天皇の子が源姓を与えられ、その子孫が清和源氏となります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87
嵯峨天皇は、死刑の廃止という縄文モード化の象徴とも言うべき画期的政策を打ち出すとともに、「仏教伝来に際し花を献じる供花に由来する・・・<日本発祥の>華道」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%AF%E9%81%93
・・コラム#6301で記したところの、仏教による芸術の提供の中で触れ忘れた!・・の祖として、仏教による芸術の提供による人々の人間主義化・・やはり縄文モード化・・の有力手段の一つの創造に貢献した
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B5%AF%E5%B3%A8%E5%BE%A1%E6%B5%81
だけでなく、その一方で、弥生モード化の布石となるところの、天皇の男性化(脱中性化)や武家の棟梁家の生誕、のきっかけまで作った、というのはまことに興味深いものがあります。(太田)
まさにこのときに女帝の出現が突然止まり、その後は、後水尾天皇の娘の明正天皇と、後桜町天皇の二人が、江戸時代に突然ぽつんぽつんと出ただけでした。そして、女帝の出現が制度的に完全に止まったのは、1889年・・・の明治憲法の発布の日です。その日に皇室典範が定められ、そこで「皇位は直系の男子が継ぐ」という規定になり、女性が皇位継承から排除されました。・・・
<振り返れば、>1873年3月20日・・・以降、・・・それまでお歯黒を付けて、女房言葉で過ごしていた・・・明治天皇は公式の場面ではすべて洋服を着て、ズボンをはくようになりました。・・・
それまでは、天皇は性を超越した存在で、衣服も男女共通した部分があった存在でしたが、天皇は「男性」性に閉じ込められてしまいました。」(41〜43)
→女性天皇はいいが女系天皇はダメだといった昨今行われている論議は一体何なんだという感を深くします。
日本で女系天皇が出現しなかったのは、歴史の偶然に過ぎなかったのではないでしょうか。
3 終わりに
服装の話なので、土地勘がないこと夥しく、あえぎあえぎ、このコラムを書きあげました。
<日本文明と中性文化>(2013.10.18公開)
学士会会報の別冊であるUSEVENcol50 July2013に、大阪大学の武田佐知子教授の「邪馬台国の女王卑弥呼の謎 〜卑弥呼は男装の麗人だった?〜」が載っていて、(講演録なので整理された論文ではありませんが、)このコラムのタイトルの観点から大変面白かったので、そのさわりをご紹介し、私のコメントを付そうと思います。
なお、武田は、1948年生まれ、早大文(日本史学専攻)卒、同大博士課程を経て都立大で博士号(史学)、大阪外大助教授、教授を経て阪大教授、サントリー学芸賞受賞、という経歴です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BD%90%E7%9F%A5%E5%AD%90
2 日本文明と中性文化
<日本では、天照大神が「裳引きまつりて袴となし」(=スカートモードをズボンモードに変えて)荒くれ者の弟素戔嗚尊を迎えたり、神功皇后が三韓征伐をした際、男装をして出征したり、巴御前が男装して出陣したり、女性だけの宝塚歌劇や男性だけの歌舞伎が人気があったり、オカマが女装してTVバラエティを賑わしたりしているが、そんなことは欧米では考えられない。>(31〜32)
「しかしヨーロッパの場合は、例えばジャンヌ・ダルクが異端審問裁判を受け、魔女の烙印を押されて火あぶりになったのは、実は彼女がズボンをはいたことが問題となったからでした。宗教裁判で彼女は、「私にズボン<(注1)>をはかせたのは大天使ミカエルの預言だ」と言い張りますが、カトリック教会側は、「大天使ミカエルがそんなことを言うはずがない」と彼女を糾問しました。最後に「ここで『違う』と言ったら、明日は火あぶりだ」と言い渡された彼女は怖くなり、「間違いでした。あれは、大天使ミカエルではなかったかもしれない」と言って、その日は許されました。そして、ズボンを脱いでスカートをはきましたが、三日目に司教たちが彼女の牢獄をのぞいてみると、彼女は再びズボンをはいていました。そのため、もはや何の容赦もなく、翌日に彼女は火あぶりの刑に処されました。<(注2)>・・・・<(典拠は>『ジャンヌ・ダルク処刑裁判記録』<)>・・・
(注1)「ユーラシア大陸の放牧民は、後にハンガリー人やオスマン人によって近代ヨーロッパに伝達されることになるズボンをはいていた最初の民族であると考えられる。・・・
古代中国では騎兵だけが着用していた。紀元前307年に趙の武霊王が、北方の遊牧民族の習慣をまねする形で乗馬に適したズボン式の服装を初めて取り入れた。・・・
日本でも3世紀頃より直垂というズボンと同じ形式の着物が存在した。・・・
ヨーロッパ<では>・・・、用いるのは貴族階級に限られ、一般人にまで普及したのは16世紀以降の近世からである。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BA%E3%83%9C%E3%83%B3
(注2)この武田の指摘を完全に検証することはできなかったが、異端者を死刑に処すことができるのは、非違行為が繰り返された場合だけだ、ということ
https://en.wikipedia.org/wiki/Joan_of_Arc
なので、恐らく、武田は正しいのだろう。
ただし、ズボンが原因でジャンヌが死刑になったことが事実だとしても、それは彼女が女性だったからなのか、それとも庶民だったからなのか(ズボンの日本語ウィキペディア参照)、等一抹の疑問は残る。
<19世紀半ばには、>サンシモニスト・・・フランスの社会思想家サン=シモンが唱えた、宗教を大切にし、産業人の支配する社会を理想とする考え方を基に、門弟らが形成したサン=シモン主義を支持する者・・・たちが、完全な男女平等を訴えました。完全な男女平等の社会では、女性もズボンを許されるべきだということで、彼女達はズボンをはきました。すると、道路交通法が改正され、女性がズボンで大通を歩いてはいけないことになってしまい、女性たちが水を掛けられるなど、いろいろな弾圧に遭った例があります。」(32、43)
→日本は中性文化であったのに対し、欧州の文化は男女を峻別するものであった、ということです。(太田)
「<もう一度日本の場合に戻ろう。>
昔、日本では、男性も女性も同じ形の衣服を着ていました。・・・着物は、男性用も女性用も同じ格好です。・・・三世紀の邪馬台国の人々は、・・・『魏志倭人伝』<に言う>貫頭衣・・・<すなわち、>スカート型のワンピースを<男女ともが>着ていたという推定が成り立ちます。・・・
私は、この衣服は以後の日本人の衣服の基本型になっていったと考えます。・・・
この後の古墳時代の衣服は、埴輪像でよく見ることができますが、非常に太いズボンをはいてい<るものがある一方で、>農夫の像は・・・貫頭衣<を着ているとおぼしき姿です。>・・・
<また、私は、>8世紀の農民も、日常着としては貫頭衣を着ていた<、と考えています。>・・・」(32、35〜37)
「<さて、>中国には則天武后という大変な女傑がいますが、・・・「泰山封禅の儀」という・・・正式<の>・・・即位<式を>・・・行っています。それにもかかわらず、今、私たちは「則天皇帝」とは呼ばず、「則天武后」のままです。
なぜか。『資治通鑑』に「中国史上最大の汚点である」と書いてあるように、中国では、彼女が皇帝位に就いたことは一番抹消したい事実だったようです。それぐらい女性の皇帝は考えられないことでした。・・・
<他方、>752年・・・に行われた大仏開眼会に出席した・・・孝謙天皇・・・は女性でありながら男性と同じ・・・白い・・・衣服を着て、父親から譲られた・・・冠をかぶりました。・・・
推古天皇から始まって6人、8代の女帝が連続して出現し得たのは、私は、天皇の衣服の男女同形が大きくかかわっていたのではないか、恐らく、天皇が性を超越した存在として位置づけられていたからだろうと考えています。
→支那もまた男女峻別の文化であったというわけです。
ただし、日本の弥生人は、支那の南方の男女を峻別しない稲作民が日本列島に移住して来たものであったところ、その後、支那は、南方もまた、遊牧民が社会の上層を占めていた北方の漢人の支配を受けて、男女峻別の文化一色に染め上げられた、と考えることができそうです。
なお、弥生人が日本列島で出会うこととなった、定住的狩猟採集民たる縄文人が中性文化の民であったことも、弥生人が比較的円滑に縄文人と融合で来た理由の一つであったのではないでしょうか。
また、武田の言う弥生人の服装(貫頭衣)は、縄文人の服装を受け継いだものではないでしょうか。(太田)
ところが、これがぱたっと止まるのが810年・・・です。嵯峨天皇<(注3)>という中国かぶれの天皇がいて、儀式や衣服を全部中国風にしました。・・・そして、・・・明治天皇の前の孝明天皇まで、男性の天皇だけがそれを着ることになりました。女性の天皇の衣服は、真っ白で模様のない衣服のままに取り残されます。
(注3)786〜842.天皇:809〜823年。「818年・・・、弘仁格を発布して死刑を廃止した。中央政界における死刑の廃止は以後保元の乱まで347年間続く。・・・皇子皇女多数おり、その生活費も財政圧迫の原因となった。そこで皇族の整理を行い、多数に姓を賜り臣籍降下させた・・・。嵯峨天皇の子で源姓を賜ったものとその子孫を嵯峨源氏という。漢詩、書をよくし、三筆の一人に数えられる。・・・また、華道嵯峨御流の開祖とも伝わっている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B5%AF%E5%B3%A8%E5%A4%A9%E7%9A%87
→嵯峨天皇の弟の葛原親王の子が平姓を与えられ、その子孫が桓武平氏となった(ウィキペディア上掲)のは、兄に倣った(倣わざるをえなかった?)ものかもしれませんね。
ちなみに、嵯峨天皇のひ孫の清和天皇の子が源姓を与えられ、その子孫が清和源氏となります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87
嵯峨天皇は、死刑の廃止という縄文モード化の象徴とも言うべき画期的政策を打ち出すとともに、「仏教伝来に際し花を献じる供花に由来する・・・<日本発祥の>華道」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%AF%E9%81%93
・・コラム#6301で記したところの、仏教による芸術の提供の中で触れ忘れた!・・の祖として、仏教による芸術の提供による人々の人間主義化・・やはり縄文モード化・・の有力手段の一つの創造に貢献した
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B5%AF%E5%B3%A8%E5%BE%A1%E6%B5%81
だけでなく、その一方で、弥生モード化の布石となるところの、天皇の男性化(脱中性化)や武家の棟梁家の生誕、のきっかけまで作った、というのはまことに興味深いものがあります。(太田)
まさにこのときに女帝の出現が突然止まり、その後は、後水尾天皇の娘の明正天皇と、後桜町天皇の二人が、江戸時代に突然ぽつんぽつんと出ただけでした。そして、女帝の出現が制度的に完全に止まったのは、1889年・・・の明治憲法の発布の日です。その日に皇室典範が定められ、そこで「皇位は直系の男子が継ぐ」という規定になり、女性が皇位継承から排除されました。・・・
<振り返れば、>1873年3月20日・・・以降、・・・それまでお歯黒を付けて、女房言葉で過ごしていた・・・明治天皇は公式の場面ではすべて洋服を着て、ズボンをはくようになりました。・・・
それまでは、天皇は性を超越した存在で、衣服も男女共通した部分があった存在でしたが、天皇は「男性」性に閉じ込められてしまいました。」(41〜43)
→女性天皇はいいが女系天皇はダメだといった昨今行われている論議は一体何なんだという感を深くします。
日本で女系天皇が出現しなかったのは、歴史の偶然に過ぎなかったのではないでしょうか。
3 終わりに
服装の話なので、土地勘がないこと夥しく、あえぎあえぎ、このコラムを書きあげました。
太田述正ブログは移転しました 。
www.ohtan.net
www.ohtan.net/blog/