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太田述正コラム#6282(2013.6.21)
<パナイ号事件(その15)>(2013.10.6公開)
「日本の海軍の大海軍主義者たち<は>増長<し、>海軍省発行『支那事変に於ける帝国海軍の行動』はこう豪語した。
・・・支那事変と並行して開催された連盟総会や「ブラッセル」における九カ国条約会議がなぜに無為に終わり、また第三国がなぜに武力干渉に乗り出しえなかったかということである。ここにおいて万人の脳裏に浮かぶものは、・・・西太平洋の制海権をにぎる我が連合艦隊の無言の勢威ではあるまいか。
→こういう文書を発出したことを「増長」と捉える笠原からは、当時の日本が自由民主主義的国家であったという視点が全く感じられません。
海軍予算の大幅増を認めてくれた衆議院(国会)、ひいては世論に対し、海軍が、我々は、かくかくしかじか、皆さんのお役に立っておりますよ、ということをいささかオーバーぎみに訴えた心中は、私には実によく分かるのですが・・。(太田)
イギリスは恐れるに足らず、という対英優越意識を背景に、海軍はイギリス権益と抵触する中国南岸の海上封鎖をさらに強化した。10月20日、海軍は第四艦隊を新編し、第三艦隊および第四艦隊をもって支那方面艦隊を編成した(初代長官は第三艦隊長官長谷川中将が兼務)。長谷川支那方面艦隊長官は、第三艦隊を中支部隊、第四艦隊を南支部隊として、第四艦隊に海州<(注33)>以南の中国沿岸の海上封鎖を命じた。・・・
(注33)現在の江蘇省北端の連雲港市。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%A3%E9%9B%B2%E6%B8%AF%E5%B8%82
のことか。
軍部は、11月20日に戦時における最高統帥機関である大本営を設置<した>・・・。・・・
11月6日に<は>日独防共協定に・・・イタリア・・・<が>参加した・・・。」(152〜154)
「日本軍は・・・11月5日、第10軍・・・を杭州湾<(注34)>から上陸させ、上海の中国軍陣地の背後を衝かせた。これによって上海防衛軍に動揺がはしり、撤退と潰走がはじまり、やがて総崩れとなった。・・・
(注34)「東シナ海に面してラッパ状に開いた湾。湾の大部分は浙江省にあるが、湾の北岸の一部は上海市に属する。上海市および浙江省嘉興市が北岸に面し、湾の奥には杭州市があり、湾の南岸には紹興市と寧波市が面する。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%AD%E5%B7%9E%E6%B9%BE
11月中旬に、日本軍は上海全域を制圧した。・・・
<しかし、>予後備兵中心の部隊ゆえの士気の低さと軍紀弛緩、それゆえの軍紀逸脱行為、不法行為の頻発の実態、そうした軍紀風紀の乱れた部隊を指揮、統率する実力と権威のない将校、指揮官としての資質と能力に劣る下士官などなど・・・中央においては拡大派であった田中新一・・・陸軍省軍務局軍事課長・・・さえ、こうした欠陥をもった上海派遣軍を南京攻略に動員するのは無理と判断し、・・・予後備兵の早期召集解除と国内帰還、将校・下士官の短期再教育の徹底を<考え>ていた・・・。・・・
蒋介石<の方は、>・・・長期持久抗戦を覚悟、11月20日に国民政府の首都を重慶に移転することを宣布、同日唐生智<(コラム#4980)>を南京防衛司令長官に内命し・・・た。・・・
<にもかかわらず、>陸軍中央部内の主導権を掌握しようとした拡大派の党派心と、南京占領=中国屈服の殊勲者という非現実的な功名心にかられた中支那方面軍、上海派遣軍、第10軍の上級指揮官たちの野心とが相乗して、南京攻略戦が強行されていったのである。・・・
日本のマスコミも、・・・南京戦報道のための大規模な報道陣を戦地に送りこみ、・・・報道合戦をくり広げた。・・・国民は、・・・日本軍の進撃ぶりに喝采を挙げ、早期南京占領を待った。
→陸軍内の「拡大派」も「中支那方面軍<の>上級指揮官たちの野心」も、はたまた、「日本のマスコミ<の>・・・報道合戦」も、全て世論を踏まえてのものであったことを忘れてはなりません。(太田)
こうし<た>・・・なかを、中支那方面軍は、掠奪、強姦、放火、虐殺とあらゆる蛮行をくりかえし、積み重ねながら、南京へ殺到していったのである。
→笠原は「蛮行」について具体的典拠を挙げていないので、額面通り受け取ってよいかどうかは定かではないものの、仮に全て事実だったとしても、前に記したように、支那の一般住民にとっては、そんなものは、軍閥や蒋介石軍の前科で慣れっこになっていたと想像されるのであって、だからこそ、奥宮海軍大尉は南京陥落後、南京内外で、(蒋介石軍に比べて相対的に規律がとれていてかつ人間主義的であったところの、)日本軍に対して協力的な一般住民にしか出会わなかった(コラム#6278)のでしょう。
もとより、南京攻略戦から始まり、爾後続くこととなる、陸軍による支那一般住民に対する「蛮行」は、(蒋介石軍による同じ類の「蛮行」同様、)申し開きができないことであり、このことについては、未来永劫、日本人は支那人に対して謝罪を続ける覚悟を持つべきでしょう。(太田)
12月1日、大本営は「中支那方面軍は、海軍と協同して敵国首都南京を攻略すべし」・・・との南京攻略を下令して、中支那方面軍の独断専行を正式に追認した。翌2日、蒋介石からトラウトマンに日本側の和平条件を認める意向を伝えたが、・・・広田外相は「犠牲を多くだしたる今日、かくのごとき軽易なる条件をもってしてはこれを容認しがたい」と述べ、近衛首相は「大体敗者としての言辞無礼なり」と強硬意見を述べた。杉山陸相は講和の促進を主張する中央部内の不拡大派の働きかけをうけていったん即時和平交渉の必要を表明したがすぐに覆し、「このたびはひとまずドイツの斡旋を断りたい」と申し出ると、近衛首相、広田外相もすぐに賛同をしめした。」(155〜156、158、160〜161、165〜166)
→海軍大臣の米内光政については、和平交渉に関して明確な発言をしなかったからこそ、引用がないのでしょうが、これだけでも、笠原の海軍「対米海軍拡張」陰謀説が吹き飛んでしまいそうですね。
とまれ、元首相と現首相が和平交渉に反対し、賛成する陸軍大臣と沈黙していた海軍大臣とを押し切ったことは、当時の日本でも政治の軍事に対する優位・・私の嫌いな言葉だが、「シビリアンコントロール」・・が機能していたことを示すものです。
そして、これまた、何度も繰り返しますが、広田と近衛は、世論を踏まえて和平交渉に反対したわけであり、当時の日本で、民主主義もまた機能していたことが分かります。
しかし、世論に追随するだけなら、政治家はいりません。
広田と近衛によって、この時、日本政府が蒋介石政権との和平交渉に入らないこととされたことが、結果から考えれば、太平洋戦争の勃発と日本人(だけをとっても、その)数百万人の死と日本の敗戦とを決定づけた以上、両名は、敗戦時にはその政治的責任をとってしかるべきでした。
もとより、政治的責任の取り方は自殺だけではありませんが、敗戦時に自殺したのが、この時両名に押し切られた杉山元と、終戦時にたまたま陸相であった阿南惟幾
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%8D%97%E6%83%9F%E5%B9%BE
であったことは見事な潔さであったのに対し、(ダメ貴族たる)近衛はGHQによって逮捕される運びとなった時になってようやく自殺し、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E6%96%87%E9%BA%BF
(ダメ外交官たる)広田に至っては、妻が先に自殺し、その後、極東裁判で死刑が宣告されて処刑されるまで生きていた
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E7%94%B0%E5%BC%98%E6%AF%85
わけであり、両名とも卑怯であり醜態を晒した、とあえて申し上げておきましょう。
(念のためですが、私は、トラウトマンに託した条件で日本は妥結すべきだったと言っているわけではありません。中ソ中立条約の解消等、赤露との訣別措置を追加的に求める等が考えられるところ、米英世論対策をも念頭に置き、ダメもとでとにかく交渉には入るべきであった、と考えています。)(太田)
(続く)
<パナイ号事件(その15)>(2013.10.6公開)
「日本の海軍の大海軍主義者たち<は>増長<し、>海軍省発行『支那事変に於ける帝国海軍の行動』はこう豪語した。
・・・支那事変と並行して開催された連盟総会や「ブラッセル」における九カ国条約会議がなぜに無為に終わり、また第三国がなぜに武力干渉に乗り出しえなかったかということである。ここにおいて万人の脳裏に浮かぶものは、・・・西太平洋の制海権をにぎる我が連合艦隊の無言の勢威ではあるまいか。
→こういう文書を発出したことを「増長」と捉える笠原からは、当時の日本が自由民主主義的国家であったという視点が全く感じられません。
海軍予算の大幅増を認めてくれた衆議院(国会)、ひいては世論に対し、海軍が、我々は、かくかくしかじか、皆さんのお役に立っておりますよ、ということをいささかオーバーぎみに訴えた心中は、私には実によく分かるのですが・・。(太田)
イギリスは恐れるに足らず、という対英優越意識を背景に、海軍はイギリス権益と抵触する中国南岸の海上封鎖をさらに強化した。10月20日、海軍は第四艦隊を新編し、第三艦隊および第四艦隊をもって支那方面艦隊を編成した(初代長官は第三艦隊長官長谷川中将が兼務)。長谷川支那方面艦隊長官は、第三艦隊を中支部隊、第四艦隊を南支部隊として、第四艦隊に海州<(注33)>以南の中国沿岸の海上封鎖を命じた。・・・
(注33)現在の江蘇省北端の連雲港市。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%A3%E9%9B%B2%E6%B8%AF%E5%B8%82
のことか。
軍部は、11月20日に戦時における最高統帥機関である大本営を設置<した>・・・。・・・
11月6日に<は>日独防共協定に・・・イタリア・・・<が>参加した・・・。」(152〜154)
「日本軍は・・・11月5日、第10軍・・・を杭州湾<(注34)>から上陸させ、上海の中国軍陣地の背後を衝かせた。これによって上海防衛軍に動揺がはしり、撤退と潰走がはじまり、やがて総崩れとなった。・・・
(注34)「東シナ海に面してラッパ状に開いた湾。湾の大部分は浙江省にあるが、湾の北岸の一部は上海市に属する。上海市および浙江省嘉興市が北岸に面し、湾の奥には杭州市があり、湾の南岸には紹興市と寧波市が面する。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%AD%E5%B7%9E%E6%B9%BE
11月中旬に、日本軍は上海全域を制圧した。・・・
<しかし、>予後備兵中心の部隊ゆえの士気の低さと軍紀弛緩、それゆえの軍紀逸脱行為、不法行為の頻発の実態、そうした軍紀風紀の乱れた部隊を指揮、統率する実力と権威のない将校、指揮官としての資質と能力に劣る下士官などなど・・・中央においては拡大派であった田中新一・・・陸軍省軍務局軍事課長・・・さえ、こうした欠陥をもった上海派遣軍を南京攻略に動員するのは無理と判断し、・・・予後備兵の早期召集解除と国内帰還、将校・下士官の短期再教育の徹底を<考え>ていた・・・。・・・
蒋介石<の方は、>・・・長期持久抗戦を覚悟、11月20日に国民政府の首都を重慶に移転することを宣布、同日唐生智<(コラム#4980)>を南京防衛司令長官に内命し・・・た。・・・
<にもかかわらず、>陸軍中央部内の主導権を掌握しようとした拡大派の党派心と、南京占領=中国屈服の殊勲者という非現実的な功名心にかられた中支那方面軍、上海派遣軍、第10軍の上級指揮官たちの野心とが相乗して、南京攻略戦が強行されていったのである。・・・
日本のマスコミも、・・・南京戦報道のための大規模な報道陣を戦地に送りこみ、・・・報道合戦をくり広げた。・・・国民は、・・・日本軍の進撃ぶりに喝采を挙げ、早期南京占領を待った。
→陸軍内の「拡大派」も「中支那方面軍<の>上級指揮官たちの野心」も、はたまた、「日本のマスコミ<の>・・・報道合戦」も、全て世論を踏まえてのものであったことを忘れてはなりません。(太田)
こうし<た>・・・なかを、中支那方面軍は、掠奪、強姦、放火、虐殺とあらゆる蛮行をくりかえし、積み重ねながら、南京へ殺到していったのである。
→笠原は「蛮行」について具体的典拠を挙げていないので、額面通り受け取ってよいかどうかは定かではないものの、仮に全て事実だったとしても、前に記したように、支那の一般住民にとっては、そんなものは、軍閥や蒋介石軍の前科で慣れっこになっていたと想像されるのであって、だからこそ、奥宮海軍大尉は南京陥落後、南京内外で、(蒋介石軍に比べて相対的に規律がとれていてかつ人間主義的であったところの、)日本軍に対して協力的な一般住民にしか出会わなかった(コラム#6278)のでしょう。
もとより、南京攻略戦から始まり、爾後続くこととなる、陸軍による支那一般住民に対する「蛮行」は、(蒋介石軍による同じ類の「蛮行」同様、)申し開きができないことであり、このことについては、未来永劫、日本人は支那人に対して謝罪を続ける覚悟を持つべきでしょう。(太田)
12月1日、大本営は「中支那方面軍は、海軍と協同して敵国首都南京を攻略すべし」・・・との南京攻略を下令して、中支那方面軍の独断専行を正式に追認した。翌2日、蒋介石からトラウトマンに日本側の和平条件を認める意向を伝えたが、・・・広田外相は「犠牲を多くだしたる今日、かくのごとき軽易なる条件をもってしてはこれを容認しがたい」と述べ、近衛首相は「大体敗者としての言辞無礼なり」と強硬意見を述べた。杉山陸相は講和の促進を主張する中央部内の不拡大派の働きかけをうけていったん即時和平交渉の必要を表明したがすぐに覆し、「このたびはひとまずドイツの斡旋を断りたい」と申し出ると、近衛首相、広田外相もすぐに賛同をしめした。」(155〜156、158、160〜161、165〜166)
→海軍大臣の米内光政については、和平交渉に関して明確な発言をしなかったからこそ、引用がないのでしょうが、これだけでも、笠原の海軍「対米海軍拡張」陰謀説が吹き飛んでしまいそうですね。
とまれ、元首相と現首相が和平交渉に反対し、賛成する陸軍大臣と沈黙していた海軍大臣とを押し切ったことは、当時の日本でも政治の軍事に対する優位・・私の嫌いな言葉だが、「シビリアンコントロール」・・が機能していたことを示すものです。
そして、これまた、何度も繰り返しますが、広田と近衛は、世論を踏まえて和平交渉に反対したわけであり、当時の日本で、民主主義もまた機能していたことが分かります。
しかし、世論に追随するだけなら、政治家はいりません。
広田と近衛によって、この時、日本政府が蒋介石政権との和平交渉に入らないこととされたことが、結果から考えれば、太平洋戦争の勃発と日本人(だけをとっても、その)数百万人の死と日本の敗戦とを決定づけた以上、両名は、敗戦時にはその政治的責任をとってしかるべきでした。
もとより、政治的責任の取り方は自殺だけではありませんが、敗戦時に自殺したのが、この時両名に押し切られた杉山元と、終戦時にたまたま陸相であった阿南惟幾
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%8D%97%E6%83%9F%E5%B9%BE
であったことは見事な潔さであったのに対し、(ダメ貴族たる)近衛はGHQによって逮捕される運びとなった時になってようやく自殺し、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E6%96%87%E9%BA%BF
(ダメ外交官たる)広田に至っては、妻が先に自殺し、その後、極東裁判で死刑が宣告されて処刑されるまで生きていた
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E7%94%B0%E5%BC%98%E6%AF%85
わけであり、両名とも卑怯であり醜態を晒した、とあえて申し上げておきましょう。
(念のためですが、私は、トラウトマンに託した条件で日本は妥結すべきだったと言っているわけではありません。中ソ中立条約の解消等、赤露との訣別措置を追加的に求める等が考えられるところ、米英世論対策をも念頭に置き、ダメもとでとにかく交渉には入るべきであった、と考えています。)(太田)
(続く)
太田述正ブログは移転しました 。
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