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太田述正コラム#6256(2013.6.8)
<近世欧州の実相(その4)>(2013.9.23公開)

 「より大きな諸軍隊を動員する増大した能力は、これらの軍隊を公開的に管理し、食わせ、給与を与えるところの、同等の増大した能力を伴わなかった。
 すなわち、欧州の統治者達が軍隊を徴兵する能力(ability)は、しばしば彼らが軍隊を効率的に管理する能力(capacity)を超えていたのだ。
 駐屯地のむさくるしく汚い諸条件は、軍隊を急速に伝染する諸疫病の繁殖地にした。
 実際、マルティネスは、この時期に欧州を荒らした諸疫病の多くは、軍隊に発したと主張する。
 だから、イタリア諸戦争(1494〜1559年)、オランダの諸叛乱(1568〜1648年)、そして30年戦争(1618〜48年)で闘った大部分の兵士達は、戦場における傷によってではなく、流行疾病と飢餓によって死んだのだ。
 組織の欠如は、別個に契約されたところの、要求の多い傭兵隊長(mercenary colonel)達によって組織された諸団<(注12)>から主として成っていた軍隊を、コントロールすることを一層困難にしていた。

 (注12)「中世においては、西欧の戦闘の主力は騎士を中心とした封建軍であったが、国王の直属軍の補強や戦争時の臨時の援軍として傭兵が利用された。傭兵となるのは初期にはノルマン人、後には王制の未発達なフランドル、スペイン、ブルゴーニュ、イタリア人などが多かった。ビザンティン帝国では主力としてフランク人、ノルマン人、アングロ・サクソン人傭兵が使われた。この時期の傭兵は敵を倒して雇用主から得る報酬だけでなく、戦場での略奪や敵有力者の誘拐身代金なども収入としていて、戦争を長引かせるヤラセ戦争も行なっていた。傭兵の雇用は契約によって成立していたので、敵味方陣営に関わらず最も高値の雇用主と契約することなども行なわれ<た>・・・。
 中世の終わりから近世にかけてイタリアの都市国家は独立性を高め、盛んに傭兵を雇った。雇われるのはシニョーレ
< http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%8B%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%AC >
と呼ばれるイタリアの小君主たちである(イタリア傭兵コンドッティエーレ
< http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%83%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AC イギリス人で傭兵隊長として活躍したのがホークウッドだ(コラム#726、741)。>)。
 近世に入ると王権が強くなり、軍隊の維持能力のある国の王は傭兵部隊を中心とした直轄軍を拡大させるようになる(フランス王国におけるスイス傭兵等)。やがて常備軍は自国の兵が中心となるが、戦争が定常的に起こる中、傭兵も大きな役割を果たした(ドイツ傭兵ランツクネヒト
< http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%84%E3%82%AF%E3%83%8D%E3%83%92%E3%83%88 >
など)。オラニエ公ウィレムが率いたスペインに対する反乱軍も、初期はほとんどがドイツ人傭兵で占められていた。
 また16世紀から18世紀に盛んになった私掠船は海の傭兵と言うことができよう。海軍が大規模に常備されるようになる以前は、海戦の主力は臨時で雇われる海賊や海運業者たちであった。
 近代になると、フランス革命により国民国家が創設されると、国民の愛国心に訴えた軍制である国民軍という発想が出てくる。国民軍は傭兵より維持費が安価で、大量動員できることや国家と国民との一体化を図ることができるなどの利点から、傭兵の重要性は低くなった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%AD%E5%85%B5

 <この本>の二番目の主要テーマは、多くの大規模な紛争の真の敗者は、それらを始めた大王侯達ではなく、農民たる村民達であり町民達であって、いかに、彼らが、たっぷりした利子付で(at a princely interest)未払いの賃金を回収しようとした、巨大で、飢えていて、疾病だらけの諸軍隊の狭間に巻き込まれたか、ということを暴露している。」(C)

 「近世の欧州の統治者達は、彼らの戦争への欲望に係る飢えが満たされることはなかったが、その誰も、自分達の巨大な常備諸軍隊を旗揚げし給養するために必要なカネを持ち合わせていなかった。
 これらの諸軍隊を食わせ支度させること、すなわち兵站は、全ての司令官達を困った立場に追い込んだ。
 <そこで、>飢えた兵士達は、田舎で掠奪し、強姦し、盗むために解き放たれた。
 大部分の軍隊は、傭兵達の雑多な寄せ集めになっていたので、民衆に対する容赦とか憐れみなどは持ち合わせていなかった。
 <こうして、>掠奪された戦利品は給与とみなされた。
 諸都市は、攻囲された後、掠奪され、あらゆる種類の残虐行為と飢餓と疾病による想像を絶する損失がそれらにもたらされた。
 戦闘への行き帰り道にあった小さい村々や町々は、裸になるまで毟り取られ、次に、惨めな軍隊がそこに掠奪するものが何も残されていないことを発見すると、<今度は>徹底的に破壊された。」(H)

 「<しかし、>我々は、異なった次元の掠奪にも一瞥をくれなければならない。
 それは、一見明白ではないが、はるかにひどい(fateful)掠奪だった。
 ほかでもない、国家(state)、統治権(lordship)、そして領土(principality)の窃盗だ。
 これは、対象範囲の広い(all-encompassing)戦利品であり、ある意味で、通常の形態の掠奪に正統性のベールをかけるものだった。
 というのも、論理学とローマ法によれば、この世の出来事において、何かに関して与えられる権利が大きくなればなるほど、より小さいものに関する権利は、より包括的な(inclusive)権利によってカバーされることから、一層当然のこととして与えられる、とされているからだ。」(D)
 
(続く)

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