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太田述正コラム#6164(2013.4.23)
<映画評論39:マリー・アントワネットの首飾り(その4)>

 (3)マリー・アントワネット

  ア 音楽家

 マリー・アントワネットの日本語ウィキペディア(前出(MA))は、外国の人物についてのものとしては、珍しくよい出来だと思います。
 彼女の「人物」の項の一番最初に音楽を持ってきた点もそうです。(注8)

 (注8)英語ウィキペディアには、そもそも「人物」の項がなく、彼女の作曲についての言及は一切ない。
http://en.wikipedia.org/wiki/Marie_Antoinette
 さすがに詳しいけれど、フランス語ウィキペディアも、英語ウィキペディアと同じ。
http://fr.wikipedia.org/wiki/Marie-Antoinette_d'Autriche

 彼女は、「ルイ16世の元に嫁いでからもハープを愛奏し<、また、>・・・歌劇のあり方などをめぐるオペラ改革の折にはグルックを擁護し、彼のオペラのパリ上演の後援もしている<ほか、>・・・作曲もし、少なくとも12曲の歌曲が現存してい」ます。(上掲)

 一番有名なのが、この曲です。
 C'est Mon Ami
http://www.youtube.com/watch?v=2pTlf03qYHg
 唐澤まゆ子歌唱、荘村清志ギター伴奏でもどうぞ。
http://www.youtube.com/watch?v=MkDdFdXotDI

 これからだけでも言えることは、マリー・アントワネットは極めて情操豊かでかつ知的能力の高い女性であったことです。

  イ 人間主義者

 「マリー・アントワネットの言葉として引かれてきた「ケーキを食べればいいじゃない」は、その夫であるルイ16世の治世下のフランスで起こった飢饉の最中に発せられたと考えられてきた<ところ、>各地でパンが不足し始めているために人々が苦しんでいると窘められて、王妃は「それならブリオッシュを食べれば良い」と返」したことになっています。
 しかし、「ルイ16世の在位中に本当の意味での飢饉が起こったことはな<く、>深刻なパン不足が起こったのは二度だけであ<って、>一度目は王が即位する直前の数週間であ<り>(1775年の4〜5月)<、>二度目は1788年で、この年はフランス革命の前年<であったところ、>前者は小麦粉戦争 (la guerre des farines) として有名な暴動につながり、フランス南部を除く地域でこの名がついた事件が起こってい<ます>が、マリー・アントワネットは当時オーストリアにいた家族にこの暴動に触れた手紙を送っており、そこで」彼女は、以下のように記しています。
 「不幸せな暮らしをしながら私たちに尽くす人々をみたならば、幸せのためにこれまで以上に身を粉にして働くのが私たちのつとめだということはごくごく当然のことです。陛下はこの真実を理解していらっしゃるように思います」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%82%92%E9%A3%9F%E3%81%B9%E3%82%8C%E3%81%B0%E3%81%84%E3%81%84%E3%81%98%E3%82%83%E3%81%AA%E3%81%84
 そもそも、彼女は、「自らのために城を建築したりもせず、宮廷内で貧困にある者のためのカンパを募ったり、子供らにおもちゃを我慢させるなどもして<おり、また、>飢饉の際に子供の宮廷費を削って寄付したり、他の貴族達から寄付金を集めるなど、国民を大事に思うとても心優しい人物で」したし、「良い母親で<も>あったよう」です。(MA)
 要するに、ケーキ云々がマリー・アントワネット自身の言葉であるなどということは、およそありえないことが明らかである(MA)だけではなく、彼女は、大いなる人間主義者であった、とさえ言えそうなのです。

  ウ 高潔性(integrity)

 これについては、以下の引用だけで十分でしょう。

 「処刑の前日、アントワネットは・・・遺書を書き残している。内容は「犯罪者にとって死刑は恥ずべきものだが、無実の罪で断頭台に送られるなら恥ずべきものではない」というものであった。・・・遺書を書き終えた彼女は、朝食についての希望を・・・聞かれると「何もいりません。全て終わりました。」と述べたと言われる。・・・その最期の言葉は、死刑執行人の足を踏んでしまった際に発した「ごめんなさいね、わざとではありませんのよ。でも靴が汚れなくてよかった」だったと伝えられる。」(MA)

  エ 見えて来るもの

 以上に加え、「アントワネットは、朝の接見を簡素化させたり、全王族の食事風景を公開することや、王妃に直接物を渡してはならないなどのベルサイユの習慣や儀式を廃止・緩和させた。しかし、誰が王妃に下着を渡すかでもめたり、廷臣の地位によって便器の形が違ったりすることが一種のステイタスであった宮廷内の人々にとっては、アントワネットが彼らが無駄だと知りながらも今まで大切にしてきた特権を奪う形になってしまい、逆に反感を買ってしまった。・・・<そして、>彼女の寵に加われなかった貴族達は、彼女とその寵臣をこぞって非難し・・・<彼らによる>流言飛語の類<の>・・・中傷がパリの民衆の憎悪をかき立てることとなった。・・・<その上、>フランス革命が勃発<すると、>・・・それまでマリー・アントワネットから多大な恩恵を受けていた貴族たちは、彼女を見捨てて亡命してしまう」(MA)ということも併せ勘案すると、そこから見えて来るのは、第一に、(既に言及したところの、)フランスの特権階級の(自殺的なまでの)矮小性であり、第二に、「<貴族達が>デュ・バリー夫人を元娼婦と非難する小冊子を作成して広め、国王の権威を・・・貶め」(前出)たことで、王室に対して憤激したであろうことはともかくとして、マリー・アントワネットに関して、貴族達が流した流言飛語の類の中傷を信じ込んでしまっていて、首飾り事件やこの事件に係る高等法院の判決を曲解してしまったところの、フランスの大衆の無知蒙昧さです。
 後者(第二)については、フランスのイギリスと比較しての後進性に由来しているのであって、例えば、フランスでは、新聞(注9)や教育(注10)の発達が遅れていたことが大きいと思われます。
 
 (注9)「イギリスでは清教徒革命や名誉革命を通じてニュース出版が発展し、日刊新聞や地方週刊新聞も出版されるようになった。18世紀<の英国>には、いろいろな新聞を読み放題のコーヒー・ハウスが登場した。裕福な商工業者<達>・・・が新聞を元に政治議論を行い、貴族のサロンと同じように論壇を形成した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E8%81%9E
 「1694<年には、> イギリスで国による新聞の特許制度・・・と検閲制度・・・が廃止され<、>・・・1734<年には、>・・・<英領北米植民地で本国>政府への批判の自由が獲得され<、>・・・1771<年には、英国>で議会報道が自由化され<たが、このような自由とはフランスの新聞は無縁だった。>」
http://www.lian.com/TANAKA/comhosei/newspaper.htm
 (注10)イギリスでは、「13世紀から15世紀にかけて・・・王様や貴族、個人の金持ちなどが直接建てたり、募金を寄付したりして、・・・全土で300もののグラマースクールができていった<が、>・・・元々グラマースクールの多くが地域の子弟、特に貧しい子を対象にして設立されたものであった」
http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~konokatu/wasada(06-1-26)
ところ、(フランスと違って、イギリスでは、)グラマースクールは国教会の成立とともに教会から切り離され、18世紀には、大部分のグラマースクールで、ラテン語に加えて、算数と英語も教えるようになっていた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Grammar_school

(続く)

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