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太田述正コラム#6034(2013.2.17)
<芸術と科学(その4)>(2013.6.4公開)

3 中間的総括

ここで連想されるのが源氏物語です。
 
 「<11世紀初頭に完成した>『源氏物語』は・・・長篇恋愛小説<であるところ、これは>・・・猥書であり、子供に読ませてはならない」という論旨の文章<が>既に室町時代や江戸時代に存在してい<た>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E
というのですから、クリムトの『ユディト』と重なり合いますよね。
 ところが、クリムトを始めとする20世紀初頭のウィーンの画家や小説家の作品、より広くとって表現主義者達の作品とは違って、日本の「『源氏物語』<は、既に、>・・・平安時代末期から鎌倉時代初期<に、>・・・『古今和歌集』などと並んで重要な教養(歌作り)の源泉として古典・聖典化してい<き、>・・・江戸時代に入ると版本による『源氏物語』の刊行が始まり、裕福な庶民にまで広く『源氏物語』が行き渡るようになってきた。」(同上)というのですから、表現主義者達の作品の欧米(ひいては世界)に与えた影響より、源氏物語が日本に与えた影響の方がはるかに大きい、と言えそうです。
 もう一つ特記すべきは、源氏物語の、(上掲引用からも窺えるところの、)本体そのもの及びその派生物を含めた綜合性です。
 20世紀初頭のウィーンの画家や小説家の作品は、せいぜい視覚的感興と文学的感興に訴える(例えば『ユディト』の場合は、物語を踏まえている)だけなのに、源氏物語は、「800首弱の和歌を含」(同上)んでおり、和歌は詠われたことから、(少なくとも昔の)読者は、本体そのものについても、聴覚も働かせながら読んできたはずです。
 これに加えて、源氏物語の派生物の豊饒さがあります。
 すなわち、「『源氏』は、文学に限らず、絵巻物(『源氏物語絵巻』他)・香道など、他分野の文化にも多大な影響を与えた」(同上)のです。
 具体的には、平安時代末期までには、源氏物語絵巻が作成され、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E%E7%B5%B5%E5%B7%BB
本体と併せて鑑賞されるようになったと考えられますし、「源氏香は、香道の楽しみ方のひとつである<ところ、そ>の成立は享保のころと考えられ、源氏物語を利用した組香であ<り>」、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%99%E9%81%93
また、「能の詞章を謡といい、題材は源氏物語や平家物語などの古典からとられることが多<く、>・・・現存する謡曲235曲の中に、「源氏物語」を題材にするものは・・・10曲・・・あり・・・また他に、「松風」は、直接「源氏物語」からとられたものでは<ない>が、「源氏物語ー須磨の巻」に基づいた詞章が多くでて<くる>」
http://homepage1.nifty.com/WAKOGENJI/nohgaku/noh-genji.html
といった具合です。
 以上から、源氏物語は、ほぼ1000年にわたって、日本の上流階層に対し、文学的、音楽的、視覚的、嗅覚的、舞踊的、演劇的感興を広範に与え続けてきた、と言えるでしょう。
 カンデルの指摘に照らせば、日本の上流階級は、少なくともほぼ1000年前から、ひょっとすると、ドーパミン 、エンドルフィン 、オキシトシン、ヴァソプレッシン、ノルエピネフリン、セロトニン、アセチルコリンはもとより、それ以外の多彩な化学物質の同時的分泌により、 「脳の中で、いくつもの異なった、かつ、しばしば相争うところの、感情的諸信号を活性化し、それらを結合して、びっくりするほど複雑かつ魅惑的な諸感情の渦を生み出す」経験を日常的に重ねる生活を送って来た、ということになりそうです。

 本居宣長が、源氏物語を重視し、この作品を貫くものを「もののあはれ」であるとしたのは、以上のようなことを直観的に見抜いたからだ、と思うのです。
 私は、現在、「もののあはれ」とは、より活性化した・・「より高次元の」と換言してもいいでしょう・・平常心であり、「もののあはれ」が分かる人間こそ人間主義(じんかんしゅぎ)者である、そして、「もののあはれ」が分かる者の多い指導階層の影響を直接的間接的に受けることもあって、日本人の大宗が人間主義者なのである、と考えるに至っています。
 (日本人一般に関しては、親と子の密着した子育て方式や神道の影響が人間主義の維持にとってより基本的であった、と思いますが・・。)
 興味深いことに、和辻哲郎は、彼の『日本精神史研究』(1926年)の中で、宣長の「「物のあはれ」・・・とは、それ自身に、限りなく純化され浄化されようとする傾向を持った、無限性の感情である。すなわち我々のうちにあって我々を根源に帰らせようとする根源自身の働きの一つである。」
http://www.geocities.jp/aya_a_group_of_reseachers/web_report.htm
としつつ、「「平安朝は何人も知るごとく、意力の不足の著しい時代<であり、この>意力の不足<に由来する>官能享楽主義・・・唯美主義・・・快楽主義<の刻印を帯びた、いわば>中途半端<な>永遠の根源への思慕<が、>「物のあはれ」なる言葉<であるところ、>・・・本居宣長は「物のあはれ」を文芸一般の本質とするに当たって、右のごとき特性を十分に洗い去ることをしなかった。従って彼は人性の奥底に「女々しきはかなさ」をさえも見いだすに至った。」と、「もののあはれ」論を持ち上げた後退けています。
 しかし、官能享楽主義、唯美主義、快楽主義を貶めるなど、和辻の若気の至り・・『日本精神史研究』を上梓したのは37歳の時ですから決して若くはありませんが・・以外の何物でもなく、『人間の学としての倫理学』(1934年)のその8年後の上梓によって、(明確な形ではないけれど、)彼は、自らこの過ちを克服した、と思いたいところです。

 (本日は、私の64歳の誕生日です。「人間主義」論を含め、思えば遠くまで来たものかな、といささか感慨を覚えたところです。)

(続く)

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