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太田述正コラム#6018(2013.2.9)
<エリザベス1世の時代(その5)>(2013.5.27公開)
(5)総括
「ウィリアム・アレンを16世紀のオサマ・ビンラディン、そしてローマのイギリス単科大学をパキスタンのテロリスト訓練所(training-camp)と見做したいとの誘惑にかられる。
法王によって祝福された、若き<イギリス人>カトリック僧侶達・・彼らは、ひどい死に向かっていることを自覚していた・・は、自分達の唯一の武器は精神的なものであったにもかかわらず、さしずめ、その時代における自爆テロリストということになろうか。
<そして、>ウォルシンガムのテロ対抗者達(counter-terrorists)は、拷問を使うことで通常の法的手続きを迂回する熱心さにおいて、現代の対応物に似通っている。
<ただし、>彼らの後継者達とは違って、彼らは<ドローンを使った、或いはオサマ・ビンラディンに対してなされたような、重罪を犯した者の>標的暗殺(targeted assassination)は決して行わなかった。」(B)
→アングロサクソンは、既に16世紀後半から、海の向こうからの宗教原理主義による脅威に晒されていた、ということです。
ですから、アングロサクソンにとっては、その後の、カトリシズムによる脅威のマークIIとも言う要素もあるアイルランド人テロリストの脅威はもちろん、(カトリシズムの変形物たる、ナショナリズムや共産主義やファシズムといった)欧州の民主主義独裁イデオロギーによる脅威にせよ、中東/アジアのイスラム教原理主義による脅威にせよ、とりたてて目新しいものではなかった、ということになりそうです。
なお、標的暗殺を行わない、という点では、イギリス及び英国、更には、現在の(私が言うところの、カナダ、豪州、ニュージーランドを含んだ)拡大英国は全く変わっていない(コラム#5965)ところ、対テロ戦争において、標的暗殺を日常的に行っている米国は、この点でもやはり、出来損ないのアングロサクソンである、と言えそうです。(太田)
「電話の盗聴やスパイ航空機といったテクノロジーを別にすれば、MI5とMI6が彼らのエリザベス期の先祖達に教えることは殆んどないことだろう。
符号(code)、暗号(cypher=cipher)、二重や三重スパイ、秘密の受け渡し場所、見えないインク、挑発目的の手先、そして、拷問や<重罪を起こそうとしている者の>暗殺でさえ、現在同様、エリザベス期の秘密機関は行った。」(F)
「アルフォードは、彼の導入部と結論部において、エリザベス期のイギリスは、何人かの歴史家が理論づけしてきたような世界初の警察国家などではなかったことを力説する。
しかし、1500年代のイギリスは、間違いなく近代国家への途上にあり、アルフォードのこの本の多くの登場人物達は、国家安全保障の名の下に怪しげな諸行為をしでかした。
例えば、ウォルシンガムとフェリップスは、バビントン策謀を暴こうと苦心し、メアリー・スチュアートからの手紙を改竄することによって、彼女を大逆罪で有罪にするに足る証拠を確保しようとした。」(A)
「<もっとも、>彼らは、エリザベスを王座に就け続けることはできたかもしれないが、この監視者達は、最終的には彼女を裏切った。
この物語には最終的な赦し難き不忠の一ひねりがあったようであり、この偉大なる女王が死に近付きつつあった最中に、彼女自身のスパイ達が彼女を生き長らえさせることに注力するよりも、彼女の後継者たる、スコットランドのジェームズ6世の<イギリスのジェームズ1世としての即位への>道を円滑なものにするために働いていることが見て取れた。」(G)
3 終わりに
16世紀は、イギリス(アングロサクソン)と欧州の宗教的/イデオロギー的対立という、その後の、地理的意味での欧州ひいては世界、を規定する構造が確立した時期でした。
そうなったことについては、ヘンリー8世(1491〜1547。国王:1509〜47年)の、男子たる後継者が欲しいという、ある意味では個人的な執念が引き金になったわけです。
http://en.wikipedia.org/wiki/Henry_VIII_of_England
ヘンリーについては、心気症ないし境界性パーソナリティ障害持ちであって、凡庸な知力しかなかったとさんざんな言われようをしています(ウィキペディア上掲)(注15)が、これは、精神障害持ちが、政治において結果として大きな業績を残した、例外的事例であると言えるでしょう。
(注15)日本語ウィキペディアの「ヘンリーはイングランド王室史上最高のインテリであるとされ<ている>」という記述
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC8%E4%B8%96_(%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B)
は、典拠が付けられていないが、理解に苦しむ。即刻訂正されるべきだろう。
ただ、ヘンリーには、臣民達の心情を掴み取る高い感受性があったと思われ、だからこそ、彼は、個人的な執念を、カトリック教会との決別という形で成就しようとしたのだし、その結果樹立された英国教は、臣民達の心を捕え、現在に至るまでその地位をイギリスにおいて維持してくることができたのです。
彼の高い感受性を裏付けるのが、彼が即位の直後に、妻となったアラゴンのキャサリンに捧げたとされる、彼自身が作詞作曲した陽気な歌曲です。
http://www.youtube.com/watch?v=P0H7NRTv85c (←ぜひ聴いてみてください。)
この作品は、イギリス国内のみならず、当時は外国であったスコットランドでも一種の大衆歌謡として盛んに歌われることとなり、欧州大陸でさえ人気を博したのですからね。
http://en.wikipedia.org/wiki/Pastime_with_good_company
ヘンリーの娘のエリザベスは、この父親の女性遍歴と残忍さ・・彼女の母親のアン・ブーリンも処刑された・・のせいで、男性不信に陥ったと考えられており、生涯独身を通しましたが、この作品は大好きだったといいます。(ヘンリー、この作品、それぞれの英語ウィキペディア上掲による。)
そして、エリザベスは、父親によって幕が切って落とされた欧州との宗教的/イデオロギー的対立を、卓越した廷臣達によって支えられ、諜報力と軍事力を巧みに駆使して乗り切った、ということです。
しかし、そんなイギリスも、欧州の宗教的/イデオロギー的動向と無縁でいることはできませんでした。
16世紀に、既に欧州では、カトリックとプロテスタント・・要するに、反法王権力であり、実態はカトリックと大差なく、しかもカトリックよりも更に宗教原理主義的だった・・の血で血を洗う抗争が始まっていたわけですが、17世紀に入ると、この抗争がエスカレートし、そのとばっちりで、イギリス内にも、英国教(の良く言えば寛容主義、悪く言えば折衷主義に飽き足らず、そ)の浄化を叫ぶ宗教原理主義的な清教徒の力が増して行き、このこともあって、やがてイギリス内戦が始まり、チャールズ1世イギリス国王の処刑にまで行き着いてしまうのです。
しかし、このイギリス史における逸脱期は、王政復古によって終わり、再び、イギリスと大陸との宗教的/イデオロギー的対立の構造が確立し、現在に至っているわけです。
(完)
<エリザベス1世の時代(その5)>(2013.5.27公開)
(5)総括
「ウィリアム・アレンを16世紀のオサマ・ビンラディン、そしてローマのイギリス単科大学をパキスタンのテロリスト訓練所(training-camp)と見做したいとの誘惑にかられる。
法王によって祝福された、若き<イギリス人>カトリック僧侶達・・彼らは、ひどい死に向かっていることを自覚していた・・は、自分達の唯一の武器は精神的なものであったにもかかわらず、さしずめ、その時代における自爆テロリストということになろうか。
<そして、>ウォルシンガムのテロ対抗者達(counter-terrorists)は、拷問を使うことで通常の法的手続きを迂回する熱心さにおいて、現代の対応物に似通っている。
<ただし、>彼らの後継者達とは違って、彼らは<ドローンを使った、或いはオサマ・ビンラディンに対してなされたような、重罪を犯した者の>標的暗殺(targeted assassination)は決して行わなかった。」(B)
→アングロサクソンは、既に16世紀後半から、海の向こうからの宗教原理主義による脅威に晒されていた、ということです。
ですから、アングロサクソンにとっては、その後の、カトリシズムによる脅威のマークIIとも言う要素もあるアイルランド人テロリストの脅威はもちろん、(カトリシズムの変形物たる、ナショナリズムや共産主義やファシズムといった)欧州の民主主義独裁イデオロギーによる脅威にせよ、中東/アジアのイスラム教原理主義による脅威にせよ、とりたてて目新しいものではなかった、ということになりそうです。
なお、標的暗殺を行わない、という点では、イギリス及び英国、更には、現在の(私が言うところの、カナダ、豪州、ニュージーランドを含んだ)拡大英国は全く変わっていない(コラム#5965)ところ、対テロ戦争において、標的暗殺を日常的に行っている米国は、この点でもやはり、出来損ないのアングロサクソンである、と言えそうです。(太田)
「電話の盗聴やスパイ航空機といったテクノロジーを別にすれば、MI5とMI6が彼らのエリザベス期の先祖達に教えることは殆んどないことだろう。
符号(code)、暗号(cypher=cipher)、二重や三重スパイ、秘密の受け渡し場所、見えないインク、挑発目的の手先、そして、拷問や<重罪を起こそうとしている者の>暗殺でさえ、現在同様、エリザベス期の秘密機関は行った。」(F)
「アルフォードは、彼の導入部と結論部において、エリザベス期のイギリスは、何人かの歴史家が理論づけしてきたような世界初の警察国家などではなかったことを力説する。
しかし、1500年代のイギリスは、間違いなく近代国家への途上にあり、アルフォードのこの本の多くの登場人物達は、国家安全保障の名の下に怪しげな諸行為をしでかした。
例えば、ウォルシンガムとフェリップスは、バビントン策謀を暴こうと苦心し、メアリー・スチュアートからの手紙を改竄することによって、彼女を大逆罪で有罪にするに足る証拠を確保しようとした。」(A)
「<もっとも、>彼らは、エリザベスを王座に就け続けることはできたかもしれないが、この監視者達は、最終的には彼女を裏切った。
この物語には最終的な赦し難き不忠の一ひねりがあったようであり、この偉大なる女王が死に近付きつつあった最中に、彼女自身のスパイ達が彼女を生き長らえさせることに注力するよりも、彼女の後継者たる、スコットランドのジェームズ6世の<イギリスのジェームズ1世としての即位への>道を円滑なものにするために働いていることが見て取れた。」(G)
3 終わりに
16世紀は、イギリス(アングロサクソン)と欧州の宗教的/イデオロギー的対立という、その後の、地理的意味での欧州ひいては世界、を規定する構造が確立した時期でした。
そうなったことについては、ヘンリー8世(1491〜1547。国王:1509〜47年)の、男子たる後継者が欲しいという、ある意味では個人的な執念が引き金になったわけです。
http://en.wikipedia.org/wiki/Henry_VIII_of_England
ヘンリーについては、心気症ないし境界性パーソナリティ障害持ちであって、凡庸な知力しかなかったとさんざんな言われようをしています(ウィキペディア上掲)(注15)が、これは、精神障害持ちが、政治において結果として大きな業績を残した、例外的事例であると言えるでしょう。
(注15)日本語ウィキペディアの「ヘンリーはイングランド王室史上最高のインテリであるとされ<ている>」という記述
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC8%E4%B8%96_(%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B)
は、典拠が付けられていないが、理解に苦しむ。即刻訂正されるべきだろう。
ただ、ヘンリーには、臣民達の心情を掴み取る高い感受性があったと思われ、だからこそ、彼は、個人的な執念を、カトリック教会との決別という形で成就しようとしたのだし、その結果樹立された英国教は、臣民達の心を捕え、現在に至るまでその地位をイギリスにおいて維持してくることができたのです。
彼の高い感受性を裏付けるのが、彼が即位の直後に、妻となったアラゴンのキャサリンに捧げたとされる、彼自身が作詞作曲した陽気な歌曲です。
http://www.youtube.com/watch?v=P0H7NRTv85c (←ぜひ聴いてみてください。)
この作品は、イギリス国内のみならず、当時は外国であったスコットランドでも一種の大衆歌謡として盛んに歌われることとなり、欧州大陸でさえ人気を博したのですからね。
http://en.wikipedia.org/wiki/Pastime_with_good_company
ヘンリーの娘のエリザベスは、この父親の女性遍歴と残忍さ・・彼女の母親のアン・ブーリンも処刑された・・のせいで、男性不信に陥ったと考えられており、生涯独身を通しましたが、この作品は大好きだったといいます。(ヘンリー、この作品、それぞれの英語ウィキペディア上掲による。)
そして、エリザベスは、父親によって幕が切って落とされた欧州との宗教的/イデオロギー的対立を、卓越した廷臣達によって支えられ、諜報力と軍事力を巧みに駆使して乗り切った、ということです。
しかし、そんなイギリスも、欧州の宗教的/イデオロギー的動向と無縁でいることはできませんでした。
16世紀に、既に欧州では、カトリックとプロテスタント・・要するに、反法王権力であり、実態はカトリックと大差なく、しかもカトリックよりも更に宗教原理主義的だった・・の血で血を洗う抗争が始まっていたわけですが、17世紀に入ると、この抗争がエスカレートし、そのとばっちりで、イギリス内にも、英国教(の良く言えば寛容主義、悪く言えば折衷主義に飽き足らず、そ)の浄化を叫ぶ宗教原理主義的な清教徒の力が増して行き、このこともあって、やがてイギリス内戦が始まり、チャールズ1世イギリス国王の処刑にまで行き着いてしまうのです。
しかし、このイギリス史における逸脱期は、王政復古によって終わり、再び、イギリスと大陸との宗教的/イデオロギー的対立の構造が確立し、現在に至っているわけです。
(完)
太田述正ブログは移転しました 。
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