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太田述正コラム#6008(2013.2.4)
<米国前史(その9)>(2013.5.22公開)
ウ インディアン
「同様、腑に落ちないのは、副題で約束されていたところの、「文明の衝突」についての議論が殆んどなされないことだ。
東海岸における元からの住民達について、良く練られた紹介がなされた後、彼らは、舞台外の顔の見えない脅威としてを除き、物語から殆んど消え去ってしまう。
(ルイス・ラムール(Louis L’Amour)に目を向けさせつつ(channeling)、ベイリンは、彼らについて、二度、「掠奪的(marauding)インディアン達」と<いう言葉で>言及する。)
確かに、彼は、イギリス人達は、原住民達を恐れ、不信を抱いていたことを明記している。
しかし、イギリス人達は、彼らを、フランス人とスペイン人に対する<自分達の>同盟者群に熱心にしようとしたし、彼らと交易することで山ほど金を儲けたし、土地を巡って彼らと恒常的に諍いもした。
双方が、絶え間なく互いに関わり、このような相互関係が、アフリカ人達同様、原住民達をアメリカ社会の創造に関わる参加者にしたのだ。
ペクオット戦争が、1634年に始まり、ニューイングランドを5年間にわたって揺るがしたことが、一つの例だ。
この紛争は、(減少しつつあった毛皮交易の最後の諸利潤であった)カネ、(この地域における最も生産力のある土壌を持ったコネチカット川渓谷という)土地、を巡る単純明快な闘争だった。
この強力なペクオット族は、この領域の多くを占拠していたが、オランダ人との長期にわたる交易パートナーであり、マサチューセッツにおいて、他のインディアン諸集団とイギリス人諸植民地との同盟に対して戦った。
そして、イギリス・インディアン同盟側が勝利し、ペクオット族の多くを虐殺し、残りを奴隷として西インド諸島に向けて船で送り出した。
不思議なことに、ベイリンは、この文明間衝突を、アンチノミアニズム(Antinomianism)<(注18)>・・市民的権威や宗教的権威の重要性を否定し、信仰だけが救済を保証するとする異端・・を巡るピューリタン達同士の戦いの中の一挿話として扱う。」(D)
(注18)ピューリタン急進派のクエーカーが信奉した。「神の啓示を受け無償の恩恵によってキリストの霊を体験し再生した者は人間の心の内に目に見えない「神の律法」を持つのであるから、それを基準とすればよく、もはや外的な法制度としての律法に拘束されることはない、すなわち心の中にある神の律法のみを基準とした考え方。」
http://www.nmt.ne.jp/~cosmos99/kuefure.htm
「この本の全てが学識の強靭さに裏打ちされているとはいえ、そのアメリカ原住民についての議論には、研究対象の焦点がインディアン関係ではなく欧州からの諸移民であるとはいえ、不満が残る。
問題の多くは、何十年も前まで遡るのだが、このシリーズを『英領北米における集住』と呼んだ決定に始まるところの、言葉の不幸な諸選択に関わるものだ。
「アメリカ人達」と題した最初の章で、ベイリンは、英国人達がそこに集住するより前にこの大陸には人がいなかったと考えているわけではないことをはっきりさせている。
しかし、この章では、この地におけるインディアンの存在を最小化するような形で様々なことが書き綴られている。
土着諸コミュニティは「現代の人口統計学的諸水準に照らせば数少なかった」と。
「完全に定住的であった者はいなかった。」なぜなら、「大部分の村には、季節的にしか人がいなかった」からだ、と。
しかも、「大部分の人々は、自分の「本拠(home)」たる村々に春と夏の数か月しかおらず、その時でさえ、沿岸や河畔の漁場に向かって小集団で時々彷徨い出ていた」と。
若干の場所と時において、これらの<記述の>幾ばくかは間違っていないが、どうして「本拠」に鍵括弧をつけるのか、また、その町々が、しばしば、何エーカーものトウモロコシ、豆、そしてスクォッシュ(squash)畑で取り囲まれ、その町々に先祖達の墓々が存在していたところの人々について記す際に、どうして「彷徨い出」る的な言葉を用いるのだろうか。・・・
サスケハノック族(Susquehannocks)<(注19)という言葉>が相対的に頻繁に『野蛮な年月』に出て来るというのに、この本は、17世紀中頃の数十年において、スウェーデン人、オランダ人、メリーランド人、そしてヴァージニア人達を、北米大陸の「より不明瞭でより簡単にどこがどこかを言えない…内陸部」における、原住民同士の諸戦争や原住民の交易路、に関わるところのより重要な諸戦略のために、相互に対立するように、<このインディアンの部族>があえて仕向けた、ということが分かるようには、<ベイリンは>殆んどしてくれない。
(注19)「ペンシルベニア州の南東部部とメリーランド州北東部チェサピーク湾、サスケハナ川沿いでロングハウスに住み、狩猟やトウモロコシやタバコなどを栽培しながら暮していた。・・・イロコイ族とは親戚類に入る。白人の入植によるヨーロッパから持ち込まれた天然痘や戦争及び虐殺などの影響で・・・ほぼ滅亡<する>。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%B9%E3%82%B1%E3%83%8F%E3%83%8E%E3%83%83%E3%82%AF
故フランシス・ジェニングス(Francis Jennings)が30年前に述べたように、「サスケハノック族は世界の中の彼らの場所における大国(Great Power)だった」。
また、歴史家のシンシア・ヴァン・ザンツ(Cynthia Van Zandt)が最近主張したように、彼らは「ニュースウェーデン植民者達の庇護者達であり、同盟における上位者である、と自分達自身をみなしていた」のだ。・・・
従って、コネチカット、ロードアイランド、そしてプリマスは、ニュースウェーデン同様、欧州人たる冒険的航海者達が原住民達の土地を彷徨したことに対してその現住民達が行った諸決定のせいで形成された部分が少なからずあるのだ。
これらの諸決定を行うにあたって、インディアン達は、単に自分達の生活において若干の神秘的な均衡を維持しようとしただけではなく、自分達の只中において行われた<欧州人による>植民地的定住のパターンを能動的に形作ったのだ。」(H)
エ その他
「私は、『英領北米における集住』という副題の本でカナダに言及がなされていないことに驚いた。
恐らくそれは、この時期にはそれはフランス領であってイギリス領ではなかったからだろう。
当時スペイン領であったフロリダも取り上げられていないが、(私が想像するに)その理由は同じだろう。
そして、オランダ領とスウェーデン領とフィンランド領<についての記述>が含まれているのは、それらをイギリスが吸収したからだろう、と自分に言い聞かせたものだ。
この本を読んで、私は、内心、その題名を『カナダを勘定に入れないところの、<北米の>北半分の大西洋沿岸への北部欧州からの移民の波』的なものへと変更した。」(D)
「ベイリンは、驚くべきことに、北米における最初の選挙された代表議会であって枢要であるところの、公民会(House of Burgesses)<(注20)>の創立<についての記述>を省いている。
(注20)ヴァージニア会社によって、技能を持ったイギリス人達が北米にやってくることを促進すべく設立され、1619年7月30日にジェームスタウンで最初の会議が開催された。
http://en.wikipedia.org/wiki/House_of_Burgesses
<また、>イギリスから来た英国教徒達だけが<宗教的寛容に関して>役割を果たしたわけではない。
メリーランドの創建者達たるイギリスのカトリック教徒達は宗教的寛容の場所を確保する努力に一貫性を欠いていたためにそれに失敗した。
ニューイングランドに定住したピューリタン達もまた宗教的寛容を追求した。」(K)
「ベイリン氏は、<この本において、以前の自著である>『西への冒険的航海者達』の始まりの1世紀前の1670年代で彼の物語を終えている。
彼は、現在90歳だが、読者達は、依然としてベイリン氏が休みをとることなく、もう一つの北米における集住に関するこの大きな本の続きを書くことを期待することができそうだ。」(B)
3 終わりに
北米植民地に、17世紀の(地理的意味での)北部欧州の暴力性・・とりわけ北部欧州の大陸部の暴力性・・がそのまま持ち込まれた、というベイリンの視点は私にとっては新鮮なものでした。
北米において、イギリス人を中心とする(地理的意味での)北部欧州人が存続し発展することが、即、原住民たるインディアンとの衝突を惹起を意味したことから、この暴力性が、維持、増幅されて行った、ということではないのでしょうか。
そして、衝突したインディアンの迫害・絶滅を正当化するためには、インディアンを劣等人種視せざるを得ず、それが、黒人の到着とともに有色人種一般に対する劣等人種視へと一般化し、今度はそれが、奴隷制を正当化し、恒久化させて行くことにつながった、ということになりそうです。
このように見て来ると、ベイリンが、北米植民地における、欧州人、就中イギリス人同士の宗教的紛争を重視するのは、北部欧州の暴力性が、宗教改革に伴う宗教イデオロギー上の対立と密接に関わっていた以上、私は当然である、と思うのです。
イギリス本国においては、17世紀末に、英国教という、宗教イデオロギーを捨象したような宗派が安定的に確立することによって、(地理的意味での)北部欧州、ひいては(地理的意味での)欧州全体の中で、宗教的に寛容な社会が(相対的な意味においてですが)最初に成立するのですが、欧州大陸からの移民も少なくなく、また、(イギリスの中では相対的に宗教原理主義的であった)ピューリタンがイギリス人植民者の間で大きな存在感を発揮したこともあり、英領北米植民地、そして後の米国は、イギリス(英国)よりはイデオロギー的に非寛容な、しかし、欧州大陸よりはイデオロギー的に寛容な、この点においても、アングロサクソン文明と欧州文明のキメラたる文明にあいふさわしい社会になり、現在に至っているわけです。
(完)
<米国前史(その9)>(2013.5.22公開)
ウ インディアン
「同様、腑に落ちないのは、副題で約束されていたところの、「文明の衝突」についての議論が殆んどなされないことだ。
東海岸における元からの住民達について、良く練られた紹介がなされた後、彼らは、舞台外の顔の見えない脅威としてを除き、物語から殆んど消え去ってしまう。
(ルイス・ラムール(Louis L’Amour)に目を向けさせつつ(channeling)、ベイリンは、彼らについて、二度、「掠奪的(marauding)インディアン達」と<いう言葉で>言及する。)
確かに、彼は、イギリス人達は、原住民達を恐れ、不信を抱いていたことを明記している。
しかし、イギリス人達は、彼らを、フランス人とスペイン人に対する<自分達の>同盟者群に熱心にしようとしたし、彼らと交易することで山ほど金を儲けたし、土地を巡って彼らと恒常的に諍いもした。
双方が、絶え間なく互いに関わり、このような相互関係が、アフリカ人達同様、原住民達をアメリカ社会の創造に関わる参加者にしたのだ。
ペクオット戦争が、1634年に始まり、ニューイングランドを5年間にわたって揺るがしたことが、一つの例だ。
この紛争は、(減少しつつあった毛皮交易の最後の諸利潤であった)カネ、(この地域における最も生産力のある土壌を持ったコネチカット川渓谷という)土地、を巡る単純明快な闘争だった。
この強力なペクオット族は、この領域の多くを占拠していたが、オランダ人との長期にわたる交易パートナーであり、マサチューセッツにおいて、他のインディアン諸集団とイギリス人諸植民地との同盟に対して戦った。
そして、イギリス・インディアン同盟側が勝利し、ペクオット族の多くを虐殺し、残りを奴隷として西インド諸島に向けて船で送り出した。
不思議なことに、ベイリンは、この文明間衝突を、アンチノミアニズム(Antinomianism)<(注18)>・・市民的権威や宗教的権威の重要性を否定し、信仰だけが救済を保証するとする異端・・を巡るピューリタン達同士の戦いの中の一挿話として扱う。」(D)
(注18)ピューリタン急進派のクエーカーが信奉した。「神の啓示を受け無償の恩恵によってキリストの霊を体験し再生した者は人間の心の内に目に見えない「神の律法」を持つのであるから、それを基準とすればよく、もはや外的な法制度としての律法に拘束されることはない、すなわち心の中にある神の律法のみを基準とした考え方。」
http://www.nmt.ne.jp/~cosmos99/kuefure.htm
「この本の全てが学識の強靭さに裏打ちされているとはいえ、そのアメリカ原住民についての議論には、研究対象の焦点がインディアン関係ではなく欧州からの諸移民であるとはいえ、不満が残る。
問題の多くは、何十年も前まで遡るのだが、このシリーズを『英領北米における集住』と呼んだ決定に始まるところの、言葉の不幸な諸選択に関わるものだ。
「アメリカ人達」と題した最初の章で、ベイリンは、英国人達がそこに集住するより前にこの大陸には人がいなかったと考えているわけではないことをはっきりさせている。
しかし、この章では、この地におけるインディアンの存在を最小化するような形で様々なことが書き綴られている。
土着諸コミュニティは「現代の人口統計学的諸水準に照らせば数少なかった」と。
「完全に定住的であった者はいなかった。」なぜなら、「大部分の村には、季節的にしか人がいなかった」からだ、と。
しかも、「大部分の人々は、自分の「本拠(home)」たる村々に春と夏の数か月しかおらず、その時でさえ、沿岸や河畔の漁場に向かって小集団で時々彷徨い出ていた」と。
若干の場所と時において、これらの<記述の>幾ばくかは間違っていないが、どうして「本拠」に鍵括弧をつけるのか、また、その町々が、しばしば、何エーカーものトウモロコシ、豆、そしてスクォッシュ(squash)畑で取り囲まれ、その町々に先祖達の墓々が存在していたところの人々について記す際に、どうして「彷徨い出」る的な言葉を用いるのだろうか。・・・
サスケハノック族(Susquehannocks)<(注19)という言葉>が相対的に頻繁に『野蛮な年月』に出て来るというのに、この本は、17世紀中頃の数十年において、スウェーデン人、オランダ人、メリーランド人、そしてヴァージニア人達を、北米大陸の「より不明瞭でより簡単にどこがどこかを言えない…内陸部」における、原住民同士の諸戦争や原住民の交易路、に関わるところのより重要な諸戦略のために、相互に対立するように、<このインディアンの部族>があえて仕向けた、ということが分かるようには、<ベイリンは>殆んどしてくれない。
(注19)「ペンシルベニア州の南東部部とメリーランド州北東部チェサピーク湾、サスケハナ川沿いでロングハウスに住み、狩猟やトウモロコシやタバコなどを栽培しながら暮していた。・・・イロコイ族とは親戚類に入る。白人の入植によるヨーロッパから持ち込まれた天然痘や戦争及び虐殺などの影響で・・・ほぼ滅亡<する>。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%B9%E3%82%B1%E3%83%8F%E3%83%8E%E3%83%83%E3%82%AF
故フランシス・ジェニングス(Francis Jennings)が30年前に述べたように、「サスケハノック族は世界の中の彼らの場所における大国(Great Power)だった」。
また、歴史家のシンシア・ヴァン・ザンツ(Cynthia Van Zandt)が最近主張したように、彼らは「ニュースウェーデン植民者達の庇護者達であり、同盟における上位者である、と自分達自身をみなしていた」のだ。・・・
従って、コネチカット、ロードアイランド、そしてプリマスは、ニュースウェーデン同様、欧州人たる冒険的航海者達が原住民達の土地を彷徨したことに対してその現住民達が行った諸決定のせいで形成された部分が少なからずあるのだ。
これらの諸決定を行うにあたって、インディアン達は、単に自分達の生活において若干の神秘的な均衡を維持しようとしただけではなく、自分達の只中において行われた<欧州人による>植民地的定住のパターンを能動的に形作ったのだ。」(H)
エ その他
「私は、『英領北米における集住』という副題の本でカナダに言及がなされていないことに驚いた。
恐らくそれは、この時期にはそれはフランス領であってイギリス領ではなかったからだろう。
当時スペイン領であったフロリダも取り上げられていないが、(私が想像するに)その理由は同じだろう。
そして、オランダ領とスウェーデン領とフィンランド領<についての記述>が含まれているのは、それらをイギリスが吸収したからだろう、と自分に言い聞かせたものだ。
この本を読んで、私は、内心、その題名を『カナダを勘定に入れないところの、<北米の>北半分の大西洋沿岸への北部欧州からの移民の波』的なものへと変更した。」(D)
「ベイリンは、驚くべきことに、北米における最初の選挙された代表議会であって枢要であるところの、公民会(House of Burgesses)<(注20)>の創立<についての記述>を省いている。
(注20)ヴァージニア会社によって、技能を持ったイギリス人達が北米にやってくることを促進すべく設立され、1619年7月30日にジェームスタウンで最初の会議が開催された。
http://en.wikipedia.org/wiki/House_of_Burgesses
<また、>イギリスから来た英国教徒達だけが<宗教的寛容に関して>役割を果たしたわけではない。
メリーランドの創建者達たるイギリスのカトリック教徒達は宗教的寛容の場所を確保する努力に一貫性を欠いていたためにそれに失敗した。
ニューイングランドに定住したピューリタン達もまた宗教的寛容を追求した。」(K)
「ベイリン氏は、<この本において、以前の自著である>『西への冒険的航海者達』の始まりの1世紀前の1670年代で彼の物語を終えている。
彼は、現在90歳だが、読者達は、依然としてベイリン氏が休みをとることなく、もう一つの北米における集住に関するこの大きな本の続きを書くことを期待することができそうだ。」(B)
3 終わりに
北米植民地に、17世紀の(地理的意味での)北部欧州の暴力性・・とりわけ北部欧州の大陸部の暴力性・・がそのまま持ち込まれた、というベイリンの視点は私にとっては新鮮なものでした。
北米において、イギリス人を中心とする(地理的意味での)北部欧州人が存続し発展することが、即、原住民たるインディアンとの衝突を惹起を意味したことから、この暴力性が、維持、増幅されて行った、ということではないのでしょうか。
そして、衝突したインディアンの迫害・絶滅を正当化するためには、インディアンを劣等人種視せざるを得ず、それが、黒人の到着とともに有色人種一般に対する劣等人種視へと一般化し、今度はそれが、奴隷制を正当化し、恒久化させて行くことにつながった、ということになりそうです。
このように見て来ると、ベイリンが、北米植民地における、欧州人、就中イギリス人同士の宗教的紛争を重視するのは、北部欧州の暴力性が、宗教改革に伴う宗教イデオロギー上の対立と密接に関わっていた以上、私は当然である、と思うのです。
イギリス本国においては、17世紀末に、英国教という、宗教イデオロギーを捨象したような宗派が安定的に確立することによって、(地理的意味での)北部欧州、ひいては(地理的意味での)欧州全体の中で、宗教的に寛容な社会が(相対的な意味においてですが)最初に成立するのですが、欧州大陸からの移民も少なくなく、また、(イギリスの中では相対的に宗教原理主義的であった)ピューリタンがイギリス人植民者の間で大きな存在感を発揮したこともあり、英領北米植民地、そして後の米国は、イギリス(英国)よりはイデオロギー的に非寛容な、しかし、欧州大陸よりはイデオロギー的に寛容な、この点においても、アングロサクソン文明と欧州文明のキメラたる文明にあいふさわしい社会になり、現在に至っているわけです。
(完)
太田述正ブログは移転しました 。
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