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太田述正コラム#5994(2013.1.28)
<米国前史(その2)>(2013.5.15公開)
2 米国前史
(1)ベイリンの研究歴におけるこの本の位置づけ
「ヴァージニアのジェームスタウンにイギリスによる最初の恒久的入植地が設立された1607年から、米独立宣言の年である1776年までの期間<の長さ>は、1776年の出来事からハリー・S・トルーマン大統領の就任式が行われた1945年までの期間<の長さ>に匹敵することを、我々は忘れがちだ。」(E)
「<ベイリンは、>『米独立革命のイデオロギー的起源(The Ideological Origins of the American Revolution)』 (1967年) と『西への冒険的航海者達(Voyagers to the West")』(1986年)でもって、都合二つ、ピューリッツァー賞を獲った。」(B)
「2<5>年前に、ベイリンは、・・・[『英領北米における集住:序(he Peopling of British North America:An Introduction)』(1988年)]・・・を上梓したが、これは、より大きなプロジェクトについての簡潔な「素描」だった。
それは、欧州とアフリカから南北アメリカへの「人々の大西洋を越えた西方への動き」を理解し詳説(recount)しようとする試みだった。
それをベイリンは、「有史以来の人類史における最大の出来事のうちの一つ」と呼び、「その帰結は…測り知れないもの」であって、巨大な移民でもって「米国史の基盤」となった、とした。
それと同時に、彼は、彼のプロジェクトの最初の巻であるところの、米独立革命の直前にこの地にやってきたイギリス人達の研究である、『西への冒険的航海者達』を上梓し、ピューリッツァー賞を受賞したのだ。」(D)(ただし、[]内はIによる。)
「『西への冒険的航海者達』と、その薄い同伴本である『英領北米における集住:序』の中で、ベイリンは、北米移民達の諸経験は、彼らの(出身)諸国における国内的移動性(domestic mobility)の延長であって、北米における入植は均一<な形で>行われたのではなく極めて種種雑多<な形で>行われたのであって、また、<北米における>人口増と<北米への>就業(rcruitment)の主たる触媒となったのは土地と労働力需要だったのであって、かつまた、こういったことが北米の諸条件によって変貌を遂げたのだった、と主張した。
<そして、>彼は、初期近代期の米国の文化は、異国的な(exotic)極西辺境(periphery)文化、すなわち、欧州の大都会的(metropolitan)文化の辺境地(marchland)文化、であると結論付ける。」(I)
「『西への冒険的航海者達』は、高解像度のスナップショットであり、1773年<初>から1776年初の間のブリテン諸島から北米への出発の全記録の細密な分析から生成されたものだ。」(H)
「<そんな記録がなぜ残っているかというと、>1770年代初における西方への人々の移動規模は極めて大きかったため、英国が過疎化するのではないかという惧れが生じたので、英国の役人達が、空前のことだが、1773年初から1776年初の間の故郷たる諸島から南北アメリカへと渡る全移民の情報を集計しようとした<からだ>。」(E)
「<そういうわけで、>数字、表、グラフ、そして地図だらけのこの本は、巨視的パターンをなぞったものだ。
しかし、『西への冒険的航海者達』は、北米において新しい家をつくった人々の動機、経験、そして感情が開示されるところの、個人的諸物語に満ちてもいる。」(H)
「<北米英領>諸植民地の人口的諸起源についての彼の継続的探索は、『英領北米における集住:序』とともに始まったものだ。」(C)
「ベイリン氏は休むことを潔しとしなかった。
『野蛮な年月<:英領北米における集住>』は、 『西への冒険的航海者達』の前日譚と言える。
後者は、1770年代中頃の約10,000人の北米への英国人移住者達の詳細を研究したものだが、今度は、彼は、17世紀の最初の70年間における、英国人、オランダ人、スウェーデン人、そしてフィンランド人移民者達を考察する。
<また、>この本は、<北米>の岸辺群に元からいた人々<(=インディアン)>にはるかに多くの関心を向けている。」(B)
「<それは、>1607年の(イギリスの南北アメリカにおける最初の恒久的植民地の)ジェームスタウンの設立から、1675〜76年の(ニューイングランドからインディアン達を事実上追放した悪しき紛争たる)フィリップ王戦争(King Philip’s War)<(コラム#1224、5296、5927)(注1)>までの混沌とした数十年<を扱っている。>」(D)
(注1)「1675年6月から翌年8月まで、ニューイングランドで<基本的に>白人入植者とインディアン諸部族との間で起きたインディアン戦争(民族浄化)。フィリップ王とはワンパノアグ族の酋長メタコメット(メタコム)の事で、白人入植者は彼をそう呼んでいた。・・・
<この戦争は、インディアン5部族と白人入植者・インディアン2部族の間で戦われたが、そもそも>インディアンの社会は、白人の独任制と違い、合議制であ<って>部族を代表する首長や君主は存在しない<ので、前者側にはこの戦争の>指揮官<は>いない<が、結局、前者側に>4000人強<、後者側に>約600人<の死者を出し、>・・・白人入植者の勝利<で終わった。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%97%E7%8E%8B%E6%88%A6%E4%BA%89
「<ただし、>ベイリン自身が認めているように、この種の包括的分析を行うための17世紀の「データは存在しない」。
『野蛮な年月』は、そのため、その先行書<たる『西への冒険的航海者達』>よりもはるかに印象論的にならざるをえなかった。
それでも、<この本は、>断片的な乗船者リスト、港湾記録、その他得られる史料を最大限活用して<執筆されて>いると言える。」(H)
(続く)
<米国前史(その2)>(2013.5.15公開)
2 米国前史
(1)ベイリンの研究歴におけるこの本の位置づけ
「ヴァージニアのジェームスタウンにイギリスによる最初の恒久的入植地が設立された1607年から、米独立宣言の年である1776年までの期間<の長さ>は、1776年の出来事からハリー・S・トルーマン大統領の就任式が行われた1945年までの期間<の長さ>に匹敵することを、我々は忘れがちだ。」(E)
「<ベイリンは、>『米独立革命のイデオロギー的起源(The Ideological Origins of the American Revolution)』 (1967年) と『西への冒険的航海者達(Voyagers to the West")』(1986年)でもって、都合二つ、ピューリッツァー賞を獲った。」(B)
「2<5>年前に、ベイリンは、・・・[『英領北米における集住:序(he Peopling of British North America:An Introduction)』(1988年)]・・・を上梓したが、これは、より大きなプロジェクトについての簡潔な「素描」だった。
それは、欧州とアフリカから南北アメリカへの「人々の大西洋を越えた西方への動き」を理解し詳説(recount)しようとする試みだった。
それをベイリンは、「有史以来の人類史における最大の出来事のうちの一つ」と呼び、「その帰結は…測り知れないもの」であって、巨大な移民でもって「米国史の基盤」となった、とした。
それと同時に、彼は、彼のプロジェクトの最初の巻であるところの、米独立革命の直前にこの地にやってきたイギリス人達の研究である、『西への冒険的航海者達』を上梓し、ピューリッツァー賞を受賞したのだ。」(D)(ただし、[]内はIによる。)
「『西への冒険的航海者達』と、その薄い同伴本である『英領北米における集住:序』の中で、ベイリンは、北米移民達の諸経験は、彼らの(出身)諸国における国内的移動性(domestic mobility)の延長であって、北米における入植は均一<な形で>行われたのではなく極めて種種雑多<な形で>行われたのであって、また、<北米における>人口増と<北米への>就業(rcruitment)の主たる触媒となったのは土地と労働力需要だったのであって、かつまた、こういったことが北米の諸条件によって変貌を遂げたのだった、と主張した。
<そして、>彼は、初期近代期の米国の文化は、異国的な(exotic)極西辺境(periphery)文化、すなわち、欧州の大都会的(metropolitan)文化の辺境地(marchland)文化、であると結論付ける。」(I)
「『西への冒険的航海者達』は、高解像度のスナップショットであり、1773年<初>から1776年初の間のブリテン諸島から北米への出発の全記録の細密な分析から生成されたものだ。」(H)
「<そんな記録がなぜ残っているかというと、>1770年代初における西方への人々の移動規模は極めて大きかったため、英国が過疎化するのではないかという惧れが生じたので、英国の役人達が、空前のことだが、1773年初から1776年初の間の故郷たる諸島から南北アメリカへと渡る全移民の情報を集計しようとした<からだ>。」(E)
「<そういうわけで、>数字、表、グラフ、そして地図だらけのこの本は、巨視的パターンをなぞったものだ。
しかし、『西への冒険的航海者達』は、北米において新しい家をつくった人々の動機、経験、そして感情が開示されるところの、個人的諸物語に満ちてもいる。」(H)
「<北米英領>諸植民地の人口的諸起源についての彼の継続的探索は、『英領北米における集住:序』とともに始まったものだ。」(C)
「ベイリン氏は休むことを潔しとしなかった。
『野蛮な年月<:英領北米における集住>』は、 『西への冒険的航海者達』の前日譚と言える。
後者は、1770年代中頃の約10,000人の北米への英国人移住者達の詳細を研究したものだが、今度は、彼は、17世紀の最初の70年間における、英国人、オランダ人、スウェーデン人、そしてフィンランド人移民者達を考察する。
<また、>この本は、<北米>の岸辺群に元からいた人々<(=インディアン)>にはるかに多くの関心を向けている。」(B)
「<それは、>1607年の(イギリスの南北アメリカにおける最初の恒久的植民地の)ジェームスタウンの設立から、1675〜76年の(ニューイングランドからインディアン達を事実上追放した悪しき紛争たる)フィリップ王戦争(King Philip’s War)<(コラム#1224、5296、5927)(注1)>までの混沌とした数十年<を扱っている。>」(D)
(注1)「1675年6月から翌年8月まで、ニューイングランドで<基本的に>白人入植者とインディアン諸部族との間で起きたインディアン戦争(民族浄化)。フィリップ王とはワンパノアグ族の酋長メタコメット(メタコム)の事で、白人入植者は彼をそう呼んでいた。・・・
<この戦争は、インディアン5部族と白人入植者・インディアン2部族の間で戦われたが、そもそも>インディアンの社会は、白人の独任制と違い、合議制であ<って>部族を代表する首長や君主は存在しない<ので、前者側にはこの戦争の>指揮官<は>いない<が、結局、前者側に>4000人強<、後者側に>約600人<の死者を出し、>・・・白人入植者の勝利<で終わった。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%97%E7%8E%8B%E6%88%A6%E4%BA%89
「<ただし、>ベイリン自身が認めているように、この種の包括的分析を行うための17世紀の「データは存在しない」。
『野蛮な年月』は、そのため、その先行書<たる『西への冒険的航海者達』>よりもはるかに印象論的にならざるをえなかった。
それでも、<この本は、>断片的な乗船者リスト、港湾記録、その他得られる史料を最大限活用して<執筆されて>いると言える。」(H)
(続く)
太田述正ブログは移転しました 。
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