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太田述正コラム#5964(2013.1.13)
<大英帝国論再々訪(その9)>(2013.4.30公開)

  オ ダーウィン批判

 「英帝国の<植民地に対する>「指揮統制」について記す際に、・・・彼は、情報収集としばしば暴虐的であったところの警察手法に対し、本来与えるべき信任を十分与えていない。
 彼は、宣教師達についても余り信用しておらず、彼らの帝国的(imperial)作用(agency)を否定する研究を支持し、宣教師達が欧米の文化と帝国的諸イデオロギーの枢要なる伝達者達と見てきた学派の研究にはせいぜいほんの少し言及するだけだ。
 彼は、デイヴィッド・リヴィングストン(David Livingstone)<(注16)>についても弱く、その最も出来の悪い伝記を「最良の典拠」と描写している。

 (注16)1813〜1873年。「スコットランドの探検家、宣教師、医師。ヨーロッパ人で初めて、当時「暗黒大陸」と呼ばれていたアフリカ大陸を横断した。また、現地の状況を詳細に報告し、アフリカでの奴隷解放へ向けて尽力した人物でもある。・・・
 宣教師になり、・・・医療を施しながら布教することを志すようにな<り、アフリカに赴き>・・・布教の拠点となる地方を探し、アフリカ内陸部を北上し方々を探検、・・・これには、当時すでにヨーロッパでは禁止され非合法となっているものの、アフリカではスルタンたちによって公然と続けられていた奴隷貿易による搾取を廃絶するために、中央アフリカの交易ルートを探索する意図もあった。・・・1856年3月2日、インド洋沿いに位置するモザンビークの都市・・・に到達、2年6ヶ月かけて、ヨーロッパ人として初めてアフリカ大陸の横断に成功した。<その後も2度アフリカ探検をおこない、最後の探検の途中マラリアで死亡した。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%B3

 彼は、英国の帝国的文化についても語るべきことを殆んど持っておらず、それ自体が研究不十分で方法論的にも難があるところの、古典的な<帝国的文化の存在について>懐疑的な本を支持している。
 彼はまた、英国自身が、イギリス人と並んで、スコットランド人、アイルランド人、ウェールズ人、という多様な民族性によって構成されていること・・このことは、大英帝国の性格に顕著な諸効果をもたらした・・について<の我々の認識を増進させることに>、余り手助けはしてくれない(not very forthcoming)。
 恐らく、最も残念なことは、彼が、土着の人々について比較的少しのことしか語っていないことだ。
 これは下からのものの見方というよりは上からのものの見方だ。
 たとえ帝国それ自体は一枚岩ではなかったとしても、帝国主義的凝視はおおむね一枚岩だったのだが、我々は、<この本では、>それについてはかばかしい印象を与えられない。
 更に言えば、今日、あなたが世界中を旅して回れば・・それはまさにダーウィンがやったことだが・・セント・キッツ島(St Kitts)<(注17)>からセーシェル(Seychelles)<(注18)>まで、そして、南アフリカからシンガポールまで、建物群、都市計画、教会群、法と教育のシステム群、知的諸観念の一揃い群、娯楽、スポーツ群、庭園や狩猟保護区といった環境的諸様相、そして何よりも、英語とその変形群(derivatives)はどこにおいても似通っている。

 (注17)セントクリストファー島(Saint Christopher)の別名。「カリブ海は小アンティル諸島のリーワード諸島にある島で、火山島・・・1983年に<隣の>ネイビス<島>と共にセントクリストファー・ネイビスとしてイギリスから独立した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%88%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%E5%B3%B6
 (注18)セーシェル共和国の通称。「アフリカ大陸から1,300kmほど離れたインド洋に浮かぶ115の島々からなる国家」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%AB

 大英帝国は、それが何であったにせよ、帝国主義者達に自信を持たせ(reassure)、臣民たる人々を威圧するべく設計されたところの、まことにもって演劇的で、多かれ少なかれ劇的な建築、儀式、記念碑、展示、顕著に壮麗なイベント、によって満ち満ちていた。
 <この本では、>我々はこのことについて、或いは、ローマ人達(そしてインドにおいてはムガール人達)に発するところの帝国的伝統の中に英国人達が自分達自身を置き始めたという事実について、極めて少なくしか知らされることがない。
 一枚岩的であったかどうかはともかくとして、大英帝国の文化的諸結果は、ダーウィンが認めるであろうよりも、より多くの印象的な(striking)諸形態(patterns)を呈しているのだ。」(H)

3 終わりに

 大英帝国の終焉に日本が果たした役割を相当程度取り上げたという点を除けば、ダーウィンの大英帝国論にはさほど評価すべき点はないように思います。
 私の批判は、既に随所で行ってきたところですが、最後に二つの批判を付け加えてこのシリーズを終えることにしましょう。

 第一の批判は、「大英帝国は、ついに英国を根本的に改変することはなかった」(コラム#5944)というのは必ずしも正しくない、という点についてです。
 すぐ上で引用した、「大英帝国<の植民地>は、・・・劇的な建築、儀式、記念碑、展示、顕著に壮麗なイベント、によって満ち満ちていた」という、一人の書評子の指摘を思い出してください。
 (より正確には、「大英帝国<の植民地>は」は、「大英帝国<の各植民地の首都等>は」でなければならないでしょうが・・。)
 このことは、植民地というより、英本国にこそあてはまります。
 イギリスに住んだ経験がある方は、田舎の隅々まで、(フローでは大したことはないけれど、ストックにおいて、)いかにイギリスが豊かな国か、骨身にしみてお分かりのことと思います。
 確かに、イギリスは、どこまで遡っても、地理的意味での欧州の諸国や諸地域の中で随一の豊かな地であったわけですが、その豊かさを超絶的なものたらしめたものこそ、その植民地、とりわけ、土着民が多数を占めていた諸植民地から吸い上げられた富だったのであり、そのおかげで、英本国は根本的に<近く>改変されたのです。

 第二の批判は、「過去600年にわたって<の>英国の帝国的拡大」とか「英国のそれは、大部分の帝国に比べて短い帝国だった」(どちらもコラム#5962)といった表現から、ダーウィンや書評子らが、英国(イギリス)が最初に植民地としたアイルランドのことをあえて無視していることが窺える点についてです。
 なぜなら、イギリスによるアイルランドの植民地化は、1171年のヘンリー2世のアイルランド侵攻から始まり、1922年のアイルランド独立まで、実に751年もの歴史がある
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
のですからね。
 この英国のアイルランド統治を象徴するのが、本日の過去・現在・未来(コラム#5963)でも取り上げた、アイルランド大飢饉ですが、これは、英国のインド統治の間に、先の大戦中のベンガル大飢饉を掉尾として、幾度もインドを襲った大飢饉と一対をなすものとして受け止めるべきであり、欧州大陸諸国の植民地統治の暴力性ないし収奪性に勝るとも劣らない暴虐性を、英国の「自由市場経済」(コラム#5963)的放任性が発揮したことが分かろうというものです。
 (言うまでもありませんが、日本の植民地統治は、このどちらの暴虐性とも無縁であったわけです。)
 ダーウィンは、アイルランドを無視することで、この不都合な真実から目を逸らすことができた、というわけです。

(完)

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