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太田述正コラム#5918(2012.12.21)
<米墨戦争と米国の人種主義(その3)>(2013.4.7公開)

 「1846年の米国のメキシコへの侵攻は、テキサス人にとっては、自分達の州が米国の一部としてとどまることを確保するとともに、リオ・グランデをその南部境界として確立した。
 それは、他の共和国に対して領域<獲得>のために行われた最初の米国の戦争であるとともに、かなりの数の米国人が恥ずかしく思った最初の戦争でもあった。
 ユリシーズ・S・グラントは、下級将校として、米軍兵士達によってメキシコの一般住民に対してなされたところの、無数の強姦、殺人、その他の残虐行為を目撃し、何十年にもわたってそれについての彼の役割を悔悟し続けた。・・・
 この戦争は、グリーンバーグの伝えるところによれば、広範な、国内での抗議や議会における反対によって途中で打ち切られたところの、最初の海外における紛争であり、(彼女がそう書いているわけではないが、)米国のベトナムへの失敗に終わった関わりの前駆だったと言えそうだ。・・・」(D)

 「・・・移民及び「不法<滞在者>(illegals)」に係る我々の最近の論争点についての理解は、米墨戦争を振り返ることから始めなければならない。・・・
 米国で最も反移民熱が高い地方は、1840年代に力でメキシコから奪取された所だ。
 (いずれも、激しい議会選挙の結果民主党が勝利を収めたところの、)カリフォルニア、南テキサス、アリゾナ、及び(ラティノの票が、この民主・共和拮抗州と考えられていた所でオバマ勝利にとって決定的であったことが証明されたところの、)コロラドの諸地方、は、ジェームズ・K・ポークが露骨に拡大主義的綱領でもって1844年の<大統領>選挙に勝利した時点においてはメキシコ領だった。
 彼のホイッグ党の対抗馬のヘンリー・クレイは、ポークが選出されれば、メキシコとの戦争が行われるだろうと予言し、その通りになった。
 1846年に、ポークは、メキシコの3分の1に相当する北部を米国に移転したところの、侵略戦争を指導した。
 ポークが1846年5月に米議会に<対メキシコ>宣戦案を持ち込んだ時、彼のホイッグ党の反対者達は屈した。
 下院のホイッグ党は14人を除く全員が戦争に賛成票を投じたのだ。
 この戦争が、正義に反し、かつ自分達自身の大統領によってはじめられたこと、を信じていたにもかかわらず・・。・・・」(F)

 (3)人種主義マークI

 「・・・ポークの論理(reasoning)は人種主義にどっぷりつかったものだった。
 「メキシコは、人種、力の双方において<米国より>劣っており、その隣国<たる米国>の意志に必然的に屈服せざるをえない」と。
 弱い国を攻撃するのは恰好が悪いし反キリスト教的なのではないかと示唆する人々に対しては、ポークは、「我々は、それが大きかろうと小さかろうと、全ての国を同じように扱わなければならない」と主張した。
 ポークは、「白人による黒人の支配(domination)は神の計画の一部であり、強者による弱者の支配、そして白人による黒人や茶色の肌を持った人々の支配は、奴隷制の実態(reality)であるのみならず、<白人の>権利…でもある」と信じていた。・・・」(A)

 「・・・1846年の米墨戦争についての標準的物語は、メキシコの人種が混淆した住民達は劣等であるとともに彼らの土地にふさわしくないと確信していた自称「アングロサクソン」たる米国人達の間で広範に人気があった、と主張している。
 反メキシコ感情は、ポークと彼の党が1844年に勝利を収めるのにあたっての決定的な論争点だったのであり、この戦争に対する初期の大衆の熱意の大部分は人種主義に駆り立てられたものだった。
 戦争に賛成する諸新聞は、メキシコ人を害虫(vermin)になぞらえ、読者達に、米軍の志願兵達が、臆病な敵を出し抜く(best)ことと、彼らの国から選びたいだけの部分を奪うこととには、何の問題もない、と保証した。
 <こうして、>民主党は、反メキシコ的修辞を成功裏に用いることによって、選挙に勝利するとともに、帝国としての戦争を開始したわけだが、それはやがて、かつ皮肉にも、元々はメキシコ領域であった地におけるメキシコ人の存在感(presense)と戦うために<自称>アングロサクソンたる住民達が政治的に組織行動をとる結果をもたらすことになった。・・・」(F)

(続く)

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