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太田述正コラム#5914(2012.12.19)
<米墨戦争と米国の人種主義(その1)>(2013.4.5公開)

1 始めに

 エイミー・S・グリーンバーグ(Amy S. Greenberg)の新著、『邪悪な戦争--ポーク、クレイ、リンカーンと1846年の米国のメキシコ侵攻(A Wicked War: Polk, Clay, Lincoln, and the 1846 U.S. Invasion of Mexico)』の内容のさわりを書評等に拠って紹介しつつ、米国の原罪たる人種主義について、改めて考察を加えたいと思います。

A:http://www.washingtonpost.com/opinions/a-wicked-war-polk-clay-lincoln-andthe-1846-us-invasion-of-mexico-by-amy-s-greenberg/2012/11/23/db678388-2dc7-11e2-9ac2-1c61452669c3_story.html
(12月2日アクセス)
B:http://www.publishersweekly.com/978-0-307-59269-9
(12月19日アクセス。以下同じ)
C:http://www.shelf-awareness.com/issue.html?issue=1859#m17905
D:http://m.texasmonthly.com/id/16730/Books/#part1
E:http://www.futurity.org/society-culture/us-mexico-conflict-fueled-anti-war-movement/
 (以上、書評)
F:http://hnn.us/articles/origins-latino-immigration-problem
(著者による紹介)

 なお。グリーンバーグ(女性)は、ペンシルヴァニア州立大学の歴史学と女性学教授です。(D)

2 米墨戦争と米国の人種主義

 (1)序

 「・・・米墨戦争は<ユリシーズ・S・>グラント(Grant)<(コラム#618、622、624、1839、2882、3365、5357、5537)>にとって大学卒業後の大学のようなものであったかもしれないが、彼はこの戦争が大嫌いだった。
 「私には、米国によってメキシコに対して遂行されたものほど邪悪な戦争があったとは思えない」と彼は1879年に書いた。
 「私は、一介の若僧であった当時にそう思ったのだが、辞任するだけの道徳的勇気がなかった」と。
 この一節は、エイミー・S・グリーンバーグによるこの戦争の研究の題辞として用いられ、この本の題名を付ける霊感としての役割を果たした。
 グラントは正しかった。
 米国の軍隊によるこのメキシコのへの侵攻は、完全に侵略的な営みであって、明白な使命(Manifest Destiny)の諸ヴィジョンに憑りつかれ、米国の領域(holdings)を太平洋岸まで拡大するだけでなく奴隷制地域・・ポークは、彼自身、奴隷所有者だった・・をできうる限り遠くまで拡大することが自分にとっての生涯をかけた任務(mission)であると信じていたところの、頑固で二枚舌で愛想の悪い(stubborn, duplicitous, humorless)大統領たる、ジェームズ・ノックス・ポーク(James Knox Polk)<(コラム#1759、4426)>によってたくらまれた(engineered)ものだった。・・・」(A)

 「エイミー・S・グリーンバーグの『邪悪な戦争』は、ジェームズ・K・ポークの「明白な使命」なる拡大主義的教義と、ヘンリー・クレイ(Henry Clay)<(注1)コラム#1472)>、エイブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln)とホィッグ党(Whigs)<(注2)の、より国内に焦点を合わせた諸信条、との間の軋轢(conflict)を明らかにすることによって、米国によるメキシコ侵攻の歴史への魅惑的な一瞥を提供する。

 (注1)1777〜1852年。バージニア州のウィリアム・アンド・メアリー大学卒で弁護士を経て政治家になり、ケンタッキー州選出の下院、上院議員を務めた。「「偉大な仲介者」かつ「偉大な調停者」と呼ばれ、ホイッグ党の創設者かつ指導者となり、経済を近代化する計画、特に産業を保護する関税、国立銀行および運河、港湾と鉄道を推進する内陸部の改良の指導的提唱者だった。<また、>指導的タカ派でもあり、・・・米英戦争の<推進者だ>った。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%82%A4
 (注2)「<米>ホイッグ党(United States Whig Party)は、<米>国の政党。党は第7代大統領アンドリュー・ジャクソンの<州権主義的>政策<(後出)>に反対するために作られ、イギリスのホイッグ党との類似によってホイッグ党と呼称した。・・・<同>党は、奴隷反対<の立場をとってい>・・・た。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%82%A4%E3%83%83%E3%82%B0%E5%85%9A_(%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB)
 「共和党<は、>・・・黒人奴隷制反対を掲げて1854年に結成され<た>。連邦派<た>るフェデラリスト、ホイッグ党の流れを汲み、かつては北東部、中西部を支持基盤とする政党であり、1860年にはリンカーンが初の同党出身の大統領になった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%85%9A_(%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB)
 「白人男子普通選挙制が確立<するに至ってい>たこともあり、<ジャクソン大統領>の時代<(1929〜37年)>は「ジャクソニアン・デモクラシー」とも称される。・・・官吏の多くを入れ替えて自らの支持者を官吏とする猟官制(スポイルズ・システム)を導入した<ことでも知られる>。・・・
 <ジャクソンは、>インディアンや黒人などに対する人種差別主義者であり、「インディアン移住法」を制定しインディアンを遠隔地の保留地(Reservation)に強制隔離した・・・。・・・
 <また、>大きな政府<に反対であり、中央>銀行を、州ごとの独自財政を奪うとともに庶民の利益に沿わないとして・・・敵視し、・・・廃止に<追い込んだ。>・・・
 <更にまた、>ジャクソンは・・・均衡財政を維持し<たほか、>・・・連邦に対して州の権利を重要視する・・・「州権主義者」だった。・・・しかし、サウスカロライナにおいて・・・州は<米>国から自由に離脱できるとする運動が起こったとき・・・この動きを強く牽制。・・・この時の彼の行動は後の・・・リンカーンの南部諸州の連邦脱退の時の行動に強く影響を与えた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%83%B3

 米墨戦争に係る政争(politics)の背後で沸騰していたのは、奴隷制の問題及びより黒い肌をしているところの・・インディアン(Amerindian)、<スペイン人とインディオの>人種が混淆したメスティゾ、そして黒人奴隷を問わぬ・・あらゆる者に対する態度における、米国の、同じく、強い分裂だった。
 大統領として、ポークは自分の意図について包み隠すどころではなかった。
 「メキシコの最も豊饒な土地、とりわけ太平洋沿いの肥沃なひと続きの土地、が現在の無能な(shiftless)住民達から働き者で彼らの諸資源を大事に使う(husband)白人の人々の手に渡ることは、神の意志(will)である」<という彼の言を>グリーンバーグは引用する。・・・」(C)

(続く)

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