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太田述正コラム#5858(2012.11.21)
<陸軍中野学校終戦秘史(その2)>(2013.3.8公開)

→では、中国共産党はどうして、日本の降伏の後、中国国民党との内戦に勝利できたのでしょうか。(太田)

 「敵地を占領すると、押収した軍事情報関係の書類がどさんともちこまれる。・・・その中には中共軍の作戦命令なども沢山あった。日本軍の文書は、
「本日敵状はこうこうで、我々はかくかく。砲何門で、兵どのくらい」
 と、戦闘そのもの、それも表面戦力だけを対象にしたきまり文句だ。ところが中共軍のものは、その附近の民情、暮し向きから、親日派がどのくらいいて、わが方はどのくらいと、地域情勢がこまかく書いてある。さすがに政治的イデオロギーを背景にした軍隊だと思ったが、もう一つ、戦争は単に武力だけで戦う時代はすぎ去ったということだ。戦う土地の民情、思想、経済力など、すべてが戦力につながっている。つまり、中共軍の作戦命令は、その国民総力戦に適合しているということで、日本などでも緒戦当時から「総力戦」を呼号していながら、口先だけで実行がともなわなかった。
 そういう点にも、形式だけにとらわれている「老大国」と、意気盛んな新興国との相違がはっきり現われているが、さらにもう一つ、中共軍のものは、最後が必ず「余は兵と共に野にあり」という言葉で結ばれている。この指揮官の「兵と共に野にあり」という、言葉よりもその精神、その思想が、あの中共軍の強さのもとではないかと思われるのだが……。・・・(<中野学校出身>渕澄夫大尉談)」(62〜63、65)

→この部分は、下士官ならぬ将校の感想ですが、私に言わせれば、全くのピンボケです。
 第一に、日本は極めて有効かつ強力な「総力戦」体制たる日本型政治経済体制を構築していました。
 (問題があるとすれば、主要対外政策官庁である陸軍と海軍と外務省との間の連携がうまく行っていなかったことですが、これはまた別の話です。)
 渕の口吻は、彼がこのことを知らなかったことを推察させますが、そうだとすれば、それは彼の無知を示すものです。
 第二に、「中共軍<が>強<かった>」には首を傾げざるを得ません。そもそも、中国共産党は、国民党にもっぱら対日戦闘を行わせ、自らは兵力温存に努め、対日戦終結後に備えていたはずだからです。
 このことは、梅機関の担当地域の正面にいた「中共軍」たる新四軍(前出)については、とりわけあてはまります。↓
 「新四軍・・・は、中国工農紅軍が第二次国共合作により華南地区で再編された軍隊組織。正式名称は国民革命軍新編第四軍、別名陸軍新編第四軍。主力は中国共産党軍であったが、抗日統一戦線に向けた国民軍である。中国国民党軍の包囲攻撃にあい、共産党軍(中国工農紅軍)は瑞金根拠地を放棄して1934年に長征に出るが、一部部隊が根拠地維持のために残留した。1936年に西安事変が起こり、第二次国共合作が成立する。これを受けて、1937年に華北地区で八路軍が編成されるが、江西省・福建省・広東省・湖南省・湖北省・河南省・浙江省・安徽省に展開していた紅軍及び遊撃部隊は新四軍に編入された。・・・<最終的には>9万あまりの兵力となった。主に抗日戦線に参加したが、内陸及び華南地域が活動地域であった為に直接日本軍と交戦する機会は八路軍ほど頻繁ではなく、むしろ国民党軍と対峙している戦線のほうが多く、日本軍撤退を数ヶ月遅れで追ったほどである。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%9B%9B%E8%BB%8D
 (八路軍の方は、若干のゲリラ戦は戦ったわけですが、こちらについては、別の機会に譲ります。)
 このことを渕が知らなかったわけがありません。
 ということは、渕は、戦後かなり経過し、中共が成立してからの時点において、事実を(ひょっとしたら無意識に)歪曲して後付でこのような発言を行ったのではないか、と思われます。
 そもそも、共産党がこのような戦略をとったのは、国際政治軍事情勢を的確に読んで、日本の敗戦が必至であると早い時点において見極めたからであり、渕が言及した国内情勢分析能力の高さは、共産党の情勢分析能力の的確さの片鱗を示すもの、と受け止めるべきでしょう。
 なお、共産党が廉潔を売り物にし、支那の民衆を懐柔するのに尽力したのは、民衆のためなどでは全くなく、来るべき対国民党戦争を念頭に、民衆から財、サービス、とりわけ情報を円滑に得る手段としてであったことを我々は肝に銘じる必要があるでしょう。(太田)

 「かつてソ連のスパイが炭疽菌をまいたため、わが北満駐屯の騎兵部隊の軍馬3千頭が斃死した<事件があったが>・・・「<この事件>が、わが軍を非常にあわてさせたことは、獣医学校の幹候(幹部候補生)15名が中野の試験をうけたのち、9名が採用になっている。後にも先にも、中野として、こんなにも獣医を一挙にとったことはないが、55分間の試問のうち、特に細菌に関する質問が多かった。秋草さん(後少将。中野学校の・・・初代の校長)がソ連から帰って来たばかりで、特に将来の、ソ連との細菌謀略戦にそなえていたようだ。」(81〜82)

→上記事件については、ネット上で少しあたってみた範囲では、年月日どころか、いかなる情報も得られませんでした。
 しかし、七三一部隊の創設や同部隊による炭疽菌の研究がなぜ行われたか、こんな事件があったとすれば、説明ができるのもかもしれません。(太田)

 「<中野学校>の「第二期」<まで>は、ソ連を対象とし、ソ満国境における日ソの対立を基準に教育していた・・・。・・・
 <その後、1943>年<末からは、>・・・対ソ方針を対米方針に切替え<た。>・・・
 <そして、1945>年3月に群馬県富岡町へ学校が移転してからは、・・・ほとんど本土決戦のゲリラ部隊の指揮官養成機関と変わった・・・。」(178〜179、183)

→中野学校の教育内容の変遷が良く分かります。
 1941年末に対米英戦争が始まってから、なお、2年間も、中野学校、ひいては帝国陸軍にとっての最大の敵国はソ連であり続けたことは驚くべきことではないでしょうか。(太田)

(続く)

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