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太田述正コラム#5810(2012.10.28)
<赤露の東欧支配(続)>(2013.2.12公開)

1 始めに

 アン・アップルバウムの新著、 'Iron Curtain: The Crushing of Eastern Europe' については、既にシリーズで取り上げた(コラム#5794、5796、5798、5800、5802)ところですが、新たに書評
http://www.washingtonpost.com/opinions/book-review-iron-curtain-the-crushing-of-eastern-europe-by-anne-applebaum/2012/10/25/80db1314-1b1e-11e2-bd10-5ff056538b7c_story.html
(10月27日アクセス)が出、しかも、それが、これまでの書評には登場しなかった重要な論点をカバーしていることから、続篇を書くことにしました。
 書評子は、米カリフォルニア大学バークレー校歴史学教授のジョン・コネリー(John Connelly)です。

2 赤露による東欧支配が可能であったのはなぜか

 「・・・もちろん、<赤露による東欧支配がもたらされた>のは赤軍のおかげである部分が大きいことは確かだ。
 しかし、<対>イラク<戦>の後では、大部分の人は、占領部隊が政治的諸体制(regime)を創り出すことは<でき>ない、ということに同意することだろう。・・・
 歴史家達が直面しているミステリーは、何十万人もの人々が、革命的混沌、及び、教会、私有財産の破壊、そして民族独立、といった身の毛のよだつ諸シナリオ<のイメージ>を、共産主義が、伝統的に喚起してきたところの<東欧>地域において、情熱的に共産主義者達を支持したことだ。
 ルーマニアの共産主義者達は、1944年には、1,600万人の人口の国で1,000人もいなかった。
 それが、3年内に、その一味は80万人を超えるまでに膨れ上がった。
 どのように我々はこれを説明したらよいのか?
 ・・・アップルバウムは、素早い承継によって生み出された諸世代に早期の共産党の同志達を準える。
 鍵となったのは民族的にはポーランド人、ハンガリー人、ドイツ人、ルーマニア人、チェコ人であったところのソ連の共産主義者達の第一集団だった。
 戦争中には、これらの「二重<国籍的>市民達」は、ハンガリー人、ルーマニア人、或いはドイツの捕虜、或いは1939年にスターリンが奪取した部分のポーランドからのポーランド人、といったソ連の手中に落ちた東欧人の第二集団を訓練するために、ソ連の領域内で特別収容所群を組織した。
 1944年と45年に、これらの<第一集団と第二集団の>幹部達は、ウィーンとベルリンに向けて進撃する赤軍諸部隊の後を追い、主として警察諸力、しかし同時に、諸学校、諸裁判所、諸銀行、そして行政機関といった「民主主義的」諸施設を、彼らの生まれた諸国で設立し始めた。
 彼らは、それから、おおむね教育を受けていない、外からの影響を受け易い、労働者階級からの若い男性達や女性達からなる第三世代をリクルートした。
 戦前においては、このような人々はエリートの地位を希望することなどほとんどできなかったが、今や、あらゆる形の前進の道が彼らの前に拓かれたのだ。
 注視に晒されておだてられ、これらリクルートされた人々は、市場の変動、すなわち欠乏と惨めさの原因、は過去のものとなるであろうところの、「科学的」計画に立脚した社会の形成を助けた。
 このような、ユートピア的任務は、ヒットラーを偶像崇拝したことに悔悟の念を抱く、何千人もの若きドイツ人達には特別なアピール性があった。・・・
 共産党は労働者と農民という、社会の過半を代表しているがゆえに、社会民主主義を建設することは、実在の、そして想像上の、競争相手たる力の源泉を抹殺することを意味した。
 だから、東欧に駐留したソ連の役人達は、欧米の諸政府が、民主主義を押しつぶしたと彼らを非難した時に、怪訝な面持ちを示した。
 彼らの見解では、彼らの諸方法こそ、民主主義を確立する唯一のものだったからだ。
 もしボルシェヴィキの見解がかくも過度に単純なものであったとすれば、どうして、それは、教育を受けていない労働者達だけでなく、ベルトルト・ブレヒト(Bertolt Brecht)<(注1)>、ヴィテスラフ・ネズヴァル(Vitezslav Nezval)<(注2)>やヤロスワフ・イヴァシュキェヴィッチ.(Jarosław Iwaszkiewicz)<(注3)>といった指導的作家達までも信者(adherent)として獲得できたのだろうか。

 (注1)1898〜1956年。「ドイツの劇作家、詩人、演出家。・・・代表作に『三文オペラ』『肝っ玉お母とその子供たち』『ガリレイの生涯』など。・・・1933年<から>・・・ユダヤ人であった妻のヴァイゲルと長男・・・を連れてナチスの手を逃れて各国で亡命生活を送り、戦後は東ドイツに戻りベルリナーアンサンブルを設立、その死までの活動拠点とした。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AC%E3%83%92%E3%83%88
 (注2)1900〜58年。「チェコの詩人。「ポエティズム」という前衛的な流派から出発し、チェコでシュールレアリスム運動を展開した。」
http://www.weblio.jp/content/Vitezslav+Nezval
 (注3)1894〜1980年。「ポーランドの小説家、詩人。」
http://ejje.weblio.jp/content/Jaros%C5%82aw+Iwaszkiewicz

 この質問は難問なのであって、アップルバウムは、諸都市の再建、社会主義的ユーモア、秘密警察、民族浄化、そしてその他諸々のこと、といった彼女が興味を持つ諸問題同様に、それを知的洗練さでもって取り扱う。
 東欧の知識人達が欧米を眺めた時、彼らは、自由民主主義は少数者のための特権であると考える<欧米の>指導者達を、紛れもなく見つけた。
 <また、>彼らの地域のつい先だってまでの過去において、彼らは、(例えばドイツの場合は1933年に、)民主主義がファシズムへと道を譲り、<その後の戦争を経て、>ファシズムが今や社会主義によって征服されたことを見た。
 そして、彼らが東方を熟視した時、彼らは、ヒットラーを打ち破る矢面に立ち、歴史の最先端にいると主張しているところの、自分自身に自信を持った大国<たるソ連>を目撃した。
 彼らは、この体制の専制的容貌は好まなかったかもしれないが、それは前進していて、歴史の<肯定的>評決を疑問の余地なく受けているように見えた。・・・
 歴史学者のヤン・グロス(Jan Gross)<(注4)>は、スターリン主義体制を、破壊することはできるが真の力を生み出すことのできないところの、「台無しにする(spoiler)国家」と呼んだ。

 (注4)1947年〜。「ポーランド生まれのユダヤ系アメリカ人学者。<現在、>プリンストン大学・・・歴史学教授・・・グロスは、それまで信じられてきたドイツ人の仕業でなく、ポーランド人によって<も、戦中および戦後に>ユダヤ人虐殺が行われた<ことを明らかにしてきた。>・・・<これに対し、>ワルシャワ・ゲットー・ユダヤ人蜂起の指導者のうち現在まで存命しているユダヤ系ポーランド人の1人<による、>・・・「戦後のユダヤ人に対する暴力の大半は反ユダヤ主義とは関係なかった。あれは単なる無法者の行為だった。」<というような反論もある。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%AD%E3%82%B9

 1953年のスターリンの死から何週間も経たないうちに、自由選挙を要求して、チェコスロヴァキアと東独の街路に労働者達が繰り出した。
 その3年後に、ポーランドとハンガリーの彼らの同等者達が、知識人達を伴いつつ、その後に続いた。
 ブダペストでは、製鉄所の労働者達が巨大なスターリン像の基礎部分に発煙灯をくっつけ<たために>、この独裁者は地上に崩れ落ちた。
 世界は、彼ら<、すなわち労働者達、>の名前の下で統治していると主張していたところの諸体制に反対する目的での、これ以上に紛れのない国際的な労働者達の連帯を、恐らく見たことはあるまい。・・・」

3 終わりに

 この書評子が挙げている「知識人」は、すべて文学者であり、そもそも挙げるのが適切であったのか疑問ですが、初期の共産主義体制を支えたのは、若きあぶれ者(落ちこぼれ)と空想的ないし合理論志向的な知識人の不幸な野合であったとのこの書評子の示唆・・それは恐らくアップルバウム自身の示唆でもあるのでしょう・・には首肯できるものがあります。
 ところで、日本では、その全部または一部が赤軍の実力を背景にした共産党政府によって統治されたことがなかったこともあり、共産主義にかぶれた人は、戦前にせよ戦後にせよ、「空想的ないし合理論志向的な知識人」だけだった、というのが私の印象です。

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