太田述正コラム#5786(2012.10.16)
<『秘録陸軍中野学校』を読む(その7)>(2013.1.31公開)

 「第二期生からは、軍医や獣医も入学させ、採用人員もおおくなった・・・。・・・
 第三期生<で更に採用人員が多くなった。>・・・
 二期生には英、支、露語だったものが、三期生には露、支、マレー語と変わ<った。>・・・
 二期生の採用には・・・東大、京大などの官学出身者を多くとった・・・。・・・
 学生の種類をあげてみると、<1939>年末、陸軍大臣直轄学校となったとき、甲種学生。乙種学生。丙種学生。
 の三種にさだめた。そして、甲種学生には、士官学校本科出身者を入れることにし、乙種学生は予備士官学校在学者から選抜入学させることにしたのである。後方勤務要員として要請した第一期生も、この乙種にはいるわけで、中野教育の主体をなすものであった。・・・丙種学生は、陸軍教導学校(陸軍予備士官学校と同じころにできた下士官の養成学校)で、教育総監賞をもらった成績優秀な下士官から採用した。・・・
 参謀総長直轄学校となってから、三種類だった学生が、
 甲種、乙種、丙種、丁種、戊種
の五種類に改訂された<が基本は変わっていないので、説明は省略する。>」(224、226、231〜233、260)

→この英語からマレー語への変更は趣旨は、英語ができるのは当たり前だということであったものと私は解しています。(太田)

 「秘密学校だから、学校当局ではもちろん、校歌などつくりはしなかったが、第三期生の<二人がそれぞれ作詞>作曲して、ひそかに歌っていた「中野学校の歌」・・・の<歌詞は次のとおり。>
 一、赤魔の守りなにものぞ
   われに無敵の皇師(ぐん)ありて
   ウラルの峯に駒をたて
   ボルガ河畔に水飼わん
   北進健児の意気高し
 二、中華と誇る隣邦が
   治乱興亡五千年
   今聖戦に救わまし
   われらが腕(かいな)力あり
 三、南海月澄み風薫る
   南十字(サザンクロス)の星の下(もと)
   知らずや君よ白人の
   鉄鎖にうめく民ありて
   東の光求むるを
 四、西に南にまた北に
   行方(ゆくえ)さだめぬ同志らが
   炎と燃えて胸に抱く
   八紘一宇の大理想
   掲げて共にいざ征(ゆ)かん 」(227〜228)

→この歌詞には、帝国陸軍のコンセンサスが見事に凝縮されて表現されています。
 つまり、対赤露安全保障のために、支那を救い、更にその手段として東南アジアの植民地を解放する、というわけです。(太田)

 「わが陸軍の仮想敵国はロシアである。それは、北支事変が上海に飛び火して日支事変となり、南京が陥落して重慶へのがれた国民政府との和平が、ほとんど絶望となった<1939>年頃になっても変わらなかった。そのため参謀本部第八課の第十一班は、班長・・・を長とする秘密機関をつくって、ソ連戦にそなえての宣伝資料の研究、調査などをしていたのである。この機関には、滞露10年のソ連通XXはじめ共産党転向者など民間人も多く、また秘密機関の性質上、人の出入りがめだたない九段の実業家の邸宅を借りて事務所としたので「九段事務所」<(注19)>と称していた。この建軍以来の陸軍の伝統であった「南守北進」を急に「北守南進」に切り替え、南方戦の研究に着手することになったのは、<1940>年7月である。」(271)

 (注19)以下のような背景があったようだ。
 「<1938>年6月13日早朝、ソ連の秘密警察の内務人民委員部の極東地域長官のゲンリッヒ・リュシコフ・・・が国境を徒歩で越え、満州国に亡命してきた。・・・
 京城軍司令部での尋問のあとリュシコフは、東京の参謀本部から駆けつけた、本間雅晴作戦第二部長派遣の斯波中佐自身の護送で東京まで送られた。
 東京でリュシコフの尋問を担当したのは九段事務所である。それにはこういう経緯がある。本間第二部長の指示でその尋問は参謀本部内のソ連専門家の斯波中佐がおこなうことになった。斯波は将来の情報戦の重要性が持論で、リュシコフからソ連情報を徹底的に聞き出すと同時に、それを科学的合理的に分析する必要があると考え、この機会にそのためのソ連専門家だけの集団の組織化を上層部に提案した。それが参謀総長直属の組織として実現することになった。これが参謀本部第十八班だ。
 この組織は活動内容の機密を保つため、事業家の安藤徳三が九段南にもっていた空き家の邸宅を借り、そこを事務所とした。そのため、これ以降九段事務所の名で呼ばれることになる。この組織は後方勤務要員育成の任務も持ち、その育成所は中野にあった。そこは後年中野学校の名で呼ばれる。」
http://ameblo.jp/romance925/entry-11228255300.html
 「ゲンリフ・サモイロヴィッチ・リュシコフ(Genrikh Samoilovich Lyushkov。1900〜45年8月19日)はソ連秘密警察の幹部で、最高位(三等国家保安委員、中将相当)。「最後の役職は1937年7月31日に就任したNKVD極東局長であった。この時までにレーニン勲章を受章し、最高会議議員とソ連共産党中央委員になっていた。なお、亡命までの10ヶ月間で25万人を弾圧し、その内7千人を銃殺、20万人の朝鮮人を中央アジアに追放している。
 この時期に大粛清は頂点に達しようとし、それは粛清を実行していた秘密警察の人間にも波及していた。・・・リュシコフはモスクワに召喚されたが、戻れば逮捕されるものと強く疑われた。前任の・・・2人は、共に粛清されていた。1938年6月13日、日本が考えていたより強力な管区の軍事力を示す重要な機密書類を携えて日本が占領する満州に逃走<した。>・・・
 1939年1月にソチのスターリンに対する詳細な暗殺計画を持ち掛け計画し、日本はこの自殺行為の任務を遂行するロシア移民6人をソ連とトルコの国境から送り込もうとした。しかし、暗殺団にソ連のスパイが潜入していて、国境を越える試みは、失敗した。リュシコフは軍事顧問としても活動し<た。>・・・
 一部に・・・<ソ連軍侵攻という状況下、>タケオカという防諜部門の将校の手で大連で殺されたといわれている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%82%B7%E3%82%B3%E3%83%95

→帝国陸軍が、対赤露安全保障を至上命題としていたことは、ここのくだりからも明らかです。(太田)

 「<1940>年の「阪神防衛演習」・・・の演習期間は一週間で、陸軍省から、
「目標は各大工場、会社、造船所。攻撃実施部隊は陸軍省」
 と、第四師団に通告しただけ<だった。>・・・
 この演習は、攻撃側の学生はほとんどつかまらず、防衛側の完敗に終わった。・・・
 <1941>年の、第三期生の急襲演習では、・・・小倉駅と郊外大工場の偽装爆破に成功<し、>・・・八幡製鉄の・・・溶鉱炉偽装爆破に<も>成功した・・・。」(245、248、252、254)

→引用しませんでしたが、学校側のイニシアティヴで、陸軍省に連絡せずに、学生を同省に侵入させて多数の秘文書を盗ませて同省を慌てさせてこともあった記されていますが、面白いですね。(太田)

(続く)