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太田述正コラム#5770(2012.10.8)
<『秘録陸軍中野学校』を読む(その2)>(2013.1.23公開)
「第一次世界大戦の初期から・・・ドイツは、運転手・下男・ボーイ・女中・子守のはてにいたるまで、老若男女4万人のスパイを、開戦前、すでにフランス国内の各階層に入りこませていた。」(22)(34にも同様の記述がある。)
→ネット上で、裏付けを発見できませんでした。(太田)
「戦前に日本へ来て帝国大学で教鞭をとっていたサー・アルフレッド・ユーイング<(注5)>という、物理・電気工学で世界有数の英国の学者がいた。帰国するまで、だれ一人、この世界的学者がスパイだとは気づかず、帰国に際して開かれた帝国ホテルのお別れパーティーには、日本朝野の名士数百名が参列して博士の帰国を惜しんだが、なんと、帰国したとたんに英海軍情報部の局長の椅子にすわったので(さてはスパイだったか)と、日本の陸海軍や政府までが青くなった事件もある。」(23)
(注5)Sir James Alfred Ewin。1855〜1935年。 日本時代は「物理・電気工学」ではなく、「機械工学」の教授。1878年にお雇い外国人として日本へ。1883年に英国に帰国してからは、故郷のスコットランドでダンディー市に新設された大学で、次いでケンブリッジ大学で教鞭をとった。そして、1903年に、英海軍省に新設された海軍教育部長(Director of Naval Education)に就任。そして、第一次世界大戦が始まった1914年に英海軍省情報部(Directorate of Naval Intelligence)の海軍暗号解読課(Admiralty codebreaking department)の課長に就任し、大戦中の1916年にエジンバラ大学副学長に転出した。
http://en.wikipedia.org/wiki/James_Alfred_Ewing
→どう見てもユーイングが日本に送り込まれたスパイなどではなかったと思われるところ、そもそも、畠山の記述は誤りだらけであり、彼が伝聞だけでウラをとらずにこの本を書いていることがはっきりしました。(太田)
「「陸軍中野学校」<の>最初の狙いは、ここで要請したものを商人や技師として各国に入りこませ、10年、20年と住みつかせて、その国の情報を送らせる、いわゆる「常置諜者」または「残置諜者」といわれるものを育てあげるのが目的だった。
ところが翌年、第二次世界大戦が起こり、翌々年は太平洋戦争がはじまって先のことを考えている余裕がなくなり、つぎつぎに戦線へ送り出してしまうことになった・・・」(24)
→この本を読み進めていくと、畠山が何人もの中野学校卒業生達に会って取材をしたことは明らかであり、中野学校そのものの記述については、大きな誤りはない、と達観して、先を急ぐことにしましょう。(太田)
「諜報の技術を分析指導した最初のものは「孫子」である。
その「孫子兵法」の分類によれば、間諜には「郷間、内間、反間、死間、生間」の5つがあり、「郷間、内間」は「場所的情報提供者」(現地住民などの情報提供者や内通者)で、「反間」とは、いまでいう「二重スパイ」である。「死間」とは、敵を欺くために、あやまった情報を提供する目的で派遣されるものだが、これは情報がいつわりとわかれば敵に殺されるから「死間」とよぶ。「生間」とは、敵地にはいりこんで情報を入手し、生きて帰って報告する斥候で、この分類は今日でもほとんど変わっていない。<(注6)>
(注6)「『孫子』十三、用間(間者の使い方) 間者(スパイ)には五種類がある。郷間、内間、反間、死間、生間である。この五間を共に敵に知られずに使いこなすことは、君主としての奥義であり、宝である。郷間には敵国の住民を使う。内間は敵の役人を使う。反間は敵の間者を寝返らせて使う。死間は死を覚悟で潜入させる。生間は生きて必ず情報を伝えさせる。
間者には全軍で最も信頼のおける人物をあて、最高の待遇を与え、その行動は絶対に秘密でなければならない。間者には優れた智恵と人格をそなえた人物でなければ使ってはならない。また、繊細な配慮がなければ間者を使う実益はないのだ。どんな些細な情報でももらすことがあってはならない。
間者の集めた情報が外部にもれたとわかったら、聞いた者言った者の双方を殺さなければならない。」
http://doo.fc2web.com/sonsi/sonnsi13-2.html
孫子はさらに、対情報、心理戦、欺瞞術、保安術、捏造者などについても書いていて、すでにこの時代にこれを説いたことは、驚嘆に値する。」(33)
「日本政府は、英国と同盟を結んでいる関係から、<日露戦争に係る1905年8月〜9月のポーツマス>講和会議にのぞむ条件の最大限度と最小限度について、電信で打ち合わせていた・・・。
ところが、日本から英国へ送る電報は、長崎以遠は外国(デンマーク系)の大北電信会社<(注7)>に託送されていたのである。大北電信会社は、シベリアの陸線をロシアから借りていたので、ロシアとは密接な関係があるうえ、ロシア皇帝が大北電信の大株主だったから、電信の内容はロシア側へ筒抜けであった。したがって、最低の条件を知っている<ロシア全権の>ウィッテは、いくら押しまくっても講和会議決裂の心配がないことを見越していて、わが国にとっては最悪の最低条件でがんばりぬいたのである。」(43)
(注7)Great Northern Telegraph Company。「1871年には・・・長崎〜上海、長崎〜ウラジオストク間の海底電信線(海底ケーブル)を敷設。欧亜陸上電信線経由で日本の国際電報事業を開始し、その後1883年に呼子〜釜山間の海底電信線も敷設。日本政府はそれを受けて大北電報会社に20年間の海外通信事業の独占権を与えた。日本政府は海底電信線の買収や独自の敷設(1915年の長崎〜上海間。大北通信に日本側収入の64.6%を支払う条件であった)なども行ったが、国際電信の大部分は大北電報会社の運営する電信線に依存することとなり、日本が大北電報会社に対し支払う通信料が膨大なものとなった。1940年になって初めて大北電報会社の海底ケーブル陸揚げ権と運用権を回収し、対外通信自主権が確立することとなった。
しかし1955年の戦後賠償の一環としての「大北電信会社請求権解決取極」などもあり、結局日本の対外電報通信事業の独占権は1969年まで継続した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8C%97%E9%9B%BB%E4%BF%A1%E4%BC%9A%E7%A4%BE
→「電信の内容はロシア側へ筒抜けであった」については、(当然のことながら講和会議の時点ではまだ日露戦争は終わっていなかったところ、)下掲の史実だけに照らしても、誤りであると断定できます。
「日露戦争時、大北電信会社線はどうなったのか、と言うと、長崎〜ウラジオストク回線は、開戦と同時に日本側が切断し、かつその一部は本土〜対馬や対馬〜朝鮮半島連絡用に流用しました。
これは日本国内にいるロシアのスパイから情報がロシア側に流れるのを防ぐためで有り、またケーブルの不足を補うためでもありました。・・・
また、長崎〜呼子〜壱岐〜対馬〜釜山回線に関しては、長崎〜呼子〜対馬までは日本が買収済でしたので、対馬までの連絡には用いる事が出来ました。
但し、大北電信会社とは関係の深い回線ですから、途中の傍受を恐れ、軍用通信は総て別の臨時回線を用いていました。・・・
<他方、>日本政府とCommercial Pacific社との間で、東京〜グアム間海底ケーブル敷設に関する協定が締結され<た>・・・太平洋横断海底ケーブル<が>・・・<1905年>8月に竣工。1日にはセオドア・ルーズベルト大統領と明治天皇との間で、祝賀電文の遣り取りがありました。これが・・・日米直接通信の第1号となっています。」
http://s.webry.info/sp/nemuihito.at.webry.info/201106/article_5.html
「ロシア全権大使<セルゲイ・>ウィッテは、8月2日にニューヨークに到着し」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%84%E3%83%9E%E3%82%B9%E6%9D%A1%E7%B4%84
ているので、講和会議の間の日本全権の小村寿太郎と本国政府との間の通信は、太平洋横断海底ケーブルを使って行ったはずであり、また、当然、暗号を使用したことでしょう。(太田)
(続く)
ニコニコ:http://www.ohtan.net/video/
<『秘録陸軍中野学校』を読む(その2)>(2013.1.23公開)
「第一次世界大戦の初期から・・・ドイツは、運転手・下男・ボーイ・女中・子守のはてにいたるまで、老若男女4万人のスパイを、開戦前、すでにフランス国内の各階層に入りこませていた。」(22)(34にも同様の記述がある。)
→ネット上で、裏付けを発見できませんでした。(太田)
「戦前に日本へ来て帝国大学で教鞭をとっていたサー・アルフレッド・ユーイング<(注5)>という、物理・電気工学で世界有数の英国の学者がいた。帰国するまで、だれ一人、この世界的学者がスパイだとは気づかず、帰国に際して開かれた帝国ホテルのお別れパーティーには、日本朝野の名士数百名が参列して博士の帰国を惜しんだが、なんと、帰国したとたんに英海軍情報部の局長の椅子にすわったので(さてはスパイだったか)と、日本の陸海軍や政府までが青くなった事件もある。」(23)
(注5)Sir James Alfred Ewin。1855〜1935年。 日本時代は「物理・電気工学」ではなく、「機械工学」の教授。1878年にお雇い外国人として日本へ。1883年に英国に帰国してからは、故郷のスコットランドでダンディー市に新設された大学で、次いでケンブリッジ大学で教鞭をとった。そして、1903年に、英海軍省に新設された海軍教育部長(Director of Naval Education)に就任。そして、第一次世界大戦が始まった1914年に英海軍省情報部(Directorate of Naval Intelligence)の海軍暗号解読課(Admiralty codebreaking department)の課長に就任し、大戦中の1916年にエジンバラ大学副学長に転出した。
http://en.wikipedia.org/wiki/James_Alfred_Ewing
→どう見てもユーイングが日本に送り込まれたスパイなどではなかったと思われるところ、そもそも、畠山の記述は誤りだらけであり、彼が伝聞だけでウラをとらずにこの本を書いていることがはっきりしました。(太田)
「「陸軍中野学校」<の>最初の狙いは、ここで要請したものを商人や技師として各国に入りこませ、10年、20年と住みつかせて、その国の情報を送らせる、いわゆる「常置諜者」または「残置諜者」といわれるものを育てあげるのが目的だった。
ところが翌年、第二次世界大戦が起こり、翌々年は太平洋戦争がはじまって先のことを考えている余裕がなくなり、つぎつぎに戦線へ送り出してしまうことになった・・・」(24)
→この本を読み進めていくと、畠山が何人もの中野学校卒業生達に会って取材をしたことは明らかであり、中野学校そのものの記述については、大きな誤りはない、と達観して、先を急ぐことにしましょう。(太田)
「諜報の技術を分析指導した最初のものは「孫子」である。
その「孫子兵法」の分類によれば、間諜には「郷間、内間、反間、死間、生間」の5つがあり、「郷間、内間」は「場所的情報提供者」(現地住民などの情報提供者や内通者)で、「反間」とは、いまでいう「二重スパイ」である。「死間」とは、敵を欺くために、あやまった情報を提供する目的で派遣されるものだが、これは情報がいつわりとわかれば敵に殺されるから「死間」とよぶ。「生間」とは、敵地にはいりこんで情報を入手し、生きて帰って報告する斥候で、この分類は今日でもほとんど変わっていない。<(注6)>
(注6)「『孫子』十三、用間(間者の使い方) 間者(スパイ)には五種類がある。郷間、内間、反間、死間、生間である。この五間を共に敵に知られずに使いこなすことは、君主としての奥義であり、宝である。郷間には敵国の住民を使う。内間は敵の役人を使う。反間は敵の間者を寝返らせて使う。死間は死を覚悟で潜入させる。生間は生きて必ず情報を伝えさせる。
間者には全軍で最も信頼のおける人物をあて、最高の待遇を与え、その行動は絶対に秘密でなければならない。間者には優れた智恵と人格をそなえた人物でなければ使ってはならない。また、繊細な配慮がなければ間者を使う実益はないのだ。どんな些細な情報でももらすことがあってはならない。
間者の集めた情報が外部にもれたとわかったら、聞いた者言った者の双方を殺さなければならない。」
http://doo.fc2web.com/sonsi/sonnsi13-2.html
孫子はさらに、対情報、心理戦、欺瞞術、保安術、捏造者などについても書いていて、すでにこの時代にこれを説いたことは、驚嘆に値する。」(33)
「日本政府は、英国と同盟を結んでいる関係から、<日露戦争に係る1905年8月〜9月のポーツマス>講和会議にのぞむ条件の最大限度と最小限度について、電信で打ち合わせていた・・・。
ところが、日本から英国へ送る電報は、長崎以遠は外国(デンマーク系)の大北電信会社<(注7)>に託送されていたのである。大北電信会社は、シベリアの陸線をロシアから借りていたので、ロシアとは密接な関係があるうえ、ロシア皇帝が大北電信の大株主だったから、電信の内容はロシア側へ筒抜けであった。したがって、最低の条件を知っている<ロシア全権の>ウィッテは、いくら押しまくっても講和会議決裂の心配がないことを見越していて、わが国にとっては最悪の最低条件でがんばりぬいたのである。」(43)
(注7)Great Northern Telegraph Company。「1871年には・・・長崎〜上海、長崎〜ウラジオストク間の海底電信線(海底ケーブル)を敷設。欧亜陸上電信線経由で日本の国際電報事業を開始し、その後1883年に呼子〜釜山間の海底電信線も敷設。日本政府はそれを受けて大北電報会社に20年間の海外通信事業の独占権を与えた。日本政府は海底電信線の買収や独自の敷設(1915年の長崎〜上海間。大北通信に日本側収入の64.6%を支払う条件であった)なども行ったが、国際電信の大部分は大北電報会社の運営する電信線に依存することとなり、日本が大北電報会社に対し支払う通信料が膨大なものとなった。1940年になって初めて大北電報会社の海底ケーブル陸揚げ権と運用権を回収し、対外通信自主権が確立することとなった。
しかし1955年の戦後賠償の一環としての「大北電信会社請求権解決取極」などもあり、結局日本の対外電報通信事業の独占権は1969年まで継続した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8C%97%E9%9B%BB%E4%BF%A1%E4%BC%9A%E7%A4%BE
→「電信の内容はロシア側へ筒抜けであった」については、(当然のことながら講和会議の時点ではまだ日露戦争は終わっていなかったところ、)下掲の史実だけに照らしても、誤りであると断定できます。
「日露戦争時、大北電信会社線はどうなったのか、と言うと、長崎〜ウラジオストク回線は、開戦と同時に日本側が切断し、かつその一部は本土〜対馬や対馬〜朝鮮半島連絡用に流用しました。
これは日本国内にいるロシアのスパイから情報がロシア側に流れるのを防ぐためで有り、またケーブルの不足を補うためでもありました。・・・
また、長崎〜呼子〜壱岐〜対馬〜釜山回線に関しては、長崎〜呼子〜対馬までは日本が買収済でしたので、対馬までの連絡には用いる事が出来ました。
但し、大北電信会社とは関係の深い回線ですから、途中の傍受を恐れ、軍用通信は総て別の臨時回線を用いていました。・・・
<他方、>日本政府とCommercial Pacific社との間で、東京〜グアム間海底ケーブル敷設に関する協定が締結され<た>・・・太平洋横断海底ケーブル<が>・・・<1905年>8月に竣工。1日にはセオドア・ルーズベルト大統領と明治天皇との間で、祝賀電文の遣り取りがありました。これが・・・日米直接通信の第1号となっています。」
http://s.webry.info/sp/nemuihito.at.webry.info/201106/article_5.html
「ロシア全権大使<セルゲイ・>ウィッテは、8月2日にニューヨークに到着し」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%84%E3%83%9E%E3%82%B9%E6%9D%A1%E7%B4%84
ているので、講和会議の間の日本全権の小村寿太郎と本国政府との間の通信は、太平洋横断海底ケーブルを使って行ったはずであり、また、当然、暗号を使用したことでしょう。(太田)
(続く)
ニコニコ:http://www.ohtan.net/video/
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