太田述正コラム#5768(2012.10.7)
<『秘録陸軍中野学校』を読む(その1)>(2013.1.22公開)

1 始めに

 読者のTUさんから一連の本の提供を受けたところ、まず、畠山清行著・保坂正康編『秘録陸軍中野学校』(新潮文庫)(2003年)から紹介を始めたいと思います。
 なお、この本は、畠山が1971年に上梓した本を原本として、保坂が再編集し、諸所に脚注を添付したものです。
 畠山の原本には脚注的なものは一切ついていなかったと思われるところ、保坂が気付いたものについては、誤りの指摘がなされていますが、それ以外の箇所についても、うのみにはできない、ということを念頭に置いて読み進めることにしました。
 (実は他の本から読み始めたのですが、翻訳本は日本語自体がどことなく読みにくいですし、これは日本語本についても同じでしたが、久しぶりに縦書きの文章を読むのがつらい感じが続いた後、ようやく縦書きに慣れてきた時にこの畠山の本に遭遇した、という経緯があります。)
 ちなみに、畠山は、1905年に北海道の石狩の網本で町長をしていた父親の下に生まれますが、父親の死後家運が傾き、旧制中学を中退後、東京に出奔し、アナキズム運動に身を投じ、その後、実録作家として活躍し、一時茨城県結城町の町議を務め、1990年に肺癌で死去した(680〜689)、という経歴の人物です。

2 『秘録陸軍中野学校』より

 「・・・諜報技術を教える・・・機関<が>・・・学校というまとまった形のものとなり、かつ、軍の直轄として発足したのは、おそらく『陸軍中野学校』<(1938年創立)>が世界最初のものではないだろうか。」(13〜14)

→仮に事実だとすればの話ですが、これは、(かねてから私が帝国海軍やとりわけ外務省に比して高く評価してきているところの、)帝国陸軍の勲章の一つということになるでしょうね。(太田)

 「諸葛孔明の軍学、いわゆる「八問遁甲」<(注1)>・・・法に、日本の智将がそれぞれ独特の方法を加えたのが「甲州流」<(注2)>あるいは「真田流」<(注3)>というような軍学になったのだが、「八問遁甲」の研究が盛んになれば、将来、徳川の天下が危うくなるとみて、その一部分を陰陽学(易)に流し、ほとんど骨抜きにしてしまったのである。

 (注1)奇門遁甲(きもんとんこう)。「中国の占術。・・・黄帝が蚩尤と戦っていた時に天帝から授けられたとされる。周の呂尚が改編し前漢の張良が完成させ、三国時代の蜀の諸葛亮なども用いたとされるが、詳細は不明で呪術と絡めて語られることもある。二十四節気や干支から算出される遁甲局数を基にして遁甲盤を作成して占う。遁甲盤の構成要素の一つである八門を重要視することから八門遁甲(はちもんとんこう)とも呼ばれる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%87%E9%96%80%E9%81%81%E7%94%B2
 (注2)甲州流軍学。「甲斐・武田氏の戦術が理想化され、江戸時代に大成された兵学(軍学)の一つ。武田流軍学、甲州流兵法、信玄流兵法とも呼ばれる。・・・『武教全書』を著した山鹿素行も甲州流及び北条流軍学を学んだ。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E5%B7%9E%E6%B5%81%E8%BB%8D%E5%AD%A6
 (注3)真田流軍学。「江戸時代に光明院派という真田流軍学があり、糀町光明院という真田幸村の落とし胤を名乗る人物が始めたという(奉公人という説もあり)。光明院は真田の関係者なので武士になれずに僧侶になって軍学を教えていた。」
http://tikugo.com/osaka/yomoyama/jingo/sanada-gungaku.html

→畠山の言う「孔明の軍学=八問遁甲」説は誤りのようですし、徳川に係る後段についても、裏付けをネット上で見つけることはできませんでした。(太田)

 つぎに忍者だが、これも諸大名がかかえて諜報を集めるということになれば、幕府の弱点や痛いところをさぐられる心配がある。そこで、伊賀者・甲賀者の忍者をすべて幕府の直属として「お庭番」<(注4)>という組織をつくりあげる一方、御用学者に銘じて「武士道」なるものを盛んにとなえさせた。つまり「内緒で人の欠点や弱点を探ることは、武士にあるまじき卑怯な行為である」とうたいあげたのである。・・・」(20〜21)

 (注4)御庭番(おにわばん)。「江戸時代の第8代将軍・徳川吉宗が設けた幕府の役職。将軍から直接の命令を受けて秘密裡に諜報活動を行った隠密をさした。・・・御庭番は、江戸幕府の職制では大奥に属する男性の職員・広敷役人のひとつで、若年寄の支配だった。彼らは江戸城本丸に位置する庭に設けられた御庭番所に詰め、奥向きの警備を表向きの職務としていた。時に将軍の側近である御側御用取次から命令を受け、情報収集活動を行って将軍直通の貴重な情報源となった。また、日常的に大名・幕臣や江戸市中を観察し、異常があれば報告するよう定められていたといわれる。
御庭番は、庭の番の名目で御殿に近づくことができたので、報告にあたっては御目見以下の御家人身分であっても将軍に直接目通りすることもあり、身分は低くても将軍自身の意思を受けて行動する特殊な立場にあった。
 御庭番はその特殊な任務のために、功績を挙げて出世する機会に恵まれ、中には幕末に初代新潟奉行・長崎奉行を歴任した川村修就、勘定奉行・外国奉行を歴任し、日米修好通商条約批准のため使節副使として<米国>に渡った村垣範正のような人物もいる。・・・
 吉宗が御庭番を新設した理由としては、家康以来幕府に仕えてきた伊賀者、甲賀者が忍者としての機能を失い、間諜として使い物にならなくなったことや、傍流の紀州家から将軍家を継いだ吉宗が、代々自分の家に仕えてきて信頼のおける者を間諜に用いようとしたことが理由として挙げられる。また、幕府の公式の監察官だった大目付が後代には伝令を主たる職務とする儀礼官になったこともあり、将軍直属の監察能力が形骸化したため、これを補って将軍権力を強化する意味あいもあった。・・・
 御庭番が幕臣としての身分を隠し、遠国に実情を調査に出かける旅行のことを「遠国御用」という。・・・遠国御用のたびに立ち寄ることになる京都・大坂には、毎回御用を命ぜられた御庭番が立ち寄る御用達町人が、御庭番の隠密調査を支援するための一種の現地スタッフとして配置されており、御庭番は初めての御用でも、彼らの助けを得て無事に任務を果たすことができた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%BA%AD%E7%95%AA

→畠山の「伊賀者・甲賀者→お庭番」論についても、誤りであるわけです。
 また、そもそも、江戸時代に幕府が軍学、就中諜報活動を抑圧した、という彼の見方は誤りであり、むしろその逆ではないでしょうか。
 幕府も各藩も抑圧しなかったからこそ、日露戦争の時の諜報活動の成功(後出)や中野学校の創立がある、と私自身は考えています。(太田)

(続く)