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太田述正コラム#5756(2012.10.1)
<イギリスにおける7つの革命未満(その6)>(2013.1.16公開)

 以上の話はこれまでの通念にいささか反しているかもしれないが、軍人化したチャーチルがドック地区を兵士達に包囲させてジョージ5世<(注25)(コラム#1376、1893、2305、2939、3555、3557、3785、3927、3977、4095、4402、4508、4530、4544、4685、4885、5042、5044、5046、5165、5474、5555、5559)>をぞっとさせたという話もまたそうだろう。

 (注25)過去コラムでジョージ5世が言及された回数の多さにはいささか驚いた。彼の君主としての傑出性を示すものだ、と思う。

 チャーチルは、今や、「全街路にいる生きている者全員を殺せるだけの火砲が集まり、部隊には火蓋を切る白紙委任状が与えられている」と宣言した。
 マクリンは、ここで<チャーチルに対して>「ファシスト」という言葉を使っているが、当然のことだろう。
 しかし、首相のスタンレー・ボールドウィンに関しては、マクリンは、自分の内閣の中の極端主義者達の日増しに強硬になるラインを勝手に抱懐する人物に過ぎなかった、と見ている。
 ボールドウィンは、そもそもひねくれ者だったが、カンは良かったはずなのに、自分のカンを次第に信じなくなる、という下卑たひねくれ者に堕してしまった、というのだ。
 この魅惑的な数章から浮かび上がってくるのは、社会的変革(transformation)の失敗では必ずしもない。
 <そもそも、>左翼たる坑夫達は、社会的変革など要求しなかった。
 <ゼネストが、社会的変革には至らなくても、せめて>理性的な結果さえもたらさなかったのは、階級的パニック<が発生したの>と当局たる人々の感受性の完璧な欠如のせいだ。
 もっとも、国王は名誉にもその例外に属したが・・。」(B)

 (9)結論

 「・・・1381年のワット・タイラーの農民反乱や1451年のジャック・ケードの反乱といった、初期における革命的熱情は、マルクス主義者達が後に「革命意識」と呼んだものの欠如を特徴とする。
 というのも、反徒達は君主制を超える統治の自然形態を思い描くことができず、国王の悪しき顧問達の上流階級的腐敗を取り除くことさえできれば、自然秩序が回復されると信じていたからだ。・・・
 おおまかに言えば、これらは、革命家達の側の無能であり自傷行為であり、エリート達の側の悪しき信条、操作、異常なほどの幸運、そして容赦なき弾圧<、の論理的帰結>だった。・・・」(D)

 (10)批判

 「・・・例えば、武装した「恩寵の巡礼」は、ヘンリー8世自身の兵士達の数をはるかに上回っていたし、ロンドンにおける当局は1745年にジェームス党がロンドンに向かって行軍してきた時にもうちょっとでパニックになるところだった。
 しかし、これらについての説明はうまくなされているものの、この本の全般的な議論は問題なしとしない。
 マクリンの「革命的瞬間」の観念には、時々、誰もが革命的意図など実際には持っていなかったように見える場合も含まれている。
 例えば、1926年のゼネストに際して、組合の人々は、「改革者達の中で最も穏健」だった。
 にもかかわらず、マクリンは、例えば、引き金を喜んで引いたであろう兵士達によってスト参加者達が撃たれる、といったように物事が暗転していたならば、本当の革命が突然生起したかもしれない、と指摘する。
 <しかし、>誰がそれを率い、その場合、彼らの目的は何だったというのだろうか。
 <マクリンは、>これらを、はっきり説明することはない。・・・」(C)

3 終わりに

 イギリス(スコットランドとの合邦以降の英国を含む)においては、被支配者達が体制変革(政府の転覆)を目指した暴動ないし反乱を行ったことが少なく、またかかる数少ない暴動ないし反乱においても、体制変革に成功した事例が皆無であることが改めて示されたわけですが、それは結局、アルフレッド大王にまで遡るところの、政府への信頼感と、かかる信頼感に応えてきた、というか、応えてこざるをえなかった歴代政府(コラム#3954)の賜物である、と言えるでしょう。
 こんな国は、世界広しというども、イギリスと日本くらいだ、と申し上げた(同上)ことがあります。

 それにつけても呆れるのは、日本においては、その歴史を通じ、被支配者達が体制変革(政府の転覆)を目指した暴動ないし反乱そのものが、ただの一度も起こっていないことです。
 例えば、島原の乱も、かつて(コラム#1736で)示唆したような宗教原理主義的な体制変革を目指したものなどでは全くなく、単に、「領民が、百姓の酷使や過重な年貢負担に窮し」て、一地方領主に対して起こした反乱に過ぎませんでした。
 しかも、「この反乱には有馬・小西両家に仕えた浪人や、元来の土着領主である天草氏・志岐氏の与党なども加わっており、」百姓一揆とも言えませんでした。
 (事実関係は、下掲に拠った。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E4%B9%B1 )
 ちなみに、江戸時代の百姓一揆は、「強訴や逃散など<の>・・・闘争の形態が主流<であり、現に、>豊臣政権時代より領内の騒擾を理由とした大名改易のケースが現れ<てい>たため、「領内が治まっていない」ことを公然と示すことができれば、領主側に匹敵する武力を集めずとも、責任問題を恐れる領主や代官への重大な圧力となった」ものです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%8F%86
 つまり、百姓一揆は、基本的に、内乱はもとより、暴動ですらなかった、ということです。
 ただし、「江戸時代後期の天明・天保年間・・・の頃には無宿など「悪党」と呼ばれる集団に主導され、武器を携行し打ち壊しのみならず、強盗や放火など百姓一揆の作法から逸脱<した>行為を行う形態の<暴動的な>一揆も見られ」るようになったところです。(同上) 
 以上から、論理的には、(あくまでも相対的な話ですが、)日本は、それぞれの時代において、その政府が、おおむね、異常なほどの善政を敷いてきたところの、世界に他に例をみない国であった可能性が高い、ということになるのではないでしょうか。

(完)

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