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太田述正コラム#5750(2012.9.28)
<イギリスにおける7つの革命未満(その5)>(2013.1.13公開)

 (8)1926年のゼネスト(General Strike of 1926)

 「・・・1926年のゼネストに際し、ボールドウィン(Baldwin)<首相(注17)>は、労働組合を打ち破るために、彼がてなずけたBBCの助け及び軍隊の誇示とあいまって、中産階級を動員した。・・・」(D)

 (注17)Stanley Baldwin, 1st Earl Baldwin of Bewdley(1867〜1947年)。英首相:1923〜24年、1924〜29年(以上、保守党内閣)、1935〜37年(挙国一致内閣)。「ハーロー校とケンブリッジ大学・・・で学ぶ。20年近く家業にたずさわった後、1908年下院議員となり、保守党に属した。」第二次内閣の時に第五次選挙法改正を行い、男女平等選挙を実現した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%B3

 「・・・マクリンは、急進的変化ではなく妥協を求める英国人の傾向についても、辛辣な諸観察結果を提示する。
 すなわち、「二大政党制は、党機関が民主主義的代表制の空洞化と、ローマ皇帝よりも強い公的権力を首相が持つという異様な現象、とをもたらした」と彼は記す。
 ゼネストの間に、「彼らが代表しているはずの社会諸集団の苦境を軽減するかもしれない」具体的諸提案を提示する代わりに、「分かりきったことや陳腐なこと」を調合するといった形ばかりの支援しか労働者達に提供できなかったところの、ラムゼイ・マクドナルド(Ramsay MacDonald)<(注18)>の労働党の失敗について、彼は強烈に記す。・・・」(A)

 (注18)James Ramsay Macdonald(1866〜37年)。英首相:1924年、1929〜1935年。スコットランド出身で[農場労働者と女中の間の非嫡出子で無学歴に等しかったが、]英国史上初の労働党出身の首相になった。「1924年、自由党の閣外協力で史上初の労働党政権の首相兼外相となるが、ジノヴィエフ書簡などの影響で総選挙に敗れ、9ヵ月で退陣した。1929年、第2次の労働党単独内閣を組閣する。1931年から1935年までは、労働党を除く挙国一致内閣の首相を務めた。1931年には非常関税法を制定、金本位制を停止し、またウェストミンスター憲章を制定してイギリス連邦を発足させた。経済政策では恐慌対策で党の方針に反して離党し、1931年には非常関税法、1932年には保護関税法を制定、スターリングブロック経済を築いた。外交ではロンドン会議でロンドン海軍軍縮条約を成立させた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%A0%E3%82%BC%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%89%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%89
http://en.wikipedia.org/wiki/Ramsay_MacDonald ([]内)

 「・・・1926年のゼネスト<についての叙述>は、<この本では>仕掛け花火<のような構成>になっている。
 <叙述は>4つの章、120頁に及ぶけれど、閃光を放つべき瞬間に線香花火的に終わってしまう。
 それは、本質的には、賃下げ、失業、馬鹿な雇用主達と醜い政府による屈辱、が重なったことへの自衛的ストであったところ、<最終的には>敗北したのだ。
 その根源は、経済問題、すなわち、高過ぎた英ポンド、愚鈍なる金本位制への復帰、余りにも長く管理が蔑にされてきたために、機械化が遅れ、<ドイツの>ルール(Ruhr)地方に比べて生産性が低く完璧に競争力がない鉱山、にあった。
 この物語に欠かせない人物達が見事に描かれる。
 チャーチルの<双極性障害の>発作、内相のジョインソン=ヒックス(Joynson-Hicks)<(注19)>による日に焼けて浅黒い警備員達の活用<、等々>。

 (注19)William Joynson-Hicks, 1st Viscount Brentford(1885〜1932年)。由緒あるパブリックスクールであるMerchant Taylors' School卒の事務弁護士(solicitor)出身の保守党の政治家。保健相(1923〜24年)、内相(1924〜29年)を歴任。
http://en.wikipedia.org/wiki/William_Joynson-Hicks,_1st_Viscount_Brentford

 労働者側については、礼服を着た(dress-suited)鉄道員達の指導者たるJH・トマス(JH Thomas)はロンドンデリー(Londonderry)卿<(注20)>とお近づきになれたことで有頂天になった<、等々>。

 (注20)Charles Stewart Henry Vane-Tempest-Stewart, 7th Marquess of Londonderry(1878〜1949年)。イギリス系アイルランド貴族。イートン、陸士卒。第一次世界大戦で下院議員でありつつ英陸軍大尉として従軍。事実上の初代労相(First Commissioner of Works。1928〜29年、1931年)、空軍相(1931〜35年)、貴族院議長、国璽尚書を歴任。
http://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Vane-Tempest-Stewart,_7th_Marquess_of_Londonderry

 この戦闘<的ゼネスト>は、革命に終わったかもしれない一方で、穏健にして寛大な閣僚達がいたならば公正な決着に至っていたかもしれない。
 それが失敗に帰したのは、90年前の階級間の亀裂を反映している。
 我々は、ベアトリス・ウェッブ(Beatrice Webb)<(注21)>の書簡集・・・を提供されている。

(注21)Martha Beatrice Webb, Lady Passfield (旧姓:Potter。1858〜1943年)。イギリスの社会学者、経済学k者、釈迦主義者にして社会改革家。団体交渉(collective bargaining)という言葉は彼女がつくった。夫のシドニー・ウェッブ(後にパスフィールド男爵)とともに、LSEを創立し、フェビアン協会で中枢的役割を果たした。スターリンを擁護。
http://en.wikipedia.org/wiki/Beatrice_Webb

 その中で、坑夫達の指導者のAJ・クック(AJ Cook)<(注22)>について、彼女は、「彼は、しまりのない(loosely-built)、醜い容貌の男であり、低いカーストの人間のようで、熟練の技術者(artisan)タイプでは全くなく、どちらかというと農業労働者みたいな、要するに見事な白痴のように見えた」と言っている。

 (注22)Arthur James Cook(1883〜1931年)。炭坑夫にして労働組合の指導者。第一次世界大戦に反対して3か月収監される。1924年から31年まで、英国坑夫連盟(Miners’ Federation of Great Britain)の書記長。英共産党と連携した。
http://en.wikipedia.org/wiki/A._J._Cook_(trade_unionist) ←写真参照

 クックは、極端論者で共産主義者だと考えられていたが、そのどちらでもなかった。
 彼は情熱的であったけれど、労働組合会議(TUC=Trade Union Congress)<(注23)>の中道的書記(centrist apparatchik)であったウォルター・シトリン(Walter Citrine)<(注24)>が喝破したように、「完璧に高潔な人物」だった。

 (注23)英国で、1864年にできた、世界最初の労働組合の全国組織。米国にアメリカ労働総同盟(AFL)ができたのは、その実に22年後。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%B4%E5%83%8D%E9%81%8B%E5%8B%95
 (注24)Walter McLennan Citrine, 1st Baron Citrine(1887〜1983年)。労働組合指導者にして政治家。電気工出身。1926年にTUCの書記長にあり、爾後20年間その職にあった。1928年から45年まで国際自由労連(International Confederation of Free Trade Unions)の議長も務めた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Walter_Citrine,_1st_Baron_Citrine

 16歳の時に、愚かな有力者によってその意見を咎められ、馬用の鞭で叩かれた彼は、情熱を抱く権利があったのだけれど、アーサー・クックの手におえない雄弁さは、常に妥協志向を伴っていたのだ。

(続く)

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