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太田述正コラム#5744(2012.9.25)
<イギリスにおける7つの革命未満(その2)>(2013.1.10公開)

 (2)農民反乱(Peasants’ Revolt)(注1)

 (注1)ワット・タイラーの乱。「指導者は、神父のジョン・ボールとワット・タイラー。・・・背景には、まず1338年に始まる百年戦争がある。この戦争が長期化するにつれ、イ<ギリス>の国家財政は大幅な赤字を抱えた。これに対処すべく、王は農民に対し[上層に軽く下層に重い]人頭税などの課税強化を行った。次に、当時黒死病と呼ばれたペストが大流行したため、労働力不足に悩んだ領主が農民の移動の自由を奪い農奴制を強化していった。・・・<彼らは、>徒党を組んでロンドンに向かい、ついにはロンドンを占領した。反乱集団は土地証書を焼却し、カンタベリー大司教兼大法官であったサイモン・オブ・サドを殺害するなど暴力行為を行った。反乱軍は、リチャード2世に謁見を求めた。1回目<の>・・・会見では、国王が農奴制廃止や反乱参加者への恩赦など反乱軍の諸要求を全面的に認める姿勢を示したため、一部の勢力は反乱から離脱した。しかし、[翌日、]引き続き会見を求めた勢力と2回目の会見が・・・行われ、さらに教会財産の分配などを要求した。この際、王の傍にいたロンドン市長ウィリアム・ウォルワースがタイラーを斬りつけ殺害してしまった。その後、国王は反撃に転じ、ジョン・ボールなどその他の指導者も相次いで絞首刑にされ、反乱は鎮圧された。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%AE%E4%B9%B1
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%892%E4%B8%96_(%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B) ([]内)

 「・・・リチャード2世<(注2)>は、シェークスピアによって王位簒奪の犠牲者かつ殉教者として描かれた<(注3)>ところ、タイラー(Tyler)<(注4)>と彼の追従者達がロンドンを占拠して急進的変化を要求した時に、たったの14歳だった。・・・

 (注2)1367〜1400年。国王:1377〜99年。「エドワード3世の長男エドワード黒太子とその妃ジョーン・オブ・ケントの間に次男としてボルドーにおいて誕生した。・・・1377年・・・に祖父が死去すると10歳で王位を継承し、叔父のケンブリッジ伯エドマンド・オブ・ラングリーが摂政に立った。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%892%E4%B8%96_(%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82
 エドマンド・オブ・ラングリー(Edmund of Langley。1341〜1402年)は、「出生の地であるハートフォードシャーのキングス・ラングリーにちなんで、「エドマンド・オブ・ラングリー」というニックネームが付けられた。・・・1385年には<初代の>ヨーク公に列せられた。・・・彼の孫が後にランカスター朝から王位を奪おうと薔薇戦争を引き起こしたヨーク公リチャードである。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%A0%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%96%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%BC_(%E5%88%9D%E4%BB%A3%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%AF%E5%85%AC)
 ヘンリー4世(1367〜1413年)は、イギリス国王(1399年〜1413年)。「エドワード3世の第3子ジョン・オブ・ゴーントと初代ランカスター公・・・の次女・・・の長男。リンカンシャーのボリングブロク城で生まれたので、ヘンリー・ボリングブロク(Henry Bolingbroke)とも言われる。・・・従兄のリチャード2世に・・・パリに追放されて相続権を奪われ、翌年に父が死んで残ったランカスター公領も没収された。1399年7月・・・にイ<ギリス>に上陸。8月にはアイルランド遠征から帰還途中のリチャード2世をウェールズとの国境で破り、リチャードを逮捕した。9月・・・、議会はリチャード2世の廃位とヘンリーの王位継承を議決、ランカスター朝を開いた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC4%E4%B8%96_(%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B)
 (注3)「1595年頃に書かれたと信じられている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%89%E4%BA%8C%E4%B8%96_(%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%94%E3%82%A2)
 (注4)1341〜81年。「その名前から屋根の瓦職人だったと考えられている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%BC

 タイラーは、貴族達にしてやられた。
 彼が殺されるや、この反乱は融解して消えてしまった。
 リチャードは、彼の取り巻きに対し、「好きなように首をはね、手足を切断し、拷問せよとの白紙委任を行った」・・・」(D)

 (3)ジャック・ケードの反乱(Jack Cade rising)(注5)

 (注5)英仏百年戦争の戦費を賄うために政府が重税を課していたことや、ノルマンディー攻防戦(英側が敗北する)がらみでイギリス南端のケント州とサセックス州が仏兵や英兵によって荒らされたことへの不満から、1450年に、国王ヘンリー6世・・国王自身はフランスとの和平派だったが・・を変えるとともに君側の奸を取り除くために、ケント州の住民のケードが5,000人の部隊を率いてロンドンに攻め上ったもの。
 [ケード<は>、サザークのホワイトハート・イン (「ホワイトハート(白い雄鹿)」は王位を逐われたリチャード2世のシンボルであった) を本拠として・・・反乱を率いた。]
 国王はウォリックシャー州に逃亡し、反徒はロンドンを略奪したが、ロンドン橋の戦いで敗れ、彼らは四散し、ケードはやがて戦闘中に殺害された。
http://en.wikipedia.org/wiki/Jack_Cade
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC6%E4%B8%96_(%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B) ([]内)
 
 「・・・1450年のジャック・ケード(Jack Cade)の反乱は、後に薔薇戦争(wars of the roses)<(注6参照)>として知られるところとなった内紛へと状況が悪化して行く主要契機の一つだ。
 マクリンは、その「限定された意識と想像力の欠如」を嘆く。
 換言すれば、それは、革命が構成されるべき要素に係る彼の定義に合致することに失敗したということだ。・・・」(A)

 「・・・初期の成功の後、ジャック・ケードは「誇大妄想」症状を呈し始めた。
 彼は、ロンドンの人々を、不忠な宮廷人達を根絶やしにするとの彼の大義に結集することに失敗し、彼の追従者達に<ロンドンを>略奪することを許した。
 ヘンリー6世<(注6)>は改革を行うと誓約したが、この反乱が雲散霧消すると、この約束を破った。・・・」(D)

 (注6)「ヘンリー6世は<、ヘンリー4世の子であるところの、>[長期休戦状態にあった百年戦争を再開し、アジャンクールの戦い等で勝利し、フランスで広大な領地を獲得し、1420年に締結したトロワ条約でフランスの王位継承者・摂政となることが認められ、翌年、フランス国王シャルル6世の娘カトリーヌ(キャサリン・オブ・ヴァロワ)と結婚した]ヘンリー5世の唯一の子・・・。彼は1421年・・・ウィンザー城で誕生し、1422年・・・生後9ヶ月で父の死によりイ<ギリス>王位を、<そして同>年・・・には母方の祖父であるシャルル6世の死により、・・・トロワ条約に従ってフランス王位を継いだ。・・・<しかし、>ヘンリー5世の死後、ジャンヌ・ダルクの勝利に始まるヴァロア家の失地回復の中、イ<ギリス>における百年戦争継続の機運は失速して<おり、>・・・1453年<には>・・・大陸におけるイ<ギリス>の拠点はカレーを残すのみとな<り、>・・・この時点で百年戦争<は>事実上・・・終結<した>。・・・
 <同年、>ヘンリー6世は精神疾患に陥<ったところ、>、・・・不平貴族達・・・は、ヘンリーと対立するヨーク家の要求(始めは摂政位、後に王位自体に対する要求)を支持することで積極的に事態に関与した。これら諸侯の思惑が交錯する中で1455年・・・に薔薇戦争は勃発した。・・・この内乱の中でヘンリー6世はしばしばヨーク派に捕らえられた。・・・結局ヨーク公リチャードの息子エドワードが1461年・・・にイ<ギリス国>王に即位し、ヘンリー6世は実質的に退位させられ・・・逃<亡し>た・・・。エドワード4世治世の当初のランカスター派は、・・・イ<ギリス>北部とウェールズで抵抗運動を続けていたが、1465年にヘンリー6世は・・・捕えられ、ロンドン塔に送られて監禁され<る>。・・・<しかし、やがて、王妃マーガレットの画策もあり、フランス>国王ルイ11世の後押し<もあって、>1470年・・・ヘンリー6世<は>復位<する>。・・・<だが、>復位期間は6ヶ月も続かなかった。間もなく<ヘンリー6世の重臣が>ブルゴーニュ公国に宣戦を布告し<たため>、ブルゴーニュ公シャルル<が>エドワード4世に王位奪還に必要な軍事的支援を与え<、>エドワード4世<が>1471年・・・テュークスベリーの戦いで決定的な勝利を収め、ヘンリー6世・・・はロンドン塔に幽閉され、・・・<すぐ>にそこで亡くなった。・・・
 <なお、ヘンリー6世>はイートン校とケンブリッジ大学キングス・カレッジを設立した<ことで有名>。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC6%E4%B8%96_(%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC5%E4%B8%96_(%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B) ([]内)

(続く)

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