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太田述正コラム#5740(2012.9.23)
<地政学の再登場(その6)>(2013.1.8公開)

 古き時代の美学がカプラン氏に偏見を抱かせている。
 彼は、熱帯性気候は<人々を>無気力にすると考え、無秩序で落ち着かない(vibrant)「ラテン的」諸習慣を好まない。
 この本の最もできのよい何頁かの中で、彼は、米国の将来は、「ポリネシア的メスチゾ文明」としてしか展望はないとし、だから、イラクやアフガニスタンよりもメキシコを「何とかする(sort out)」方が重要だということになる、と主張する。
 彼は正しいのかもしれないが、彼には、メキシコが自分で自身を何とかする、という発想はなさそうだ。
 <それはともかく、>歴史というものを理解している読者全員を最も落胆させる点は、カプラン氏が中共とイランに関しては地理の論理に従わないことだ。
 彼は、中共が抱いているところの、東シナ海と南シナ海を排他的に警邏するとの大望について、米国の重荷の若干を下す機会としてではなく、脅威と見ている。

→ここは、日本等の地域の自由民主主義諸国に米国の負担を肩代わりさせる機会、ということであれば、その通りです。(太田)

 <また、>彼は、イランの数多の海岸線、石油資源、及び、イランが高原であることによって<外敵から>保護されていることが、イランを<この地域の>「枢軸」にし、無敵にしていると考えつつも、<そんな>イランとの宥和については病的なほど慎重だ。

→ここは、反対です。
 宗教原理主義的にして侵略的な専制国家である現在のイランとの宥和などあってはならないし、ありえないからです。(太田)

 同じ近視眼が、ローマ皇帝ヘラクレイオス(Heraclius)<(注13)>をして、両帝国を打ち負かした侵略者達に直面してさえ、ペルシャと提携することを妨げせしめた。

 (注13)ヘラクレイオス1世。575?〜641年。アルメニア人。「東ローマ帝国中期の皇帝(在位:610年〜641年)。ヘラクレイオス朝の開祖。・・・サーサーン朝ペルシア帝国との6年にわたる戦いに勝利し、奪われた領土を回復したものの、当時勃興してきたイスラム帝国に敗れ、サーサーン朝から奪い返した領土は再び失われた。・・・彼の治世は、東ローマ帝国の公用語がラテン語からギリシア語へ変わり、軍事権と行政権が一体化したテマ(軍管区)制が始まるなど(テマ制の起源に付いては諸説あり)、古代のローマ帝国から「キリスト教化されたギリシア人のローマ帝国」と呼ばれるような、ギリシア的要素の強い中世ローマ帝国の幕開けとなった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%82%B9

→ここは、同意です。(太田)

 米国も、前に、不必要な諸敵・・1898年にスペイン、1930年代に日本、1960年代にベトナム・・をつくったところ、<これら諸敵と戦争をした>結果は全て同じであ<り、失敗に終わ>った。
 
→米国人たる書評子が、前にも(コラム#5719で)示唆したように、米国は、米西戦争、太平洋戦争、ベトナム戦争を行うべきではなく、むしろスペイン、日本、北ベトナムと提携すべきだった、と主張していることは、高く評価すべきでしょう。
 なお、私は、米西戦争の米国によるフィリピン侵略部分に着目すれば、この三つの戦争は、米国による一つながりのアジア大侵略戦争である・・米西戦争は太平洋戦争へのプロローグ、(国共内戦や朝鮮戦争や)ベトナム戦争は太平洋戦争のエピローグ・・、ととらえるべきだと考えている次第です。(コラム#省略)(太田)

 さて、政策形成者達は、地理と文化の均衡点をどこに見出すべきなのだろうか。
 古い格言であるところの、文化「はヒト(chaps)に係るものであり、地理は地図(maps)に係るものである」に従えば、文化だ。
 我々は、几帳面にもヒポグリフ諸島<(注14)>を地図から抜き取ってきたが、<それに代わって>ヒト(people)を<地図に>入れ戻せ、と我々に伝えるところのカプラン氏は正しい。

 (注14)hippogriphs=Hippogriffs。サモアの東側に位置する、南太平洋におけるフランス領ポリネシアの諸島。
http://ejje.weblio.jp/content/%E3%83%92%E3%83%9D%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%95

 歴史と地理とは共存関係にあるのだ。
 我々は、<ヒトの>精神と知性について、それらを物理的世界の格子(grid)<、すなわち地理>と気概(grit)<すなわち文化>の中に位置づけることで最も良く理解することができる。
 ヒトは物理的世界に所属しているけれど、ヒトはそれに閉じ込められてはいるわけではないのだ。・・・」(A)

 「・・・カプランは、彼の地理の強調が、アイザイア・バーリン(Isaiah Berlin)<(注15)>が、その有名な1954年の論文、『歴史の必然性(Historical Inevitability)』の中で拒否したところの、決定論的思考の一種へと引きずり込む懼れがあることを否定しない。

 (注15)1909〜97年。「ユダヤ系の政治哲学者にして思想史家・・・ロシア帝政下のラトビア・リガ生まれ。・・・1915年、第一次世界大戦中に・・・父母とともにペトログラードに移る。1917年にロシア革命を目撃している。彼は1919年以降、イギリスに住むようになり、オックスフォード大学に進学。第二次大戦中は戦時勤務の要員として外務省に勤務。1957年に[オックスフォード大学の]社会・政治理論の教授に就任。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%82%B6%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3
http://en.wikipedia.org/wiki/Isaiah_Berlin ([]内)

 カプランは、フランスの哲学者のレイモン・アロン(Raymond Aron)<(注16)>が言うところの、「「確率的な決定論(probabilistic determinism)」の真実に根差した冷静な(sober)倫理」に賛同する。

 (注16)1905〜83年。「フランスの社会学者、哲学者。パリ生まれ。・・・高等師範学校卒業。・・・大学で教職に就いた。第二次世界大戦が始まると、イギリスに逃れた。戦後はフランスに戻り、フランス国立行政学院<等>・・・で教鞭を執った・・・。国際政治や戦争論に関する・・・議論を展開した・・・。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AD%E3%83%B3

 カプランは、「鍵となる言葉は「確率的な」であり、<ヒトの>諸集団<の文化>と地勢(terrain)とに明白な違いがあることを認識しつつも、その違いを過度に単純化することなく、数多の可能性(possibilities)がありうるとの余地を残すところの、部分的ないし躊躇付きの決定論を信奉する」と言う。
 そして彼は、地理的現実を直感し、米国のバルカンへの関与を支持しつつもイラクへの関与に反対したところの、米国のリベラルな軍事介入論者達の智慧に言及する。
 かつてのユーゴスラヴィアは、かつてのオスマン帝国の最も進歩していたところの、中欧に隣接した最西端に位置していたのに対し、メソポタミアは、そのもっとも混沌とした最東端に位置していた。
 この事実が、現在に至るまでの<旧ユーゴスラヴィア諸国とイラクの>政治的発展に影響を与えてきたがゆえに、イラクに対する軍事介入はやり過ぎであったという結果にあいなったのだ、と。

→この後に、「しかし、これも、地理と言うよりは、文化が旧ユーゴスラヴィア諸国とイラクの現在の違いをもたらしたと見るべきだろう」といった文章を入れないと、この書評子の論旨が明確になりませんね。(太田)

 アングロサクソンは<アメリカ大陸に>建設するためにやってきたので極めて成功を収めたが、スペイン人は征服するためにやってきた<ので余り成功を収めなかった>。
 <つまり、>メキシコの地理が彼らを征服者(conquistador)にしたのではなく、彼らがいかなる者達であったかが彼らを<メキシコ征服に>おびき寄せたのだ。
 或いはまた、異なった出生率がイギリス系アメリカ大陸人が、十分な人口がなかったためにメキシコが支配的たりえなかった地に広くいきわたったことがアングロサクソンのこの地における支配を育んだ、ということを考えてもみよ。
 一体これは地理の産物なのか文化の産物なのか?
 仮に前者だとして、地理的決定論者は、この数十年に起こった<米墨の>出生率格差の逆転をどのように説明するのだろうか。
 <要するに、北アメリカ大陸の>地理は何も変わってはいないけれど、<米墨の>文化的諸姿勢と習俗(mores)が変わった、ということなのだ。・・・」(C)

3 終わりに

 地政学の再登場は、やはり失敗に終わったと言ってよさそうですね。

(完)

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