太田述正ブログは移転しました 。
www.ohtan.net
www.ohtan.net/blog/
太田述正コラム#5652(2012.8.10)
<欧米帝国主義論再考(その4)>(2012.11.25公開)
(5)反欧米帝国主義思想批判
「・・・ミシュラが指摘するように、欧米型近代化に対するこのような批判者達は無傷ではすまなかった。
多くのアジアの著述家達や活動家達は、欧米の靴の下に永久に踏んづけられていたくないのなら、欧米の方法論と価値を採択しなければならないと信じた。
ミシュラの物語の核心にあるのは、欧米の力によって押しつぶされることを避けるためには、アジア諸国は欧米の国家モデルを採択する必要がある、というものだ。
それは皮肉にしてある意味で悲劇的な物語だ。・・・
ミシュラが力を込めて主張するのは、彼ら<が自ら>に押し付けるべく促されたことをアジア諸国が見出したところの、単一国民国家(unitary nation-state)という欧州モデル政体のインパクトだった。
日本は、<アジア諸国の中で、>少なくとも戦間期の軍国主義への小旅行が始まるまでは、最も成功を収めた。
しかし、日本以外においては、その結果<が成功であったのか失敗であったのか>は極めて曖昧模糊としていた。
<日本に比べて>はるかに多様な国である支那の場合は、その国民形成の過程で、欧州諸国<自身が経験したところ>の<上から>押し付けられた強制的文化的均質化を、そっくりそのままより大きな規模で行うこととなった。
この道程をたどることによって、アジア諸国は、欧米に挑戦することができてきた。
しかし、<これら諸国が払ったところの、>そのコストは大きなものだった。・・・」(C)
「・・・ミシュラのテーゼは、欧州の帝国主義は、欧州の技術的かつ「組織的」な種々の技(skills)は尊敬され妬まれたものの、その矛先が向けられた側において、ほとんど最初から憤りの対象となったし、この憤りは、植民地支配に抗する叛乱であったセポイの叛乱や、20世紀の革命家達や自由の戦士達であったところの、(その多くがイスラムの)反欧米思想家達や扇動者達の著作や活動の形をとった、というものだ。
次いで、20世紀の過程で欧米の諸帝国が瓦解するにつれ、<これら諸帝国の>元の臣民達は、欧米の社会的・政治的組織・・とりわけ、国民国家・・の諸観念の真似をすることで、そしてまた、「近代性」の不可避的至上諸命題に身を委ねることで、自分達の独立を主張し、或いは再主張した。
その結果、彼らは、「欧米における、自分で自分を拷問にかけたような、しばしば悲劇的な近代的「発展」の経験…を繰り返す羽目に陥り、費用を顧みずに経済成長を追求したことで、ど派手な選良達を生み出すとともに、…既に警戒水域に達していたところの、社会的かつ経済的不平等を拡大させてしまった。」・・・」(D)
⇒この後は現在のアジアの話になり、また、ミシュラの見解なのか書評子達の見解なのか、不分明な部分も少なくないこともあり、私としては、原著を読んでいないという留保付きで、一旦ここで、中間的なコメントを付しておきたいと思います。
まず、積極的に評価したいのは、日本が日露戦争以降先の大戦までの間でアジアにおいて果たした役割を、ほぼ先の大戦直後の日本における、林房雄らの大東亜戦争肯定論
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E6%88%A6%E4%BA%89%E8%82%AF%E5%AE%9A%E8%AB%96
並みに前向きにとらえている点です。
他方、消極的な評価を下さざるを得ない点は多く、ざっと気が付いただけでも以下のとおりです。
一、ミシュラは、「アジア」に対する帝国主義(注6)に話を限定しているところ、少なくとも「アフリカ」をも射程に入れるべきだった。(ミシュラはエジプトには言及しているが、恐らく彼は中近東をアジアと見なしているのだろう。)
(注6)「19世紀中期以降の移民を主目的としない植民地獲得を指して使われる用語」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E4%B8%BB%E7%BE%A9
二、ミシュラが事実上英国の帝国主義に話をしぼっているように見えるのもおかしい。それならば、最初から、英国の帝国主義だけを論じるべきだったのではなかろうか。、
三、英国と欧州大陸諸国とでは態様こそ違え、ミシュラが(地理的意味での)欧州諸国の帝国主義を経済目的としたのは正しいが、そうすると安全保障目的が大きかったロシアの帝国主義や、膨張のための膨張を目的とした米国の帝国主義・・ただし米国の第二次世界大戦後の帝国主義は異なる・・が「欧米」の帝国主義から抜け落ちてしまう。
事実、ミシュラはこの露米両国の帝国主義に言及していないように見える。
四、一番問題なのは、日本を欧州(欧米)帝国主義の客体としてしか見ていないことだ。日本を帝国主義国家でもあった存在として直視しておれば、それが、安全保障目的を主とした点においてロシアの帝国主義
http://en.wikipedia.org/wiki/Expansion_of_Russia_1500%E2%80%931800
・・や第二次世界大戦後の米国の帝国主義・・に相通ずるものがあったことが浮き彫りになってきたはずだ。
五、また、仮に日本を欧州(欧米)帝国主義の客体と見るとしても、日本を単に欧米の国民国家モデルの成功裏の採択者と見てそこで思考停止してしまっているのも困ったものだ。
思考停止するにしても、どうして日本だけが、或いはどうして日本が最もそれに成功したのかをミシュラが追求しなかったように見えるのは不可思議だし、このことにも関連し、日本がタゴールが言うような「自分達自身の精神的な(spiritual)諸伝統を利用」した可能性をミシュラが追求していないように見えるのも遺憾だ。
六、ミシュラが共産主義に言及しつつも、ソ連時代のロシアの(赤露)帝国主義にも、また、それ以前のロシア帝国主義にも、はたまた、ロシア帝国主義と英帝国主義の間のグレート・ゲームにも言及していないように見えるのも不可思議千万だ。
七、このこととも関連し、このグレートゲームの一端を日英同盟という形で担った日本(日本帝国主義)という視点も、第二次世界大戦後の米帝国主義の先駆けとして、東アジアで赤露帝国主義に対する抑止政策を一貫して、たった一か国でもって展開した日本(日本帝国主義)という視点も、ミシュラからは完全に抜け落ちている(どころか、そんな戦間期の日本を軍国主義への小旅行と貶めて恥じない)のは、犯罪的ですらある、と私は思う。(太田)
(続く)
<欧米帝国主義論再考(その4)>(2012.11.25公開)
(5)反欧米帝国主義思想批判
「・・・ミシュラが指摘するように、欧米型近代化に対するこのような批判者達は無傷ではすまなかった。
多くのアジアの著述家達や活動家達は、欧米の靴の下に永久に踏んづけられていたくないのなら、欧米の方法論と価値を採択しなければならないと信じた。
ミシュラの物語の核心にあるのは、欧米の力によって押しつぶされることを避けるためには、アジア諸国は欧米の国家モデルを採択する必要がある、というものだ。
それは皮肉にしてある意味で悲劇的な物語だ。・・・
ミシュラが力を込めて主張するのは、彼ら<が自ら>に押し付けるべく促されたことをアジア諸国が見出したところの、単一国民国家(unitary nation-state)という欧州モデル政体のインパクトだった。
日本は、<アジア諸国の中で、>少なくとも戦間期の軍国主義への小旅行が始まるまでは、最も成功を収めた。
しかし、日本以外においては、その結果<が成功であったのか失敗であったのか>は極めて曖昧模糊としていた。
<日本に比べて>はるかに多様な国である支那の場合は、その国民形成の過程で、欧州諸国<自身が経験したところ>の<上から>押し付けられた強制的文化的均質化を、そっくりそのままより大きな規模で行うこととなった。
この道程をたどることによって、アジア諸国は、欧米に挑戦することができてきた。
しかし、<これら諸国が払ったところの、>そのコストは大きなものだった。・・・」(C)
「・・・ミシュラのテーゼは、欧州の帝国主義は、欧州の技術的かつ「組織的」な種々の技(skills)は尊敬され妬まれたものの、その矛先が向けられた側において、ほとんど最初から憤りの対象となったし、この憤りは、植民地支配に抗する叛乱であったセポイの叛乱や、20世紀の革命家達や自由の戦士達であったところの、(その多くがイスラムの)反欧米思想家達や扇動者達の著作や活動の形をとった、というものだ。
次いで、20世紀の過程で欧米の諸帝国が瓦解するにつれ、<これら諸帝国の>元の臣民達は、欧米の社会的・政治的組織・・とりわけ、国民国家・・の諸観念の真似をすることで、そしてまた、「近代性」の不可避的至上諸命題に身を委ねることで、自分達の独立を主張し、或いは再主張した。
その結果、彼らは、「欧米における、自分で自分を拷問にかけたような、しばしば悲劇的な近代的「発展」の経験…を繰り返す羽目に陥り、費用を顧みずに経済成長を追求したことで、ど派手な選良達を生み出すとともに、…既に警戒水域に達していたところの、社会的かつ経済的不平等を拡大させてしまった。」・・・」(D)
⇒この後は現在のアジアの話になり、また、ミシュラの見解なのか書評子達の見解なのか、不分明な部分も少なくないこともあり、私としては、原著を読んでいないという留保付きで、一旦ここで、中間的なコメントを付しておきたいと思います。
まず、積極的に評価したいのは、日本が日露戦争以降先の大戦までの間でアジアにおいて果たした役割を、ほぼ先の大戦直後の日本における、林房雄らの大東亜戦争肯定論
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E6%88%A6%E4%BA%89%E8%82%AF%E5%AE%9A%E8%AB%96
並みに前向きにとらえている点です。
他方、消極的な評価を下さざるを得ない点は多く、ざっと気が付いただけでも以下のとおりです。
一、ミシュラは、「アジア」に対する帝国主義(注6)に話を限定しているところ、少なくとも「アフリカ」をも射程に入れるべきだった。(ミシュラはエジプトには言及しているが、恐らく彼は中近東をアジアと見なしているのだろう。)
(注6)「19世紀中期以降の移民を主目的としない植民地獲得を指して使われる用語」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E4%B8%BB%E7%BE%A9
二、ミシュラが事実上英国の帝国主義に話をしぼっているように見えるのもおかしい。それならば、最初から、英国の帝国主義だけを論じるべきだったのではなかろうか。、
三、英国と欧州大陸諸国とでは態様こそ違え、ミシュラが(地理的意味での)欧州諸国の帝国主義を経済目的としたのは正しいが、そうすると安全保障目的が大きかったロシアの帝国主義や、膨張のための膨張を目的とした米国の帝国主義・・ただし米国の第二次世界大戦後の帝国主義は異なる・・が「欧米」の帝国主義から抜け落ちてしまう。
事実、ミシュラはこの露米両国の帝国主義に言及していないように見える。
四、一番問題なのは、日本を欧州(欧米)帝国主義の客体としてしか見ていないことだ。日本を帝国主義国家でもあった存在として直視しておれば、それが、安全保障目的を主とした点においてロシアの帝国主義
http://en.wikipedia.org/wiki/Expansion_of_Russia_1500%E2%80%931800
・・や第二次世界大戦後の米国の帝国主義・・に相通ずるものがあったことが浮き彫りになってきたはずだ。
五、また、仮に日本を欧州(欧米)帝国主義の客体と見るとしても、日本を単に欧米の国民国家モデルの成功裏の採択者と見てそこで思考停止してしまっているのも困ったものだ。
思考停止するにしても、どうして日本だけが、或いはどうして日本が最もそれに成功したのかをミシュラが追求しなかったように見えるのは不可思議だし、このことにも関連し、日本がタゴールが言うような「自分達自身の精神的な(spiritual)諸伝統を利用」した可能性をミシュラが追求していないように見えるのも遺憾だ。
六、ミシュラが共産主義に言及しつつも、ソ連時代のロシアの(赤露)帝国主義にも、また、それ以前のロシア帝国主義にも、はたまた、ロシア帝国主義と英帝国主義の間のグレート・ゲームにも言及していないように見えるのも不可思議千万だ。
七、このこととも関連し、このグレートゲームの一端を日英同盟という形で担った日本(日本帝国主義)という視点も、第二次世界大戦後の米帝国主義の先駆けとして、東アジアで赤露帝国主義に対する抑止政策を一貫して、たった一か国でもって展開した日本(日本帝国主義)という視点も、ミシュラからは完全に抜け落ちている(どころか、そんな戦間期の日本を軍国主義への小旅行と貶めて恥じない)のは、犯罪的ですらある、と私は思う。(太田)
(続く)
太田述正ブログは移転しました 。
www.ohtan.net
www.ohtan.net/blog/