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太田述正コラム#5628(2012.7.29)
<中共と毛沢東思想(その2)>(2012.11.13公開)
他方、この本への寄稿者の多くが唱えているのが、毛沢東思想を重視する考え方です。
「・・・北京政府が崩壊を免れているのは、毛沢東主義の中核的諸要素を放棄したからではなく、むしろ、同主義の実践を続けているからこそなのだ。・・・
この「革命的遺産」は、絶え間ない変化、緊張関係の管理、継続的実験とアドホックな調整、に力点を置く。・・・」(A)
「・・・中共のガバナンスの諸技術は、<上記のような>・・・毛沢東的印字の筆跡を帯びている。
このような諸技術は、他の主要な諸政体において行われている政策形成(policy-making)への、より官僚的かつ法律主義的アプローチとはひどく対照的な考え方(mindset)と方法論(method)を反映しているのだ。・・・」(C)
「・・・革命の諸遺産なくして、中共の過去30年間に及ぶ恐るべき経済成長と瞠目すべき政治的安定<を達成すること>は不可能だったろう。
諸改革は、とりわけ、いわゆるゲリラ型政策形成によって裨益してきた。
ゲリラ諸戦争と革命的動員によって培われたところの、この政策の型は、絶え間のない変化とアドホックな調整を特徴としており、諸改革における諸不確実性と予期せぬ諸出来事に対処するにあたってとりわけ有効だった。・・・
毛沢東的な政策の型の諸淵源は、「遍在的な諸緊張関係と諸矛盾を管理するにあたって、流動的、弁証法的、かつ戦術的アプローチを強調する」支那における伝統的思想の長い伝統(line)において見い出すことができる。・・・
このような長い伝統の陰に隠れて、官僚的かつ法律主義的諸アプローチの様相を帯びるところの、近代化の欧米的模範は、中共において、心から抱懐されることはほとんどなかった。・・・
共産党地域根拠地に拠っていた時代から、中国共産党は、「点から表面へと進行させる(proceeding from point to surface)」戦術を培った。
それは、地域の官吏達が自分達自身で諸模範を培う余地を与えるとともに、党中央が最終的発言権を留保する、というものだった。
この営為の型(work style)は、改革の時代における種々の革新的諸政策に貢献した。・・・
・・・中国共産党は、諸実験・・これは改革の時代より前の時代においては極めて稀だったと・・・考え<られ>る・・だけでなく、地域の諸実践(practices)からも広範に学んだのだ。・・・」(B)
私の結論的感想を最初に申し上げておきますが、毛沢東主義は、改革開放後の中共の「瞠目すべき政治的安定」を説明できても、「恐るべき経済成長」を説明することはできないと考えます。
毛沢東主義は、清崩壊後の軍閥跋扈の内戦の支那の統一を説明することができるだけなのです。
その理由は以下のとおりです。
毛沢東主義の「諸淵源<を>支那における伝統的思想の長い伝統(line)において見い出すことができる」ことは確かです。
私自身は、毛沢東主義は、周崩壊後の諸侯割拠の戦国の支那を統一した秦の始皇帝の主義を基本的に踏襲したものである、と見ています。
始皇帝は、韓非子
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E9%9D%9E%E5%AD%90
を信奉していた
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D
ところ、毛沢東は、マルクスレーニン主義を韓非子的に読んだ、というのが私の仮説です。
「『韓非子』「五蠹」には「優れた王は不変の手法ではなく時々に対応する。古代の例にただ倣う事は、切り株の番をするようなものだ」と論じられている・・・
『韓非子』「姦劫弑臣」には「愚かな学者らは古い本を持ち出しては喚き合うだけで、目前の政治の邪魔をする」とある・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9 前掲(←これは、始皇帝に関する日本語ウィキペディアです。)
これはまさに、「絶え間ない変化、緊張関係の管理、継続的実験とアドホックな調整、に力点を置く・・・ゲリラ型政策形成」(上出)の勧めであり、毛沢東もしばしば行ったところの、焚書坑儒的なインテリや反対意見の封殺の勧めです。
ちなみに、毛沢東は、始皇帝の生き写しのような人物だった、というのがもう一つのは私の仮説です。
始皇帝は、「恩を感じる事などほとんど無く虎狼のように残忍・・・。目的のために下手に出るが、・・・中国統一の目的を達したならば、天下はすべて<彼>の奴隷になってしまうだろうと予想<されたところ、その通りになった。>・・・
他人に信頼を置かず一度でも疑いが頭をもたげればどのような令が下るかわからない・・・
歴史や伝統でさえ何でも思い通りにできると考えている・・・権勢の権化<だ。>・・・」と当時の有識者が始皇帝論を述べています(司馬遷『史記』)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D 前掲
が、これは、ほぼぴったり毛沢東にもあてはまるからです。
(続く)
<中共と毛沢東思想(その2)>(2012.11.13公開)
他方、この本への寄稿者の多くが唱えているのが、毛沢東思想を重視する考え方です。
「・・・北京政府が崩壊を免れているのは、毛沢東主義の中核的諸要素を放棄したからではなく、むしろ、同主義の実践を続けているからこそなのだ。・・・
この「革命的遺産」は、絶え間ない変化、緊張関係の管理、継続的実験とアドホックな調整、に力点を置く。・・・」(A)
「・・・中共のガバナンスの諸技術は、<上記のような>・・・毛沢東的印字の筆跡を帯びている。
このような諸技術は、他の主要な諸政体において行われている政策形成(policy-making)への、より官僚的かつ法律主義的アプローチとはひどく対照的な考え方(mindset)と方法論(method)を反映しているのだ。・・・」(C)
「・・・革命の諸遺産なくして、中共の過去30年間に及ぶ恐るべき経済成長と瞠目すべき政治的安定<を達成すること>は不可能だったろう。
諸改革は、とりわけ、いわゆるゲリラ型政策形成によって裨益してきた。
ゲリラ諸戦争と革命的動員によって培われたところの、この政策の型は、絶え間のない変化とアドホックな調整を特徴としており、諸改革における諸不確実性と予期せぬ諸出来事に対処するにあたってとりわけ有効だった。・・・
毛沢東的な政策の型の諸淵源は、「遍在的な諸緊張関係と諸矛盾を管理するにあたって、流動的、弁証法的、かつ戦術的アプローチを強調する」支那における伝統的思想の長い伝統(line)において見い出すことができる。・・・
このような長い伝統の陰に隠れて、官僚的かつ法律主義的諸アプローチの様相を帯びるところの、近代化の欧米的模範は、中共において、心から抱懐されることはほとんどなかった。・・・
共産党地域根拠地に拠っていた時代から、中国共産党は、「点から表面へと進行させる(proceeding from point to surface)」戦術を培った。
それは、地域の官吏達が自分達自身で諸模範を培う余地を与えるとともに、党中央が最終的発言権を留保する、というものだった。
この営為の型(work style)は、改革の時代における種々の革新的諸政策に貢献した。・・・
・・・中国共産党は、諸実験・・これは改革の時代より前の時代においては極めて稀だったと・・・考え<られ>る・・だけでなく、地域の諸実践(practices)からも広範に学んだのだ。・・・」(B)
私の結論的感想を最初に申し上げておきますが、毛沢東主義は、改革開放後の中共の「瞠目すべき政治的安定」を説明できても、「恐るべき経済成長」を説明することはできないと考えます。
毛沢東主義は、清崩壊後の軍閥跋扈の内戦の支那の統一を説明することができるだけなのです。
その理由は以下のとおりです。
毛沢東主義の「諸淵源<を>支那における伝統的思想の長い伝統(line)において見い出すことができる」ことは確かです。
私自身は、毛沢東主義は、周崩壊後の諸侯割拠の戦国の支那を統一した秦の始皇帝の主義を基本的に踏襲したものである、と見ています。
始皇帝は、韓非子
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E9%9D%9E%E5%AD%90
を信奉していた
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D
ところ、毛沢東は、マルクスレーニン主義を韓非子的に読んだ、というのが私の仮説です。
「『韓非子』「五蠹」には「優れた王は不変の手法ではなく時々に対応する。古代の例にただ倣う事は、切り株の番をするようなものだ」と論じられている・・・
『韓非子』「姦劫弑臣」には「愚かな学者らは古い本を持ち出しては喚き合うだけで、目前の政治の邪魔をする」とある・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9 前掲(←これは、始皇帝に関する日本語ウィキペディアです。)
これはまさに、「絶え間ない変化、緊張関係の管理、継続的実験とアドホックな調整、に力点を置く・・・ゲリラ型政策形成」(上出)の勧めであり、毛沢東もしばしば行ったところの、焚書坑儒的なインテリや反対意見の封殺の勧めです。
ちなみに、毛沢東は、始皇帝の生き写しのような人物だった、というのがもう一つのは私の仮説です。
始皇帝は、「恩を感じる事などほとんど無く虎狼のように残忍・・・。目的のために下手に出るが、・・・中国統一の目的を達したならば、天下はすべて<彼>の奴隷になってしまうだろうと予想<されたところ、その通りになった。>・・・
他人に信頼を置かず一度でも疑いが頭をもたげればどのような令が下るかわからない・・・
歴史や伝統でさえ何でも思い通りにできると考えている・・・権勢の権化<だ。>・・・」と当時の有識者が始皇帝論を述べています(司馬遷『史記』)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D 前掲
が、これは、ほぼぴったり毛沢東にもあてはまるからです。
(続く)
太田述正ブログは移転しました 。
www.ohtan.net
www.ohtan.net/blog/